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僕が君を求めても  作者: 麻柚
番外編
39/44

田嶋樹の考察・藤村美香編 前編

 藤村美香。

 この学校で彼女の名前を知らない人間はほとんどいないだろう。彼女の兄と二人合わせた『藤村兄妹』として、その存在はあまりにも有名だ。


 藤村美香に対する一般的な見解。

 男子に言わせれば、可愛い、清楚。面白いぐらいにこの二つの感想ばかりが上がってくる。

 だが女子に言わせれば彼女は、優しい、ぶりっ子、裏がありそう。意見は真っ二つだ。傾向として、大人しく気の弱そうな人間には好印象を、派手で気の強そうな人間には悪印象を持たれている。どちらにせよ、何らかの形で常に意識されている存在であることは確かだ。

 僕が彼女に近付くまでに聞いた噂を纏めると、以上のようになる。


 *


 かく言う僕が藤村美香に抱いた印象といえばまず、変わった人間だ、ということだった。


「おはよう」


 彼女は毎朝、目が合った人間に、周囲の人間に、そう挨拶する。男女の別も相手の人となりも関係なく。

 当時——入学直後から一年の夏休み明けまで、僕のクラス内での立ち位置は哀れなものだった。背の高さが少し目立つだけの所謂陰キャラ、地味な人間、だったのだから。当然、そのような僕に声を掛けてくる女子なんていなかった。

 藤村美香、ただ一人を除いては。


「おはよう」


 一学期の間だけでも、彼女は僕に複数回、笑顔でそう挨拶をしてきた。全く情けないのだが、僕はその度驚いて頭を下げることしか出来なかった。でも不快そうな顔もせず、彼女はまた別の人間に声を掛ける。

 最初は、僕に気でもあるのかと、恥ずかしながらそう考えた。周りを見渡せばすぐに否定されたことではあったけれども。

 だが当時の僕のような男子は、当たり前のように女慣れしていない。そんな人間が女子に笑顔で挨拶され、更にそれがとりわけ可愛い子だったなら。期待も勘違いもするのが健全な反応だ。実際、彼女に挨拶をされ顔を真っ赤にしていた男子も少なくなかった。彼らの彼女を見つめる視線がだんだんと熱っぽくなっていったのは、僕の気のせいではなかったはずだ。

 そして僕も……一時期、彼女を好きになりかけた。誰彼構わず声を掛ける変わった人間、という認識を越えて。


 *


「美香っ」


 四月のある日のことだった。教室前方のドアからそう呼びかけられた彼女は、声の主を見ると嬉しそうに駆け寄った。

 彼女を呼んだのはそれまで目にしたことのなかった、恐らくは他クラスの人間と思われる男子だった。だが容姿は、それこそ僕のクラスの男子が束になっても勝てないくらい整っていた。その男子と彼女が談笑する姿は大変絵になっていて、現場を目撃した誰もが、二人は恋人同士なのだと考えたことだろう。

 僕はショックを受けながらも、冷静にその光景を見つめていた。思えば彼女に恋人がいない方がおかしなことで、彼女の恋人ともなればあの男子ほどのレベルにならないと釣り合わないだろう、と。

 ここにおいて案外あっさりと、僕は彼女への想いを捨てたのだった。元々手の届くはずのない人なのだから、僕も本気にならないでいれたのだろう。


 *


「この間藤村さんと話してたあいつ、彼氏じゃねぇってよ!」


 それから数日した、とある体育前の男子更衣室に突然もたらされたその情報は誰もを驚かせた。そして二人が兄妹であるという事実と、藤村美香に彼氏がいないという話は、男子たちを大いに沸かせたのだった。

 あまりに似ていない双子。まるで恋人同士に見える双子。藤村兄妹は、その後急速にその存在を認知されていった。学年を越え、いつしか学校中に広まるくらいに。


 *


 藤村美香はしかし、一部の女子から反感を買ってもいた。とりわけあからさまに彼女へ嫌がらせを加えたのは、クラスの女子の中でも中心に位置するグループだった。その点で、彼女は運がなかったと言えよう。

 その女子グループはというか、大方の女子はきっとそうなのだろうが、男子の前では彼女を攻撃しなかった。しかしその男子、というのは単純な性別を言っているのではない。男子として意識された人間、という意味である。つまり僕のように女子と話さない、地味で目立たぬ男子の前では、平気で彼女を攻撃したのだった。


 藤村美香は一度、僕が原因で嫌がらせを受けたことがあった。

 ある時、ひょんなことから僕の体が彼女の机にぶつかってしまった。ペンケースを落下させ、中身を床にばら撒いてしまった僕は慌てて、それらを拾い始めた。すると彼女も同じように、床に膝をついて拾い出したのだ。


「……ふ、藤村さんはいいよ。僕が拾うから」

「ううん、大丈夫。私の物だから」


 申し訳なく思いながら、僕は全てを拾い終えた。


「ありがとう、田嶋くん」


 そう言った彼女の笑顔は、僕のような人間に向けられるものとしては眩しすぎるくらいだった。捨てたはずの想いが再び燻り出してしまいそうなほど。

 だが。


「あんな陰キャラにまで愛想振りまいてどうすんだろ藤村の奴」

「ああすれば自分がモテること知ってるんでしょ」

「ウザ。ただのくそビッチじゃん」


 彼女の優しさを嘲笑うかのような、心ない声。その女子グループの連中は、わざと彼女に聞こえるように言っていたと思う。しかしそんな女子共を叱責する勇気など、僕にはなかった。

 彼女は一瞬、傷付いたような表情を浮かべたが、すぐにもう一度僕へと笑顔を向け着席した。理不尽な嫌がらせに、彼女が立ち向かうことも抵抗することもなかった。


 そんな風に一人でいる印象の強かった藤村美香だが、いつしか……少なくとも六月頃には、友人と一緒にいる姿を見ることが出来た。その友人のおかげか、彼女が嫌がらせをされることも大分減っていった。僕は少し、安心していた。

 僕が彼女と接することも、たまに交わす挨拶を除いては全くなくなっていった。


 *


 そして、僕にとっての運命の日がやってきた。普通以下の存在であった僕の人生を変えた、あの球技大会。

 学校の制度によれば、一年生だけは所属部活と同じ種目にエントリーすることが出来た。バスケ部員の僕は、勿論バスケを選んだ。

 しかし正直、僕自身にバスケへ向ける情熱はさほどなかった。背の高さを買われて小学生の頃に始めたバスケだったが一向に上達することなく、僕には才能がないのだと……そう思っていた。だがバスケを手放せば僕は本当に存在意義を失ってしまう気がして、ぼんやりと続けていたのだ。本気で上を狙う人間には申し訳ないくらい、碌でもない理由だった。


「始めっ」


 審判の合図で、学年予選の決勝が始まった。相手方には見覚えのある人間……藤村美香の兄がいた。

 それまで二勝してきた僕のクラスはチームプレーも良く、自信はあった。だが試合はあっという間に終了してしまった。僕たちの、負けで。


「やったな陸!」

「余裕だっつうの」

「あっちにはバスケ部いたらしいぜ」

「ふうん。誰だよ」


 誰だよ。

 その程度の水準なのだ、僕の実力は。頭を思いきり殴られたかのような感覚だった。


「ほら、あの陸よりデカい奴」

「……ああ。確かに他の奴よりは上手かったよな。ま、大したことねぇけど」


 わざと僕に聞こえるように言っているのだろうか、あいつは。あの男は。

 彼らの嘲笑は放心状態の僕の脳内に、いつまでも重く響いた。拳を強く握りしめても、唇を噛んでも、怒りと悔しさは消えなかった。こんな自分にもプライドがあったのだと、その時初めて気付かされた。

 試合後の僕たちのチームに会話はなかった。皆が、自分を責めている気がした。それはきっと気のせいではなかっただろう。


 *


「おはよう」


 翌日、藤村美香は僕に声を掛けた。いつもと何ら変わりない笑顔で。

 昨日僕が彼女の兄に侮辱されたことなど、彼女は何も知らないのだ。それでのうのうと僕に笑顔を向けてくる。僕は次第に、彼女に対しても怒りを覚えるようになっていった。

 この兄妹を壊してやりたい。

 歪んだ感情は、その時生まれたものだった。彼らへの羨望は嫉妬に変わり、そこに怒りと憎しみが加えられていった。


 *


 夏休みから、僕は死に物狂いで部活に励んだ。練習の後も体育館が閉まる直前まで、たった一人でボールに触れていた。球技大会での屈辱がバネとなり、投げ出したいなどとは少しも考えなかった。来る日も来る日も必死だった。

 それに伴い、僕はプレーに邪魔となるものを排除していった。伸ばしたままでボサボサだった髪の毛を整え、眼鏡をコンタクトに変えた。

 これは全く想定外のことだったが、それだけで女子バスケ部員たちの僕を見る目が変わったのだ。それまで何の興味も示されなかったのに、急に声を掛けられたり食事に誘われたり。面白く思って、僕は眉を整え髭の手入れをし、身だしなみにも気を配った。夏場の激しい練習で体からは脂肪が落ち、痩せて、筋肉質な体つきとなっていった。


「前から思ってたけど、田嶋くんて優しいよね!」

「分かるっ。最近部活もめっちゃ頑張ってるし」

「かっこいいよねぇ」


 実に愉快だった。

 それまで女子に囲まれるなんてこと一度もなかったというのに。所詮、この程度に単純な生き物なのだと、そう思った。

 夏休みも終わりに近付いたある日、僕はふと思った。もしや自分は彼女に……藤村美香に釣り合うような男になったのではないか、と。

 街を歩けば女の視線を感じる。女店員の接客態度がやたら良い。時には向こうからナンパをされたこともあった。どれもこれも、それまでの僕の人生とは無縁だった出来事だ。

 きっと、きっと僕も、彼女に近付いた。彼女と同じ位置に立つことが出来た。そう考えるだけで僕の気分は高揚した。

 僕にとり彼女は憎むべき対象であり、また憧れの象徴でもあったのだ。


 *


「おはよう、藤村さん」

「え……?」


 新学期。登校すると、僕は真っ先に藤村美香へ挨拶した。彼女はぽかんとして僕を見つめていた。


「た、田嶋くん……?」

「そうだよ。今学期もよろしくね」


 彼女のように笑顔を浮かべてから、着席した。

 彼女を驚かせることに成功したのだ。僕は少し、興奮した。


 *


「おはよ、田嶋くん!」

「田嶋くーん、おはよう」


 それからは日を追うごとに、沢山の女子がまるで手の平を返したかのように僕のもとへと群がってきた。その中には、かつて藤村美香に嫌がらせをしていた奴らも混じっていた。連中は常に猫撫で声を出し、馴れ馴れしく僕に触れてきた。気持ち悪くてたまらなかった。


「あたし本当は田嶋くんかっこいいなってずっと思ってたんだよぅ」


 見え透いた嘘を吐くな。


「分かる! 優しいしねぇ」


 僕のことを陰キャラ呼ばわりしたのは、どこの誰だ。


「バスケ上手かったもんね!」


 一学期の僕をまるで知らない人間の発言じゃないか。

 ふざけている。その捻じ曲がった根性、一体どこから来るというのか。

 僕は激しい怒りを覚えながらあくまでやんわりと、笑顔で対処していた。だが毎日毎日、僕の怒りを感じ取れないそいつらは媚を売ってきた。

 そんなある日のことだった。


「藤村さん、おはよう」

「おはよう、田嶋くん」


 いつものように挨拶を交わすと、彼女は席を立った。何をしに行くのだろうと考えながら席に着けば、また奴らがやってくる。


「おっはよう田嶋くん!」

「おはよう、皆」


 心が伴わぬ笑顔は疲れる。自分はもう立派な世渡り上手になれたのではないかと、考えていた。


「ねぇねぇ何でいっつもあの子に挨拶すんの?」

「そうだよ、あんな穏やかそうな顔して裏ではヤることヤってるらしいしぃ」

「近付かない方が良いって!」


 あの子、とは明らかに藤村美香を指していた。僕は怒りに震えた。

 何故、何故お前たちにそんなことを言われなければいけないんだ。ヤることヤってる? それが真実だとして僕に、お前たちに一体何の関係がある。


「男なら手当たり次第声掛けてるしさぁ」


 男だけじゃない。彼女は女子にも声を掛けている。それを無視しているのは、お前たちの方だろう。


「友達少ないのも頷けるよねぇ」

「田嶋くんもかっこいいから絶対狙われてるよ!」

「ねぇ田嶋くん、聞いてる?」


 煩い。煩い煩い煩い。

 気が付くと僕は、机を蹴り飛ばす勢いで立ち上がっていた。驚いている周りの人間に、いつもの笑顔を向ける。


「ごめん、ちょっとトイレ行かせてくれる?」

「う、うん。良いよぉ」

「それから僕、自分の見たものしか信じないようにしてるから。わざわざありがとう」


 お前たちなんか微塵も信用していない。今すぐ視界から消えてほしい。そんな言葉を何とか飲み込み、僕は教室を出た。

 それまでどんな媚でも色目でも我慢してきたのに、その時だけはどうしても許せなかった。憧れの象徴である藤村美香を汚す言葉の数々は、あまりに聞くにたえないものだったのだ。恨むべき対象として藤村美香を捉えたならばむしろ爽快だったのだろうが、そんな捉え方は微塵も頭をよぎらなかった。

 トイレから出ると、廊下に彼女の姿があった。呼びかけるのを躊躇ったのは、その隣に藤村陸がいたからだ。


「え、お弁当忘れたの?」

「ああ」

「もう。いつものところに置いといたのに」

「は? お前が気を使わせて持ってくれば良かっただろうが」

「ええっ、そんな」


 困ったような声を出す彼女。だが表情は柔らかく優しかった。藤村陸の方も、当たり前のように彼女の隣にいる。


「だからお前は女として駄目なんじゃねぇの」

「そ、それは関係ないと思うけど……」

「俺があるって言ったらあるんだよ、バーカ」


 そう言って藤村陸は彼女の額を弾いた。本当に、恋人同士のようだった。

 僕のプライドを、感情を、著しく傷付けた人間。そんな許し難い人間が、あの藤村美香をお前と呼び、藤村美香に触れている。藤村美香の兄である。確かな現実に、僕は歯ぎしりした。

 どんな手を使っても、藤村陸に復讐してやりたい。それまでになく強く、そう感じた。

 藤村陸にとって藤村美香は、かなり大切な存在なのだろう。二人の雰囲気を見れば明らかだ。その藤村美香を利用して奴に接近するのが、恐らく一番早い方法だ。

 迷いはすぐに振り払った。憧れだろうと、同時に彼女は憎むべき相手でもある。何より、彼女は藤村陸の妹なのだ。奴を正さない彼女も同罪だ。自分に、そう言い聞かせた。

 そうだ。あくまで彼女のことは利用するだけ。何も彼女自身を汚そうだなんて考えているわけではない。僕は、何も間違ってない。


 *


 機会を窺っているうちに日々は過ぎていった。後期の委員会は、何とか藤村美香と被せることに成功した。

 そして、より彼女に近付ける瞬間が訪れた。席替えが行われ、僕は彼女の一つ前に位置することとなったのだ。

 ようやく、藤村陸に復讐してやるための条件が揃った。僕は内心、高笑いしていた。


「これからもっと仲良くしてね、藤村さん」


 表向きの笑顔も、今はあっという間に作れる。


「うん。よろしくね、田嶋くん」


 彼女の笑顔は僕のように偽物ではなく、本物だったろう。僕が企んでいることも何も、知らない彼女。

 そうだ、彼女を僕に惚れさせることは可能だろうか。不意に閃いて、僕は試してみることにした。あくまで、ゲーム感覚のものとして。

 もし藤村陸を陥れ、藤村美香を手に入れることが出来たなら。考えるだけで、体が熱くなった。一学期の僕からは想像もつかない、まるで別人のような人生がやってくるだろう。

 その頃、僕は部活でレギュラーの座を獲得した。元々うちのバスケ部は弱小であったから、それ自体は容易いことだった。


 新たな田嶋樹を誕生させる決意を、僕はここにおいてようやく果たしたのだった。

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