告白
翌日、俺と悠太と俊也は昼休みの食堂にいた。ポークカレーとラーメンのセットにがつがついってる俊也と、相も変わらず玉子とじうどんを食べている悠太。俺が向かい合ってるのは、美香の手作り弁当だ。振り返ればそれほど長い間美香の手料理から離れていたわけではないはずなのに、なんだかすごく、懐かしいような味がする。
「で? お前、美香ちゃんと仲直りしたってことでいいの?」
ずるずるとうどんを啜る悠太が、丼に顔を伏せたまま上目遣いで俺に問うた。俺は頷く。
「ああ」
「本当か? 嘘吐いてんじゃねえだろうな」
「嘘じゃねえよ」
昨日の出来事。その全てを、頭に思い描く。
美香は、俺がどんなに最低なことをしても、どんなに傷付けても、好きだと言って駆け寄ってきてくれた。元に戻れたのは全部、ただひたすらにあいつが働きかけ続けてきてくれたからだ。壊したのは俺なのに、直したのは美香だった。やっぱりあんなおひとよし、他にはいないだろう。
「――そっか!」
悠太が安心したように頰を緩ませ、にっと笑んだ。俊也も、食べながらではあるが、柔らかい視線を俺に向けてくれていた。
「よーし、今日は陸と美香ちゃんの仲直り祝いにパアッといくか!」
「悠太の奢りで頼む」
「陸のはいいけどお前のはやだ!」
便乗商法的なお願いを一刀両断され、俊也が口を尖らせる。俊也の丼とカレー皿の中身は、すでに綺麗に片付いていた。
「あの……ここ、いいですか?」
ふっと降ってきた、ふわりとした声。顔を上げると、弁当用の巾着を提げた美香がいて、その後ろに服部と加藤もいた。ぽかんとした悠太と俊也の代わりに、俺が答える。
「座れよ」
「……うん!」
美香は笑顔で頷いて、空いていた俺の隣に腰掛けた。それから、向かいの悠太の隣に加藤が座る。服部はさらにその隣に腰掛け、俊也と向かい合った。
「ひ、久しぶりだね加藤ちゃん」
「服部はカキフライ定食か」
悠太と加藤、俊也と服部がそれぞれ会話し出す。美香は俺の弁当を覗き込んで、その中がもうほとんどなくなっていることを確認すると笑った。ありがとうお兄ちゃん、と囁く。なんだか恥ずかしくて、別に、と目をそらしてしまった。
「つーか、その『お兄ちゃん』って言うのやめろよ」
昨日のあの和解から、美香は俺をずっと「お兄ちゃん」と呼び続けている。美香からしたら兄妹を取り戻したことを確認するための、何気ないものなのかもしれないけど、俺はどうしてもむず痒くて駄目だった。「お兄ちゃん」という響きはやっぱりどうしても気恥ずかしいし、美香が余りにも嬉しそうに口にするから、なんと言うか、照れてしまう。
美香はきょとんとした。
「でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだし」
「陸でいいだろ陸で。今まで通りで」
ちょっと残念そうな顔をした美香だけど、でもすぐに微笑んで「そうだね」と言った。
昼食を終えて、弁当箱や学食の食器などを片しているタイミングで、服部が寄ってきた。
「藤村」
「どうした?」
服部は、加藤と話す美香に視線を投げながら、俺に小声で言う。
「美香はもうあんたのこと許してるみたいだけど。もう二度と、あいつを傷付けんじゃねえぞ」
「……ああ、分かってる」
「そうか。あたしが言いたいのはそれだけだ」
そうして服部は美香たちの方へ歩いていった。
もう、美香を傷付けたくない。ちゃんと前を向く。まだ奥底で蠢く美香への想いを伝えて、けじめをつけてから。
教室へ戻ると俺の隣には既に、部活の練習で不在だった田嶋が座っていた。
「あ、藤村くん」
今日の田嶋は、正にいつも通りだった。憔悴しきっていた最近の田嶋の面影はもうすっかり消えてなくなっていて、やっぱりこいつはよく分からない、と思ってしまう。
「藤村さんと元通りになれたんだね」
「は?」
「さっきまで一緒にいたんでしょ? 教室のドアのところで別れてたじゃない」
別れ際の俺たちを見ていたらしい。目ざとい奴だ。
「藤村さん、凄く良い笑顔だった。やっぱり藤村さんは可愛いなあ」
「はいはい。そうだな」
「なに、その気のない返事。失恋したくせにさ」
失恋、という聞き捨てならない単語を耳にして、思わず田嶋を睨んでしまった。田嶋は全く気にした様子もなく、からから笑った。
「だって、仲直りしたんだよね。つまり君は失恋したってことでしょ? 藤村さんは夏見しか見てないし」
「…………」
「慰めてあげようかと思ったけどさ、やめたよ。藤村くんみたいなイケメンは一回こっぴどい失恋をした方が良いっていうかさあ。まあつまり、ざまあみろってこと」
べらべらべらべら、本当によく回る舌だ。
「うるせーよ。人のこと言ってねえで、お前はどうなんだ」
「昨日藤村くんと別れた後告白した」
仕返しのつもりで振ったのに、田嶋は俺の予期せぬ事実をこともなげに口にした。興味をそそられ、田嶋を見る。
「ちょっと、そんなに見つめないで。照れるじゃないか」
「ふざけんなっ。いいからどうなったか言え」
「結果なんて分かってるくせに酷いなあ。どうせ僕もフラれたよ」
田嶋は肩をすくめて、自嘲の笑いを漏らした。俺は鼻を鳴らして答える。
「ふん、ざまあみろ」
「うるさい」
田嶋はそう言って、頰杖をついた。
「あーあ。なんで夏見なんかに負けたのか、さっぱり分かんないよ」
「美香も趣味悪ぃよな」
「ほんとにね」
俺たちは笑った。夏見を悪く言っていても、これは傷の舐め合いとは違う。言葉にはしづらいが、とにかく違うものは違うのだ、たぶん。
「でもさ。やっぱり藤村くんと藤村さんは一緒にいるのが似合ってるね」
「そうか?」
「うん。君たちが二人でいると、近寄り難いくらい独特の空気を出してるんだよ。君たちが二人で笑ってると、まるで世界がそこだけで完結してるみたいなんだ」
田嶋の言葉が、俺には理解できなかった。俺は当事者であって傍観者にはなり得ないから、そんな空気を作っている覚えはないと、そう答えるしかない。
「二人の間に、他の人間は入り込めない。そう錯覚させられる」
でも、だからこそ僕には憧れだった。
微かに漏らされた呟きが気になって、俺は田嶋を見つめた。田嶋は悪戯っぽく言った。
「その話、聞きたい?」
「ああ」
「そっか。でももう授業始まるし、後で教えてあげる」
田嶋が口の前で人差し指を立て、それまでは秘密、と口角を上げた。その仕草が妙に似合ってることがキモくて、俺が思いきり顔をしかめると、田嶋は「酷いなあ」と言ってまた笑っていた。
*
放課後、美香は服部の家に置いたままだった荷物を持って家へ帰ってきた。これで本当に、俺たちはあるべき日常を取り戻したことになる。もう俺がやるべきことは、一つだけだ。
美香の部屋の前まで行き、一度深呼吸した。ドアの向こうではがさがさと美香の作業する物音が鳴っている。
「美香」
呼びかけた声はいつも通りで、俺は自分に安心した。大丈夫だ、と暗示をかけるように思う。
「陸? 待って、今開けるね」
「いや、いい。このまま聞いてくれ」
美香が此方へ駆け寄ってくる気配がして、俺は止めた。美香の姿を見ながら告白なんて、とてもじゃないけどできる気がしなかった。その点では、直接伝えたであろう田嶋を尊敬する。
「陸?」
開けるな、と言った俺を、美香は疑問に思ったようだった。姿は見えなくとも、声色で美香の考えは伝わる。
海斗は、まだ帰っていない。俺たちは二人きりだった。俺は最初に伝えるべきことを探して、口火を切った。
「今までごめん」
謝って済むようなことではないと、充分分かっている。でも美香は俺を責めない。殴って仕返し、ということもしてくれない。余りにも優しい美香だから、俺はとにかく、謝ることしかできない。
「そんな。もういいんだよ、気にしないで」
「そういうわけにいかねえよ」
散々、最低な方法で傷付けた。初めてのキスだって、夏見だって、俺が全部奪ってしまった。美香は理由も分からないままに俺から突き放されて、海斗ともすれ違って、追いつめられていた。そういうこと全部分かってて、それでも俺は自分から美香に歩み寄っていくことができなかったのだ、最後まで。それなのに、昨日の一件だけでその全てを帳消しになんてできるはずない。美香が許しても、俺自身が許さない。
「陸……」
俺を呼ぶ、その小さくて細い声色は大変に甘くて、また俺を掻き乱す。自分の唇が、体が、震えていると手に取るように分かった。
「――俺はさ、お前を嫌ったことなんて、一度だって、一瞬だってなかったよ」
美香は黙っている。
「俺はずっと、お前が好きだったから」
好き。ずっとずっと言えなくて、全ての原因になってしまったこの感情。忌むべきもので、同時になにより大切で、捨てられなかった。
「陸っ――」
美香は、何かが込み上げてきたみたいな、熱っぽい声を震わせた。
嫌われてなかった。兄妹としての絆は、壊れてなかった。美香はそう解釈したに違いない。でも、それは違う。
俺は確かに兄妹を壊した。家族なんて概念はぐちゃぐちゃに踏み潰していた。現実から逃れるために俺は、兄妹を否定し続けた。
だって俺は、こんなにもお前が好きなのに。
「違うんだよ、美香」
ああ、やっぱり。美香は憐れで、それに残酷だ。俺がお前にどんな感情を抱いているか知らないままで、俺を呼び続けるんだから。
陸、と。
お兄ちゃん、という意味をそこに込めて。
「俺は、好きなんだ。好きなんだよ、お前が」
俺は美香を踏みにじりたかったわけじゃない。でもそんなの、なんの言い訳にもならない。結局俺は美香を傷付けて、泣かせて、ぐちゃぐちゃにしてしまった。傷付きやすいのにそれを抑え込んでしまう美香の性質を一番理解していたのは、俺だったはずなのに。
「俺はお前のそばにいたかった。でもお前は俺なんか見てなかった。……距離が近いぶん、それがたまらなくて」
美香には伝わっているだろうか。分からない。でも、言うしかない。
「お前が他の男と――海斗といることさえも、俺は嫌だったんだ」
嫉妬した。ほんの些細なことで醜い感情がふつふつと沸き上がって、自分でも処理できなかった。当たり前のように他の男に微笑む美香を見て、所詮自分は兄妹にしかなれないのだと、思い知らされた。
「俺のそばにいてほしかった。一番近くで、俺だけ見ててほしかった」
でもそれは叶わぬ願いだと、俺はよく知っていた。知っていたのに諦めなかったのだ。
「ほんとに勝手だけど、俺がこんな想いしてんのに何も知らずに笑うお前が、憎らしくて」
でも、愛しかった。この上なく、愛おしい存在だった。
「お前を傷付けることでしか、自分を守れなくなって――」
美香は当たり前のように、俺に笑顔を向けてくれた。毎日、どんなことがあった時にも。馬鹿みたいに明るい笑顔で俺を癒してくれた。
――二人がいるから、今はそれだけで十分幸せだよ。
――ありがとう、陸。
美香の笑顔を見ると安心して、嬉しくて。
――陸は私を傷付けたりしないっ。
何度も泣かせた。心ない行為と言葉で、美香を傷付けた。俺は美香を傷付けたりしないと、そう信じていた美香を裏切った。俺より深く美香を傷付けた人間なんて、いない。
「兄妹だなんて思ってない。妹面をするなって、俺はそう言ったよな」
だって兄妹は、想い合うことができないから。愛し合うなんて許されないから。
俺より、海斗より、家族を慈しんでいた美香に対して、俺が放った言葉は。
「……兄妹だと思ってないんじゃない。あれは俺が、そう思いたくなかっただけなんだ」
呪いみたいなものだった。自分ですら縛りつけるような。
「好きだ。……ごめん」
好きだ。好きだった、じゃなくて、今もまだ。
瞬間、美香の部屋の扉が開いた。その奥には瞳一杯に涙を溜めた美香がいて、睨みつけるくらいに強い視線で俺を見据えた。
「言いたいことは、それだけ?」
低い声。とっさに、俺は目を背けてしまった。
軽蔑された、嫌悪感を抱かせた。あるいは、呆れられたか。自業自得だけど、それをまざまざと見せつけられると「違う」とすがりついてしまいたくなる。でも今それをして逃げたら、俺はもう二度と、美香に気持ちを伝えられなくなる。
「ひどいよ、陸」
ごめん。謝る前に、美香が俺の胸の中に飛び込んできた。どん、と一度胸板を叩かれて、俺は戸惑う。ひどい、ともう一度喘ぐように呟いた美香は小さく震えて、顔を伏せた。
「――ごめん」
俺の言葉じゃなくて、美香の言葉だった。俺はびっくりして、自分の胸にしがみついている美香を見下ろす。
「ごめんねっ。ごめんなさい」
「……なんで、お前が謝んだよ」
「だって、全然気付かなかった。ずっと、ずっと一緒にいたのに」
だから、だから。その先の言葉は、嗚咽に呑まれて消えてしまった。
美香は本当に、馬鹿だ。
俺は、美香を抱きしめた。優しくしなきゃと思うほど、強く強く力を込めてしまう。華奢な体は、それだけで折れてしまいそうだった。
「ごめん」
美香の肩口に顎をうずめるようにして頭を抱きながら、今後こそ俺は言った。美香は何も言わず、ただ洟をすすっている。
「でも、好きなんだ」
ごめんね、お兄ちゃん。俺の腕の中で紡がれたそれが、美香の答えだった。




