田嶋樹の考察・藤村美香編 後編
それからしばらくすると、僕と藤村美香の噂はあっという間に広がっていった。
「田嶋、藤村さんと付き合ってるって本当かよ」
そんな下らない質問を、何度聞くようになったことか。
「付き合ってなんかいないさ。委員会が同じだけだよ」
「とか言って、ぶっちゃけ付き合ってんだろ?」
「……あはは」
人の話を聞く気があるのか。違うと言っているだろう。
付き合っているのではない。利用しているだけだ。そして彼女から一方的に、僕のことを想わせたいだけだ。
*
「藤村さん、さっきの授業のノート借りても良いかな?」
「あ、うん。どうぞ?」
授業が終わるとすぐ後ろを向き、彼女に声を掛ける。少ししつこいくらいでも彼女は嫌な顔をしないから、親密になるのに時間はかからなかった。
「委員会行こうか、藤村さん」
「藤村さん消しゴム忘れたの? 貸してあげるよ」
「ねぇ藤村さん」
後から考えてみると随分に滑稽だ。確かに、あれでは勘違いされても仕方ないのかもしれなかった。むしろ付き合っているという認識のされ方はマシな方だったろう。僕が片想いしている、と思われるよりは。
「ありがとう、田嶋くん」
しかし、どれだけ仲良くなろうと彼女の態度は変わらなかった。最初と同じ。他の男や女に対するものと同じなのだ。彼女が僕に惹かれている様子は、微塵も見受けられなかった。
どうやったら、藤村美香を振り向かせることが出来るだろう。
僕は本来の目的——藤村陸を陥れるという目的を時たま忘れるくらい、そのことを考えていた。
*
そして僕は、ある行動に出た。
放課後、教室に誰もいなくなったところで彼女を呼び出す。
「田嶋くん?」
「やあ、藤村さん」
彼女は誰にでも声を掛けるが、男に免疫があるわけではなさそうだ。そう悟った僕は、教室にやってきた彼女を壁に追い込んだ。片手をついて彼女を見下ろすと、戸惑ったように彼女は見上げてくる。
「た、田嶋くん……?」
「ねぇ、藤村さん。藤村さんは僕のこと、どう思ってる?」
顔を近付け、彼女を見つめる。すると彼女は、僅かに頬を赤くして僕から目を逸らした。
初々しい反応だ。顔が良いことを利用しての計算されたあざとさが感じられないところが良い。
「ど、どうって……その……」
「僕のこと、好きかな?」
僕の言う、好き、が恋愛感情を含んだ意味であると気付かないほど、彼女は鈍感ではないはずだ。そして彼女が、好きでない、と言いきれるわけがないと分かっていて問う僕は、卑怯者だろうか。
「え、えっと……」
彼女は混乱している。全て僕の想定通りだった。
ここで最後、彼女の肩に触れてから唇を重ねる。そうすれば確実に落ちる。いや、既成事実により落ちざるを得ない状況になる、と言ったほうが正しいが。
さあ、仕上げだ。まず、肩に触れて。
そう考えていたのに、手が、動かなかった。右手は体に、左手は壁にぴったりと貼り付けられてしまったかのように。
「た、田嶋くんごめんね。私、帰らなくちゃ。ば、バイバイ!」
何故だ、早く動かせ。そう思っている間に、彼女は僕からすり抜け逃げていった。取り残された僕は、呆然とする他なかった。しばらくしてようやく、手が動くようになる。
何だったのだ。何故、動くことが出来なかったのだ。
僕はここまで変わったというのに、まだ、まだ彼女に触れることが出来ないのか。僕の心の奥底にある彼女へのコンプレックスは、解消することが出来ないのか。
僕はまだ……彼女に一歩たりとも近付けていないのだ。
触れることが出来なかったのは、彼女を穢してしまうから。僕という醜い人間は彼女に釣り合わないのだと、体が拒否したのだ。
僕は決して、藤村美香には届かない。
「くそ……!」
何が自分に惚れさせる、だ。調子に乗った結果がこれじゃないか。自身の手によって自身の情けなさを思い知るなんて、何て馬鹿げている。
僕は、愚か者だ。
*
その日の部活が終わって着替える最中、僕は悶々としていた。
休憩中もミーティング中も、バスケをしている時間以外はどうしても彼女のこと、そして愚かな自分のことを考えてしまっていた。
そんな時に、ふと絡まれた。
「田嶋、藤村美香とどこまでいったんだよ」
また、その話か。しかもいつもより立ち入っており無遠慮さが増している。
僕は彼女に相応な存在ではない。もう何もかも忘れたいのだ。やめてくれ。
「だから、付き合ってないって言ってるでしょ」
「皆知ってんだし誤魔化すなよ。で、ヤったのか?」
「うわ、それ俺も聞きてぇ!」
下世話な話に、更衣室内の男子が群がってくる。
「なあ藤村の体ってどんな?」
「良いよなぁ、触りたい放題なんだぜ? 小さい声で、あっ、とか喘がれたらそれだけでイきそう」
「そこはさ、んっ、だろ?」
「どっちでも良いわ!」
分かっている。皆、本気で聞いてきているわけではないと。例えば有名人のゴシップ記事に騒ぐ一般人、とかその程度の意識なのだろう。
それでも、許せない。
僕ですら触れることは出来ない存在なんだぞ。それを、お前らごときが何を口にする。彼女で低俗な妄想をするな。彼女を卑しい欲望の対象にするな。
「俺イケメンに生まれてたら、佐木と藤村どっちも食ってたわ」
「ぎゃはは、どっちが上手かったとか言って自慢すんだろ!」
「現実見て彼女作れっつうの!」
ヤるだの食うだの。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。
ふざけるな。
僕は、思いきりロッカーを蹴り飛ばしていた。そのあまりの音の大きさに、更衣室内が静まり返る。
「た、田嶋? もしかして……怒った?」
「……いや? だって僕は、藤村さんの彼氏じゃないし。ちょっと足癖が悪くてね。驚かせたようなら謝るよ」
挨拶を終え、一番に更衣室を出た。
腹立たしい。俗な人間には、藤村美香の本当の価値が分からないのだ。自分の顔さえ良ければものに出来ると思い込んでいる。
やはり、僕が見張らねばならない。彼女を穢そうと企む連中を、僕が遠ざけるのだ。
彼女は常に、清らかな存在でなければいけないのだから。
*
僕が藤村陸と初めて対話したのは、それから数日後のことだった。詳細は省略するが、彼が僕を覚えていなかったことで彼に対する憎しみが増幅したのは言うまでもない。
しかし、興味深かったこともある。
「変な風に美香の名前出すんじゃねぇよ」
藤村美香を庇う発言。僕は自分の見解が誤っていなかったことに喜びを感じた。
藤村美香こそが、藤村陸の弱味。
藤村美香を守ろうと思う心と、藤村美香を利用してやろうと思う心。二つの感情が僕の中で等しく燻っていた。だが僕にとってそれは、決して矛盾するものではなかった。
だってどちらにせよ、僕は藤村美香のそばにいられるのだから。
*
結論から言うと、藤村美香を利用するという作戦は予想以上の成果を上げた。
僕と彼女が一緒にいるところを何度も目撃させ、僕という人間を藤村陸に意識させる。接近するごとに、彼の視線は僕に対する懐疑心に溢れるようになっていった。中々に勘の良い人間だ、と思った。
その間の——藤村美香を利用している間の僕は、憧れとか憎しみとかより、もっと客観的に、冷静に彼女を捉えていた。それは、彼女に対する感情のままに突き動かされていたそれまでとは違っていた。
「田嶋くん! はい、これ」
そういえば一度、彼女に差し入れを作ってもらったことがあった。あれは、素直に美味しかった。
料理上手。利用することで見えてきた、彼女の新たな一面だった。
*
ある日のことだった。部活が始まる前の更衣室で忘れ物に気付き教室に戻ったのだが、そこには三つの人影があった。一つは藤村美香。もう二つは、彼女の友人。何やら話し込んでいる様子で、僕は咄嗟にドアの陰に隠れた。
「田嶋の奴は信用出来ねぇって! あいつ、絶対何か裏がある」
「わ、私も、千歳ちゃんの言う通りだと思う。田嶋くん、美香ちゃんのこと時々凄く冷たい目で見てるの」
二人——確か、服部千歳と加藤穂奈美。
なるほど、僕が危険な人間だと彼女に忠告しているわけか。二人とも、勘が冴えている。もう少し聞かせてもらおう。
「そう、なのかな。でも田嶋くん、優しいし……」
「だーかーら、何か企んでるからだって! 別に僻みで言ってんじゃねぇんだよ? 穂奈美もあたしも、あんたを心配してんの!」
「も、勿論。それは分かってるよ」
「それにあいつの取り巻きに悪く言われてんだろ? 何かされる前に田嶋から離れろって」
僕の、取り巻き?
本当に女という生き物は下らない。そして同時に恐ろしい存在だ。気に入った男の前では媚を振りまくるくせに、気に食わぬ女には平気で暴力を振るうのだから。また彼女は、そんなどうでもいいものに巻き込まれてしまったというわけだ。
「あの人たち、何か怖いよ。いつか美香ちゃんにもっと酷いことするんじゃないかって、心配で……」
「どうしても離れられねぇなら、義理の兄貴に相談するなりなんなりした方が良いぜ?」
義理の兄貴?
それは一体、誰のことなのか。彼女には藤村陸以外にも兄がいるのだろうか。
「それは、出来ない。陸に迷惑かけたくないから……」
「だああ! 迷惑とかそういう問題かってんだよ! じゃあ美香、あんたあいつから自力で離れられんの?」
「で、でもいざとなったら、やっぱり相談した方が良いと思うよ。お兄さん、美香ちゃんのこと大切にしてると思うし……」
何だ、これは。まさかこんな形で、これほど面白い情報がもたらされるなんて。
つまり、義理の兄とは藤村陸その人だ。血が繋がって見えないのも当然だったのだ。二人に血の繋がりなど、元々ないのだから。
この驚くべき事実を利用にしない手はない。そう考えながら頭に浮かんだのは、恋人同士に見えたいつかの二人の光景だった。
「……分かった。気を付けてみるね。ありがとう、二人とも」
「危なくなったらすぐ呼ぶんだぞ? 駆けつけてやるから」
「私たち、美香ちゃんの味方だからね……!」
「ありがとう、本当に。本当にありがとう」
藤村美香、君は僕から離れられないはずだ。君の性格では、僕を完全に拒絶することなど出来ないのだから。
その時、僕の頭には一つのシナリオが描かれていた。
計画のために、彼女には犠牲になってもらう。そして、男がどれだけ危険な生き物かも知るべきだ。君は僕以外の男に騙されてはならない。
この時の僕は得られた情報に興奮していて、理性的な判断が出来なくなっていた。だからその計画が彼女を汚すものだと気付いた時には、もう遅かった。後戻りも出来ず開き直って、僕は彼女を穢した。
*
計画の第一歩。藤村美香を傷付けている、僕の取り巻きに取り入る。
「最近、藤村さん応援に来ないねぇ」
「冷たいよねー。私だったら毎日来るのにぃ」
「あはは。まあ、彼女じゃないから」
お前らは彼女でなくても毎日来て待ち伏せしているだろうが。なんて暴言は飲み込みつつ、僕の取り巻きの中でも一番過激だと思われる奴らに近付いた。
「ねーえ? あの人なんかやめてあたしとかどう?」
「あっ、ズルい! 田嶋くんあたしは?」
「うーん、どうかな? 皆魅力的だからなぁ」
「田嶋くんったら口上手い!」
お前たちを選ぶことなんて万に一つも、天地がひっくり返ろうとない。そう吐き出せたならどんなに楽になれるだろう。代わりに、これまで積み上げてきたものを全て壊すことになるが。
「あ、でも……ちょっと困ったことがあるんだ」
「えっ、何?」
僕が言ったことなら、真偽なんて確かめずに信じてくれる。連中を操るのは容易いことだった。
付き合っていたのではない。付きまとわれていた。やめてくれと言っても、聞いてくれなかった。
そんな風に話をでっち上げた。取り巻き連中がどんな行動に出るかなんて、火を見るより明らかだった。
僕は藤村美香に触れることが出来ない。例えそれが傷付ける目的であったとしてもだ。だから他人を利用した。無論ここで言う触れるという言葉は、単純に体に触れることだけを指しているのではない。それは、お分かり頂けると思う。
彼女の歪んだ顔を引き出してやりたい。どんな表情でも、それが彼女のものなら素晴らしいのだ。
*
数日後。
「田嶋くん! もうあの子のこと気にしなくて良いよ!」
「そうそう! うちらがちゃあんと言っといたから!」
「……そう。ありがとうね」
連中はかなり早く結果を出してくれた。この時は大方言葉で彼女を痛めつけたのだろうと思っていて、まさか彼女を殴りつけていたなんて想像もしていなかったが。
それから、このネタを持って藤村陸に接近した。これについても、また別に詳細を書き記すつもりだ。だが、藤村陸の感情を乱すことに成功した。激情を引き出すことに成功した。これだけは書いておく。
それは、僕に大きな興奮をもたらした。底知れぬ快感をもたらしたのだ。一度知ったら抜け出せなくなるような、快感を。
やはり、最高だ。藤村兄妹ほどの存在に、この先の人生において僕はもう二度と出会えないだろう。
*
日々は過ぎ、三学期の終業式を迎えた。
「藤村さん」
僕はその日、久々に藤村美香に声を掛けた。取り巻きが彼女を傷付けてから彼女は僕と距離を置いていて、僕もそれを黙認していたのだった。
「この後、ちょっと空いてる?」
「ご、ごめんね。私、用事が……」
そう誤魔化して逃げようとする彼女の鞄の取っ手を掴む。彼女は驚いた様子で僕を見た。
「お願いだよ。すぐ済むから」
「で、でも私っ……」
「藤村陸のこと、心配じゃないの?」
ハッとしたように僕を見る彼女。僕は微笑んだ。
「……携帯、貸してよ」
*
僕はついに最後の復讐を決行した。藤村美香の携帯を使って藤村陸を呼び出した。
「絶対に、僕の邪魔をするな」
彼女にはそう言い聞かせておいた。でないと、僕は彼女を傷付けなくてはいけなくなるかもしれなかったから。僕は彼女に触れられないのだから、そんな事態が訪れては困る。それに彼女のためにも、良くない。彼女はいつまでも綺麗であるべきだ。そう考えた、僕のささやかな思いやり。
それなのに。
「やめて田嶋くんっ!」
そう叫んで、彼女はあろうことか、僕の腕に触れてきたのだ。
「……何、藤村さん。邪魔しないでって言ったよね」
冷静な声を出しながらも、僕の感情の波は大きくうねっていた。
決して触れられない存在だった。触れることは許されない存在だった。それなのにその本人は、そんなこと全く気にせず僕に触れてくる。耐え難い感情の昂りが僕を襲って、倒れそうだった。
何故だ。何故僕なんかに触れる。触れては駄目だ。僕なんかに触れては。
君が、穢されてしまう。
「いっ……!」
「美香っ!」
気が付くと、僕は彼女を突き飛ばしていた。
傷付けてしまった。藤村美香を、僕の手で。あの、あの綺麗な彼女を、笑顔の美しい高潔な彼女を、穢してしまった。狼狽えた僕は、藤村陸を更に強く責め、殴りつけた。
「田嶋くんっ……お願い、もうっ……」
それでも、彼女は僕の前に立ち塞がった。藤村陸を庇うようにして。苦しげな彼女の表情は、その時初めて目にするものだった。いつも柔らかい表情をしていた彼女からは見出せなかったものだった。
嗚呼、藤村美香も生身の人間なのだ。僕と変わらない。
その瞬間、そう思った。当たり前の事実を、僕は改めて噛みしめた。
「……へぇ。案外しぶといんだね君は。もっと弱々しい人かと思った」
穢れない絶対的な存在なのだと思っていた。でも彼女には、傷付いても這い上がるような、血を流しても何かに立ち向かうような泥臭さも備わっていたのだ。それは、僕にとり大変衝撃的なものだった。
彼女にも、僕にあるような人間臭さがある。彼女も、僕と同じ人間なのだ。
「藤村さんのことは嫌いじゃなかったよ。今時珍しいほど馬鹿素直な子だなって感心してた」
全てが終わった後で、僕は彼女にそう言った。僕なりの強がりだった。
嫌いじゃなかった、なんて、その程度ではない。彼女は僕にとって、ずっとずっと、憧れだった。彼女に釣り合う人間になりたくて、彼女の隣が似合う人間になりたかった。結局最後まで、その願いは叶わなかったけど。
その後、僕はようやく彼女に触れることが出来た。僕の手は、震えていた。
「男は馬鹿だけど、馬鹿じゃなくなる瞬間もあるから。今回みたいに騙されたくなければ気を付けなよ」
それでもやはり彼女は、穢れるべきでない存在だ。
彼女の傷口に唇を落とす、なんてキザなことをしてみても、彼女はただ呆然としていた。他の女子ならもっと、良い反応を見せてくれただろうに。
君は初めから、僕なんて見ていなかったんだね。
階段を下りながら感じた焦燥は、失恋した時の感覚に少し、似ていた。
*
藤村美香。
この学校で彼女の名前を知らない人間はほとんどいない。
純真で健気で、可愛くて。身近だけど決して手の届かない、それでいて人間味のある、そんな存在だ。少なくとも、僕にとっては。
「おはよう」
初めてそう声を掛けられ微笑みを向けられた日から、僕はずっと彼女に憧憬の念を抱いていた。初めは片想いの相手として、そしていつの間にかそんな範疇を遥かに超えて、どんどん大きな存在となっていった。時には憎しみという形が生まれたこともあったが、彼女を意識しない瞬間なんてなかった。
僕は結局、彼女に近付けなかった。彼女を知れば知るほど、むしろ彼女は遠ざかっていった気がする。外に触れることは出来ても、その中身には決して触れられない。
君に手を伸ばしても、君はいつもすり抜ける。
どうすれば、君に近付けたかな。
「おはよう」
僕が彼女にそう返すと、彼女は必ず微笑んでくれた。美しい、大輪の花のような笑みだった。
僕自身の手で彼女から引き出した、彼女の笑顔。それが、今僕の心に残る唯一の、彼女の証だ。




