帰国
期末テストは無事に終了した。尤も、悠太の場合無事ではなかったようだが、それもこれも加藤にうつつを抜かしていたのが悪い。自業自得だとして、俺を含め誰も悠太を慰めなかった。そうしているうちに時は流れ、あっという間に冬休みに突入した。
「凄い、練習試合なのに人でいっぱいだね」
「一応、強豪校だしな。関係ない連中も偵察がてら来てんじゃねえの」
俺と美香は今日、海斗の部活の練習試合を見学に来た。俺たちが到着した頃には既にほとんど席が埋まってしまっていたが、どうにかスペースを確保する。練習試合だから元々会場が小さい、というのもあるだろうが、ざっと二百人はいるこの観客数はやっぱり普通じゃない。他校の奴らやサッカー関係者が、名門校の実力がいかほどかを測りに来たのだろう。試合開始まであと十分だ。
「三年がいないとはいえ海斗もベンチ入りしてんだもんな。あいつも中々やるじゃん」
「ふふ。そういうことは海斗に直接言ってあげればいいのに。絶対喜ぶよ」
キックオフとなった。海斗のチームから始めるようだったが、初期の構成に海斗は組み込まれていないらしい。姿は見えなかった。
「えっ、もうゴール……⁉︎」
美香が驚きの声を上げたように、海斗のチームは開始早々に一つ目のゴールを決めた。それからも、そのゴールを決めた人間の動きが飛び抜けて良い。名門校の選抜チームでこれほど実力で目立つことができるなんて、相当だ。
チームプレーで次々ゴールが決まっていく。俺も美香もいつの間にか夢中になって、試合から目を離せないでいた。応援するチームが華麗に勝ちを積み重ね続ける様を見ているのは気分が良い。
「あ、海斗っ。ねえ陸、海斗だよ」
「うるせ、見れば分かるっつうの」
選手の交代が入り、グラウンドに海斗が現れると、途端に美香が興奮を見せた。ホイッスルと同時に試合が再開される。
先程までは試合全体を見渡す余裕があったが、海斗がいるとなってはそうもいかない。ついつい目が、海斗ばかりを追ってしまう。
「あ、おいっ。なんであそこにいねんだよ海斗は」
「え、どこ?」
「あそこだよあそこ! あそこにいればパスだって受け取れんだろうが」
「え、あそこ? 海斗のいるところからじゃどんなに速く走っても間に合わないんじゃ」
「間に合わないじゃねえ! やるんだよっ」
ああだこうだと試合を追っていると、不意に美香が俺を見て吹き出した。くすくすと笑う美香に苛立って、睨む。
「なんだよ」
「ふふ、ううん。陸、さっきまで冷静に観戦してたのに海斗には無茶なこと言うんだもん」
「無茶じゃねえよ。俺にだって分かることくらい海斗にできねえでどうすんだっつうの」
俺は美香の肩に腕を回して引き寄せた。そのまま力を込めてやれば、美香は「痛い痛い」と言って俺から離れようとする。でも、その口元には笑みが浮かんでいた。
試合は佳境へと向かい、そして終了した。海斗のチームの勝利だ。でも最後まで、一人の活躍がずば抜けていた感覚はある。初めにゴールを決めた男の動きは、終始衰えなかった。
試合後も反省会によりすぐには解放されない海斗を、会場の外でだらだらと待っていた。隣の美香の手は真っ赤になっていて、俺が手袋を渡すと美香は微笑んだ。クリスマスを目前に控えた今の時期は、ただ外にいるだけで一苦労だった。
「兄貴、姉貴っ」
ようやく、海斗が試合会場から出てきた。此方に手を振る海斗の後ろに二つの人影が見える。海斗は俺たちのところまで来ると、その二人に振り返った。
「紹介します。俺の兄貴と姉貴です」
海斗は笑顔で二人と接していた。俺と美香は顔を見合わせる。
俺たちの前に姿を見せた二人は、まるで正反対な風貌をしていた。一人は小柄で寝ぼけ眼が際立っているが、もう一人は俺より高身長で体格も良く、暑苦しそうな雰囲気をまとっている。
「で、兄貴たちにも紹介するな。こっちが部長でこっちが副部長。ほら、前に話しただろ。お世話になってるんだ」
海斗の説明によると、寝ぼけ眼の方が部長で大柄な方が副部長らしい。前に話した、というのは、美香が熱をだした時のあれだろう。
じっくりと二人を観察していると、はっと驚かされた。寝ぼけ眼の部長の方が、試合で大活躍していたあの選手だと分かったからだ。眠そうに頭を掻く今の部長に、その面影はない。以前の海斗の話通り、ギャップの凄い人間のようだ。
ふと副部長の方が俺たちに向かって一歩踏み出してきて、言った。
「こんにちは。副部長の塩崎です」
「こ、こんにちは。海斗の姉の……えっと、美香です」
戸惑った様子を見せながらも美香が答える。副部長は満面の笑みを浮かべた。
「美香さんですか。いやーいつもお世話になってます」
「え?」
「差し入れですよ! とっても美味しくて、毎回たくさんもらうのにすぐなくなってしまうんです。部員みんなに大好評で、一度お礼がしたくて藤村……えっと、海斗くんにここまで連れてきてもらったんです」
「そ、そんな。お礼だなんて」
副部長の態度が、なんとなく鼻につく。でれでれしていて、美香を気に入ってるのが明らかだった。
「でもまさか、海斗くんのお姉さんがこんなに可愛い人だったなんてなあ。あはは」
「塩」
後頭部をさすりながら顔を赤らめていた副部長を、部長の方が遮った。
「眞鍋」
「そのへんにしといた方がいいんじゃない。そっちの人、お前を睨んでるぞ」
寝ぼけ眼だが、周りはよく見えているらしい。部長は俺へ視線を投げかけてから、副部長に向き直ってそう言った。副部長はちらりと俺を見ると、バツの悪そうな表情をした。
「す、すんません」
「ははっ、いいんですよ塩崎先輩! 兄貴はシスコンなだけですから!」
「おい海斗っ、てめえ」
「もう、二人とも。すみません部長さん、副部長さん」
「別に平気です。行くぞ塩」
「お、おお。じゃあな藤村」
「また明日! 先輩」
去っていく部長たちの背中に向かって海斗は別れを告げた。俺たちは三人並んで帰路についた。
「あの部長、試合の時とはえらい違いだな」
「ははっ、だろ? 部長はほんと凄えよな。実力も飛び抜けてるしさ、俺の憧れなんだ」
「へえ。いいね、尊敬できる先輩がいて」
歩きながら、会話を続ける。話は試合中の海斗の動きについての話題に移り変わっていった。何故あの時あそこにいなかったのか、などと指摘してやっても、海斗は肩を竦めるばかりだった。
「ほらな。前にも言ったけど、兄貴のはアドバイスじゃなくて文句なんだよ」
「はーあ? お前、自分の兄貴の言葉くらい有難く聞け」
「だって言ってることが無茶苦茶なんだぜ? なあ姉貴」
「ふふ、うん。そうだね」
「おい美香っ」
美香と海斗はお互いの顔を見て、笑った。いくら俺が文句を言おうと、二人はただ微笑んで聞かなかった。
「これからどうしようか。何か食べて帰る?」
「俺さ、一度兄貴のバイト先のラーメン屋に行ってみたかったんだよな」
「却下」
「えー。なんでだよ兄貴」
「とにかく却下だ!」
バイト先の店にバイト以外で行くなんて何があろうと嫌だし、確か今日はあの二人のシフトが揃って入っている。余計に嫌だ。
あの二人――青木先輩と飯塚だ。二人はなんと付き合い始めたらしく、飯塚もバイトに戻ってきた。馴れ初めを尋ねる気にもならないほど二人はべったりだ。ちなみに俺は、飯塚に目の敵にされている。
「食事はいいだろ。それよりクリスマスの準備するんじゃなかったのか?」
「そうだったね。じゃあ今日は三人揃ってるし、買い物して帰ろうか」
「おっ、いいなそれ。賛成!」
どうにか二人の話題を逸らして、俺たちはスーパーへ歩いた。父さんたちの帰ってくるクリスマスイブまではあと二日だ。
スーパーに立ち寄って食材を調達した後、再び家路を辿った。
「やっと家族が揃うんだね。楽しみだな」
傾き始めた陽を浴びながら、ぽつりと美香は言った。海斗は一瞬眉間に小さな皺を寄せたが、直後に大きな笑顔を美香に向けた。
「そうだな。思いっきり楽しませてあげられるといいよな」
「うん。きっと楽しくなるよね」
「海斗が水を差さなきゃな」
「兄貴てめえ。それを言うなら兄貴の方こそだろ!」
「まあまあ。大丈夫だよ、みんな一緒ならそれだけでいいんだから」
美香が俺たちに微笑みかける。
みんなが、家族が一緒なら、それだけでいい。特別なことをしなくたって、そばにいられるならそれで、充分。
「そうだな」
俺が言うと、海斗も頷いた。俺たちは三人で、帰るべき場所へと歩いていった。
*
クリスマスイブ当日。俺と美香は朝から大忙しだった。なんとか準備を整えて夜を迎え、部活終わりの海斗と三人揃ってリビングにいる。勿論、父さんたちを待つためだ。だが、食卓についていてもそわそわとして落ち着かない。
「遅えな。本当に今日帰ってくんのか?」
「帰ってくるよ、空港に着いたって夕方にメールがあったもの」
「あーもう! 待ちきれねえ!」
海斗の言葉には俺も美香も同意だった。時間は過ぎていくばかりで、父さんたちが帰ってくる気配はまだない。夕方頃空港に到着したというならば、もう家に着いていい頃合いのはずなのに。
「どうしよう。もし事故とか起きてたら」
嫌な予感が頭をよぎった俺より先に、美香が発言した。海斗は一瞬青い顔をして、でも取り繕うように言った。
「まさか! ほら、ニュースやってっけどそんなこと一言も言ってねえよ?」
「そ、そうだよね。大丈夫だよね」
「だ、大丈夫に決まってんだろ。なあ兄貴?」
「あ、ああ」
沈黙。テレビの音だけが虚しく響いていた家の中に、不意にチャイム音が鳴った。俺たちは顔を見合わせて玄関に駆けた。美香が代表してドアを開ける。
「ただいま」
そこには、笑顔の父さんと母さんがいた。一年ぶりの再会だった。
「おかえりなさいっ!」
美香はそう叫んで母さんに抱き着いた。何度も、おかえりなさいと呟く美香はしゃくり上げていて、顔は見えずとも泣いているのだと分かった。そんな美香の様子を俺と海斗、父さん、そして母さんも苦笑して見つめていた。
「ほらほら。美香、とりあえず家に上がらせてくれる?」
「ん、リビングの方から良いにおいがするなぁ」
「父さん、今日は姉貴だけじゃなくて俺たちも料理手伝ったんだぜ」
五人連れ立って廊下を歩く。リビングへ続く扉の先にあった光景を見て、父さんたちはぱあっと表情を明るくさせた。俺たち三人はリビングの端で、成功を祝って笑顔を向け合った。
食卓に並ぶケーキ、クリスマス仕様の料理。それから、小さめのツリー。
手洗いなどの支度を済ませてから、全員で食卓についた。美香は、俺と海斗にはジュース、父さんと母さんにはシャンパンをそれぞれ振る舞った。最後に自分のグラスにジュースを注いで、着席する。
乾杯の音頭をとって、食事は始まった。
「やっぱりここが一番安心するな。三人とも、仲良くしてたか?」
「してたに決まってるじゃない。ねえ?」
陽気な父さんの問いかけに、母さんは笑って俺たちに視線を向けた。痛いところを突かれてしまったように感じて、俺の体は固まった。
俺は美香を傷付けた。一時期、家族をばらばらにしてしまった。そんな状況は、どんなに口が裂けても仲が良かったと言えるようなものじゃない。
「うん。勿論だよ!」
そう言ったのは美香だった。俺の左隣にいる美香は、穏やかな笑顔を俺に向けた。
「……ね、陸」
今回のことで最も辛い思いをしたはずの美香が、最も辛い思いをさせた俺に微笑みかけている。俺は何も言えなかった。頷けなかった。頷いてしまっていいものなのか、分からなかった。
「おいおい姉貴。俺には聞かねえの?」
「ごめんごめん。仲良くしてたよね、海斗」
「当ったり前だろ? じゃなきゃ三人でこんな料理作んねえって!」
美香と海斗は笑顔だけど、俺のやったことはなかったことにできるようなものでは決してない。それなのに俺を追及しないのは、二人があまりにも優しいから。
「ははっ、そうかそうか。でも美香、陸に変なことされてないか?」
「ちょ、父さん。どういう意味だよ」
「陸は美香が可愛いあまり、ついからかいすぎて美香を泣かせてたからなあ。父さんそれだけが心配で」
「はあ⁉︎ いつの話だよそれ! つうか美香のどこが可愛いって⁉︎」
「はは。父さん、兄貴のシスコンは治ってねえよ」
「でもね、最近は私が陸をからかったりできるようになったよ」
「そうか! それは良かった」
「兄弟仲は心配しなくてよさそうね、お父さん」
色々と話がおかしいと思うのは俺だけだろうか。でも四人の楽しそうな会話を聞いていると水を差す気にもなれず、俺はとりあえずジュースを飲んでいた。オレンジジュースの入ったグラスに映った俺の頰は、少しばかり赤くなっていた。
「ところで海斗、部活の方はどうだ?」
「ん、順調だよ。すっげえ楽しいし」
「この間海斗の学校の練習試合観に行ったの。凄く強いチームでびっくりしちゃった」
「へえ。良いわね!」
他愛ない話をしながら食事はどんどん進んでいった。夕飯を終えてケーキに手を付け始めると、ふと母さんが口を開く。
「そういえばね。お父さんにもまだ言ってなかったんだけど、私四月から日本に戻ってくることになったの。異動でね」
ショートケーキの苺を摘みながら母さんは言った。驚きの声を上げた俺たちを見て母さんは、サプライズ成功、などと言って笑っていた。
「来年は陸も美香も受験だからねえ。保護者がそばにいられてよかったわ」
「うげ、面倒なこと思い出させないでくれよ」
なるべく考えないようにしてきたけど、三学期になればそうもいかなくなるだろう。悠太や俊也はどうするのだろうか。田嶋は恐らく、進学だろう。
「もし兄貴が一人暮らしすることになったら、心配だなあ俺。とても一人で生活していけるとは思えねえもん」
「ふふ、分かるかも。食事も心配だけどお掃除も不安だな」
「てめえらな……!」
俺の怒りが美香や海斗に届くことはない。それどころか父さんと母さんまで大笑っているのだから、俺の味方なんているはずがなかった。矛先に跳ね返された怒りは宙を舞って、どこかへ行ってしまう。
「食事や掃除くらいできるっつうの」
「ええっ、ほんとかな?」
「不安すぎるよなあ!」
美香と海斗が、お互いの顔を見て吹き出していた。俺はショートケーキに思いきりフォークを突き立てる。ここ最近、学校でも家でもからかわれることが増えた感じがするのは、たぶん気のせいじゃない。
「あははっ、ほんと貴方たちといると飽きないわ。四月までその調子で仲良くやって頂戴ね」
「うん、お母さん」
「勿論だよ。なあ兄貴?」
美香の奥から、海斗が俺を覗き込んできた。
四月。その頃には、美香への気持ちも完全に消え去っていてくれるのだろうか。そうだといい。その時が、本当の意味で兄妹に戻る瞬間だ。
俺は海斗を見た。自然に視界に入り込む美香の横顔は、無邪気さに溢れていた。綺麗な、美香らしい横顔だ。
「ああ、分かってるよ」
横顔が動いて、真っ直ぐに俺を捉えた。美香は柔らかい笑みで俺を見つめていた。
「そうだ、三人にお土産があるんだ。ケーキを食べたら渡そう」
「私もあるわ。きっと喜んでもらえるものよ」
お土産と聞いて、途端に目を輝かせてきゃあきゃあ騒ぎ始めた二人は単純というか、お子様だ。俺は、そんなガキくさい二人とは違う。
「サンキュー。父さん、母さん」
……と、そう言いたいところだけど、結局俺も嬉しいんだ。二人と何も変わらない。
だって俺たちは結局、兄弟だから。




