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僕が君を求めても  作者: 麻柚
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人を変える、恋

 日曜日のあれから、数日経過した。学校にいる間、思った以上に俺は美香に近付けなかった。服部、そして加藤までもが美香の周辺で睨みを利かせていたからだった。日曜、俺と美香が二人になってしまった時分に何かあったのだと、服部は感じ取っていたようだった。

 放課後、俺と田嶋は二人で教室に残っていた。週番の田嶋が頼まれた仕事に、一人では大変だからと隣の席の俺までやらされることになったのだ。林先生に任されたプリント整理を、淡々とこなしていく。

 田嶋は日曜以来様子がおかしかった。何かに怯えたような、追いつめられたような、微妙な態度が続いていた。


「どうした、お前」


 ぼんやりとプリントをホチキスで留めていた田嶋に、言った。


「日曜からおかしいじゃねえか。お前、もっとウザいだろ」


 なにそれ、と田嶋は乾いた笑いを浮かべた。

 田嶋が変わったのは、俺と美香を見失ってからのことだ。美香が俺に何をされているか想像して、気分でも悪くなったんだろうか。

 結局、田嶋は何も言わないままだった。俺たちは作業を終え、帰り支度を始めた。自分たちの荷物を仕舞い込み、田嶋は整理したプリントを入れた封筒を持った。それを田嶋が職員室に提出すれば、仕事は終わりだ。


「じゃあ」


 そう言ってさっさと行こうとする田嶋の腕を取った。このまま別れるのは後味が悪かった。田嶋は俺に背を向けたまま、振り返らない。


「お前、本当にどうした」

「なんでもないって」

「んなわけねえだろ。お前変なんだよ」


 まだ、田嶋は黙っている。


「しおらしくて調子狂う。お前らしくねえ。どうしたんだ」

「……君のっ」


 俺に振り向いた田嶋は、今にも泣き出しそうに見えた。いや既に、瞳は潤んでいた。

 こんな田嶋は、知らない。弱気な田嶋は何度か目にしたことがある。だが本気で涙を流しかけている今の田嶋は、異常だった。


「君たちのせいじゃないか!」


 君たち、とは誰のことだ。俺と夏見なのか、俺と美香なのか。

 呆気にとられてしまった割に、俺の頭は働いていた。


「僕だって、僕だって好きなのにっ。どうして叶わないんだ……!」


 田嶋は叫ぶと、次の瞬間には走って行ってしまった。俺は一人、取り残さされる。呆然と、立ち尽くした。

 なんなんだ。なんなんだよ、あれは。

 田嶋は美香を諦めた? 違う。田嶋は何を思っている? 何を考えている? 俺を煽り焚き付けることで弄んでいた以前の田嶋は、どこへ行ってしまったのか。もういないのか。

 何も分からない。ただ、田嶋は俺や美香や、夏見によって変えられてしまった。それだけは理解できた。


 *


 田嶋が去ってから数分、俺は意識を元に戻し生徒玄関へと足を向けた。田嶋の変化を冷静に分析することは、今の俺にはできなかった。


「ふ、藤村くん」


 玄関で靴を履き替えようとした俺を、何者かが引き止めた。夏見、だった。

 まさか夏見が現れるとは想像もしていなかった俺は、ほんの少し動揺した。そんな自分が情けなかった。

 俺より身長の低い夏見を見下ろし、意識的に凄みを利かせてみると、夏見は体を震わせた。だがそこで屈することなく、続けた。


「話があるんです。来て下さい」

「俺にはない」

「……僕にはあるんです」


 普段では考えられない、強い瞳であった。俺は何かを感じ取り、夏見の後をついていった。どこに行くのかと思えば、例の踊り場だった。美香と夏見を裂いたこの場所を、夏見はあえて選んだのであろうか。だとしたら夏見は、俺に何を告げようとしているのか。

 夏見は俺に向き直ると、深呼吸を一つした。


「やっぱり、貴方には譲れません」


 夏見は、そう言った。


「僕は藤村さんが好きなんです。だからこのまま、藤村さんが貴方のものになるのを指を咥えて見ているなんて、できないんです」

「……なんだそれ」


 美香が好き? 黙っていられない?

 何を今更。俺と美香のキスを見たお前は、美香を捨てたのだろう。そのお前が、どういうつもりだ。


「おかしいな。お前から美香を振ったって聞いたんだがな」


 自分から捨てておいて、やっぱり必要な存在だから取り戻したいだなんて、そんな我儘が通るとでも思っているのか。思っているのだとしたら夏見は、この俺よりも愚かだ。美香を傷付けたという面では、俺も夏見も変わらない。

 夏見は唇を噛みしめた。眼鏡の奥の瞳が揺れる。


「……貴方と藤村さんのあの光景を見せられた時、思いました。藤村さんの周りには貴方や田嶋くんや、魅力的な方が沢山いる。僕なんか釣り合わないんだと」


 俺や田嶋を通して、夏見は現実を知ったわけだ。美香は遥か高くに位置する存在なのだ、と。


「そんなことは分かってて、それでも好きだからと藤村さんに告白しました。でもいざ目の前にしたら自信を失って……なんで僕みたいな人間が藤村さんの隣にいるのかって、ショックでした」


 夏見には夏見にしか分からない、葛藤があった。だからと言って夏見に同情してやる余地はない。夏見などより俺の方が苦しいに決まってる。俺の方が美香を想っているに、決まってるんだから。


「途端に苦しくなって……! 藤村さんといればこの先もずっとこんな不安を抱えていかなきゃいけないんだと思うと耐えられそうになくてっ。諦めようって、そう思いました」


 諦めようとした。でも、諦められなかった。夏見はとっくに美香に嵌っていたのだ。


「でもできなかったんですっ。当たり前です。諦められるくらいなら初めから、藤村さんのこと、好きになりません。僕と違う世界に生きる人だって分かっていたのですから」


 夏見は俺を見つめた。その視線に薄弱な部分は、一切なかった。


「僕はもう自分の気持ちから逃げません。もう一度、藤村さんに向き合います」

「……俺とあいつがキスするような関係だって、分かってて言ってるのか」


 まずい。素直にそう感じた。

 夏見の心はもう揺らぎない。俺が何をしようと、自分を貫くつもりだ。夏見を美香から引き離すことは、できない。

 どうしてだ。一度は成功したはずなのに。どうして美香はこうも、無意識に男を縛りつける。


「……今、藤村さんは貴方を愛しているのかもしれません。それでも、たった一度でも僕を好きだと言ってくれて、凄く嬉しかったんです。だから最後にもう一度、悪あがきをするんです」


 美香は今でも夏見しか見ていない。俺は口を開かず、そのまま夏見と対峙していた。


「僕は一度、藤村さんを泣かせてしまいました。だから、完全に元通りになることなんて望んでいません。望めません。でも想いは伝えます。後悔しないように」


 力強い瞳は、夏見の発言以上に俺を狼狽させた。それを夏見に悟られないように、俺は気張った。


「お前には絶対、負けない」

「僕だって、藤村さんへの気持ちは誰にも負けない自信があります。それでは」


 夏見は踵を返すと、一段一段、確実に下っていった。反響していた足音は、やがて消えた。


「……誰にも、負けない」


 それは俺の台詞だ。俺がどれだけ美香を想ってきたのか、知りもしないくせに。

 美香は夏見を選ばない。俺を、選ばせる。絶対に。

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