食堂
翌日。快晴だが、俺と美香にそんな天気を楽しむ余裕はなかった。
「もう、陸がギリギリまで起きないから」
平日朝の満員電車に揺られる。いつもは少し早めに家を出てラッシュを避けるのだが、今日は俺が寝坊したため、身動きのとれないほど人でいっぱいの車両に乗っているのだ。ちなみに美香はそんな俺に付き合って、二人共々遅刻しそうになっている。
「俺のせいにすんなよ。お前は先に出ればよかっただろ」
「だって陸、あの調子じゃいつ起きるか分からなかったし」
「けっ。俺はお前の遅刻の責任までは取らねえからな」
ドアのすぐ前に追いつめられた俺は、美香と至近距離で向かい合っている。体は強く密着し、美香の石鹸の香りが近かった。早く解放してくれ、と思いながら顔を上げ前を見る。美香の斜め後ろにいる男が視界に入った。ちらちらと美香の顔や足、腰を視線で舐め回していて、その気持ちの悪さ、不気味さに俺は身構えた。美香は揺れる車内で体勢を保つのに必死で、男に気付かない。
男の下卑た視線に対抗するようにして、既に近い美香の体を更にぐっと引き寄せた。美香はその顔を、俺の肩口にうずめる。
「陸、どうしたの?」
「別に」
もう一度男を見る。男は面白くなさそうに俺を睨んで、目を背けた。ざまあみろ、と心の中で毒づく。美香はただの妹だが、いや妹だからこそ、美香が性の対象、もとい欲望の対象として狙われるのは不愉快だった。年の近いぶん、余計に生々しく感じるのかもしれない。
「ねえ陸、そろそろ苦しいよ」
「ああ悪い」
美香を解放する。息苦しかったせいか、はたまた圧迫され暑くなったせいか、美香の顔は上気していた。
「チョコ、溶けないといいな」
「チョコ?」
「ほら、今日バレンタインだから」
美香に指摘され、思い出す。すっかり忘れていた。途端に、ずっしりと肩が重くなる。
バレンタインは毎年、女子の扱いにとにかく気を焼いている。学校にいても帰り道でも、帰宅するまでは油断ができない。普通に渡してくるやつらは勿論、机に黙って押し込んでいくやつや、すれ違いざまに勢いで渡してくるやつもいる。話したこともないやつから渡されたものなどは、特に困ってしまう。本命かそうでないか、よく分からないからだ。本命ならやっぱり、ぞんざいな扱いはしたくねえし。
「チッ、もっと早く言えっつの」
「陸、毎年凄い数もらってるもんね」
「……つーか、お前は誰にやるんだよ」
美香は例年、特定のやつにチョコを渡したりはしていない。それが今日は持っていると言うのだから、何かあったな、と興味がわくのも当然だった。でも、にやついた俺に美香は、女友達にやるだけだと言って苦笑した。俺は肩をすくめる。美香も浮いた話の一つや二つ、持てばいいものを。
「でもね、一応広井くんと小峰くんにも作ってきたの。受け取ってもらえるようだったら、陸、渡してくれる?」
「……それ、義理だよな」
「え、う、うん」
悠太には強く、義理であることを強調しておこう。そうでないと、あいつは必ず調子に乗る。俊也に関しては食べられれば満足だろうから、何も言う必要はないだろうけど。
「陸と海斗のは冷蔵庫に入ってるけど、たくさん貰うだろうから食べられそうだったらでいいよ」
そう付け足した後、美香は口を閉ざしてしまった。俺にはまだ一つ関心事があるのだが、美香は自発的に話しそうにない。反対側のドアから射し込む陽光がぎらりと網膜を直撃して、俺は目を細めた。
「田嶋にはやんねえの?」
それによって美香の田嶋への好感度がある程度測れるだろう、と考えながら問う。美香は微妙な顔をした。
「持ってはいるよ。でも田嶋くんもいっぱい貰うだろうから、渡すかどうかは分からないかな」
つまり、作ったということか。そうなると美香もやはり、結構田嶋に好感を寄せているんだろうか。悠太がこれを聞いたら、立ち直れないくらいのショックを受けるに違いない。想像してみたら、少し笑えた。
電車が駅に到着すると、俺たちは車両を飛び出し出来得る限りの速さで走った。おかげで俺は、なんとか遅刻を免れたのだった。なに間に合っちゃってんだよ遅刻魔、と俺に喧嘩をふっかけてきた悠太の脳天には、拳を振り落としておいた。
*
案の定、俺は朝からチョコの扱いでてんてこまいだった。そんな中でようやく、昼休みを迎える。今日は朝の遅刻騒ぎで弁当がないため、悠太と俊也と学食へ向かった。賑やかな廊下へと出たところで、新井が声をかけられる。
「陸っ。昨日はどうも。日曜はよろしくねえ」
「ああ、分かったよ」
「うふふ、じゃあまた」
何故か一瞬俺に腕を絡めてから、新井は教室へ舞い戻っていった。その後ろ姿を見つめていたら突然背中を殴られる。振り返ると悠太の恐ろしい顔があって、俺はマヌケにも後退りしてしまった。悠太は唾を飛ばさん勢いでがなりたてる。
「てめえまた新しい彼女か、ええ⁉︎ この前のと別れてから一ヶ月も経ってねえだろうが!」
「別に彼女じゃねえよっ。野暮用頼まれただけだ」
「どんなだよ」
事情を軽く説明する。しかしそれが火に油を注ぐ形となったらしく、悠太はますます暴れ出した。昼休み開始直後、人の行き来が激しい廊下で、悠太は迷惑そうな顔を向けられていた。
「くっそお! 結局顔がいいからそうなるんだろっ。顔が全てなんだろ⁉︎」
「そんなん俺に言うなっての」
「なんなんだよ! 義理とは言え美香ちゃんからチョコ貰えて、有頂天だった俺の気分を落としやがって!」
「……俊也、こいつどうにかしてくれ」
「悠太、ほら行くぞ」
俊也が悠太を引っ張っていく。その後を、溜息を吐いて歩いていった。
食堂は教室の並ぶ南校舎でなく、新設の北校舎にある。一階の渡り廊下を歩行し、左折してすぐ食堂が見えてきた。席は既にほとんど埋まっており、奥の空席をどうにか確保して、発券し注文を済ませる。
「あーあ、イケメンはそれだけで人生イージーモードだよなあ。滅びろよ」
うどんの上の半熟卵をぐさぐさ刺しながら悠太は言う。ここの玉子とじうどんは悠太の好物だ。俺は悠太のイケメンコンプレックスにうんざりしながら、醤油ラーメンを啜った。
「お前だって別にそこまで酷くねえだろが」
「陸が言うと嫌味にしか聞こえねっつの!」
「……あ」
「なんだよ俊也。またなんかあったのかっ」
「あれ。田嶋と藤村」
俊也の指差す方向には、確かに田嶋と美香がいた。食堂の端の二人がけに座っている。田嶋の表情は此方からよく見えないが、美香は口許に手を当てて笑っていて、どことなく楽しそうな感じだ。これは相当良い雰囲気だな、と思ってから、ハッとする。悠太は割り箸を握ったまま、ぶるぶる震えていた。
「美香ちゃんだけはっ、美香ちゃんだけはイケメンに靡かないと思ってたのにー!」
「悠太落ち着けっ。美香たちに聞こえるぞ」
「うるせえ! くそっ、田嶋のどこがいいんだよー!」
そう嘆くと、悠太はバッとテーブルに伏せってしまった。右肩を揺さぶってみても、起きる気配はない。あーあ、美香のやつ、どう責任取るつもりだよ。
「陸、どうすんだこれ」
「知らね。もうほっとけよ。早く食べねえと昼休み終わっちまうし」
メンマをつまみ、咀嚼した。俊也は豚カツ定食の手を止め、箸で悠太の頭をつついている。悠太からの反応はないようだった。
でも、と俺は思考を巡らす。美香が男とあんな風に一緒にいるのは本当に珍しい、もしかしたら初めてか。相手が田嶋だというのが若干引っかかるが、まあいいことだろう。これで、美香のあれこれについて俺が絡まれることも少しは減るはずだ。
「ったく、美香の何がいんだか。俺は佐木の方がマシだと思うけど」
「俺は美香ちゃん派なんだよっ」
不意に悠太が復活した。伸び始めているうどんを、急いで啜っている。
「美香ちゃんにはな、佐木にも他の女子にもない魅力がいっぱいあるの!」
「……ああ、はいはい」
佐木とは、美香と並び男子の間で学年のアイドル的存在とされている女子だ。明るくハキハキとした美人で、美香とはかなり属性が異なる。直接の恋愛相手となるかどうかは別に、憧れの対象として、二人は男子の人気を二分していた。だがわずかに佐木派が優勢らしい。
「まあ、悠太は相手が悪すぎたな。田嶋じゃお前が勝てるはずない」
「俊也、てめえな。慰めてんのかよ、貶してんのかよ」
「慰めてる」
俊也の分かりづらい慰めは置いとくにしても、悠太にもそろそろ本気の恋愛相手を作る必要があるようだ。どうしたって、悠太と美香が並んでいる光景なんて考えられないのが現実なんだから。
「あ、こっちに来るぞ」
俊也の言葉に、悠太が顔を上げた。俺もちらと見る。田嶋と美香は席を立って、此方にある返却口へ向かってきていた。俺はスープを飲む。一瞬、田嶋と目が合った。気のせいかと思ったが、田嶋は真っ直ぐと俺たちの方に来た。
「藤村くんじゃない」
なんだかわざとらしい響きで、田嶋に声をかけられる。田嶋の後ろについていた美香も俺に気付いたようで、ひょいと顔を出した。
「なんか用か」
「いや、別に。姿が見えたから声をかけただけだよ。じゃあ行こう、藤村さん」
「み、美香ちゃんっ」
田嶋を追おうとした美香を、悠太が立ち上がって引き止めた。美香は振り返って、悠太を見つめる。
「広井くん。どうかした?」
「え? いや、その。えっとお……」
美香が小首を傾げる。俺は珍しく勇猛な悠太に念を送った。ここで男を見せられんならお前のことも少しは見直してやるぞ、と。
「……お、美味しかった? そ、それ」
「あ、うん! 凄く美味しかったよ」
「そ、そう。じゃあね」
「またね、広井くん」
美香が立ち去っていく。俺は口をへの字に曲げ、悠太の背中を思いきり叩いた。悠太が絶叫する。
「アホかお前は。美味しかった? じゃねえよっ」
「ヘタレすぎる」
俊也も俺に同意見のようで、口撃を加えていた。さすがの俊也も、あそこまで大見得切って引き止めておいてあれではあまりにも酷い、と思ったんだろう。
「だ、だってよお。田嶋、俺を睨んだんだぜ。凄い目つきで。マジびびった……」
「お前なあ」
「その田嶋、最後に悠太を見て勝ち誇ったような目ェしてたぞ。悔しくないのか⁉︎」
だん、とテーブルを叩いた俊也に、悠太だけでなく俺も驚いた。悠太についてここまで真剣になる俊也は、初めてだ。そんなに田嶋の態度が気に食わなかったんだろうか。
「俺は悔しい! どう考えても学食より藤村の飯の方が美味いのにっ」
拍子抜け。つまり俊也は田嶋にではなく、美香の言葉に悔しがっていたのだ。呆れを通り越して、疲れが湧く。全然関係ないことを真顔で言い出す俊也は、所謂不思議ちゃんな性質を持っている。
「美香ちゃん、マジで田嶋が好きなのかなあ」
「どうだかな。仕方ねえ、俺が探っといてやるよ」
「マジで⁉︎ さすが陸っ。持つべきものは美香ちゃんのお兄様だな!」
「ウゼーしキモいからやめろ」
俺の手を取った悠太を、振り払った。昼休みの終了が近付き、三人して飯をかっ込む。
だが、美香が田嶋になんらかの好意を抱いているのは確かのようだ。悠太、覚悟が必要だぞ。