歪む、奪う
翌日から、美香は本当に家を出ていった。まともに家事ができる人間のいなくなった家の中は僅かばかり荒れた。海斗とは口を聞かず、まるで俺一人で住んでいるかのような感覚さえした。家は暗い。帰宅すると必ず俺を迎えてくれた明るさは、もうない。
日曜日、俺は悠太、俊也と高咲市で遊ぶ約束をしていた。二人は、終始うわの空で笑わなくなった俺を、心配してくれていたようだった。
「こうやって休みの日にちゃんと遊ぶの久しぶりだよな」
悠太が言う。俊也が頷いた。
「どこ行くかー。カラオケか?」
「却下」
「じゃあゲーセン」
「却下」
「ボーリング」
「本気で言ってるのか?」
二人のコントを、俺は黙って流していた。俊也の言う「本気なのか」は、悠太の運動神経の悪さを踏まえての言葉だろう。
「うっせえぞ俊也っ。さっきから反対ばっかしやがって、対案を出せよ対案を!」
「食べ歩き」
「こんな田舎のどこで食べ歩くんだよ……」
結局、二人の議論は平行線を辿り、ファミレスで早めの昼飯を食べながら考えることとなった。適当な店に入り、注文を済ませる。
悠太はコップの水を一気飲みして、ぷは、と息を吐いた。
「つうかどうなってんだ、夏見と美香ちゃんは」
チーズインハンバーグを頰張りながら悠太に尋ねられ、俺の心臓は脈打った。
「藤村と夏見?」
「ああ。ついこの間までムカつくくらい仲良さそうだったのによ。今はなんつうか、距離がある感じなんだ」
付き合い出した二人を俺が切り裂いて別れさせたからだ、なんて言えるはずもない。
「代わりに田嶋が美香ちゃんに会いに来てべったりでよ。ほんとどうなってんだか」
田嶋はわざわざ教室まで行き、美香を取り込もうとしているのか。言われてみれば、授業の合間の休みに姿を消すことが多くなっていた気はする。歯軋りしたくなるのを抑え、俺は水を呷った。
「……藤村くん?」
聞き慣れた声で唐突に呼びかけられ、ハッと振り返る。そこには、田嶋がいた。
「田嶋! なんでお前いんだよ!」
「ああ、広井くんもいたんだ。全然見えてなかった」
また田嶋と悠太の喧嘩が始まりそうになったので、俺はナポリタンを巻いた。俊也はオムライスをかき込んでいた手を止めて、田嶋を見上げた。
「一人でいるのか?」
「いいや、小峰くん。向こうのテーブルでね、藤村さんが待ってるんだ」
そう言い放った瞬間、田嶋が俺を見た。勝ち誇ったような顔つきで、俺を見下ろしている。俺は田嶋を睨み上げた。拳を握りしめ、胸倉に掴みかかりそうになる衝動を抑えた。
「は⁉︎ お前デートかよ⁉︎」
「そうだよ、と言いたいところなんだけどね。二人きりじゃないんだ。服部さんと加藤さんもいるよ」
「加藤ちゃんも⁉︎ って、どういう面子だよそれ。明らかにお前場違いだろ」
美香がこの半日、田嶋と過ごしていた。そんな些細な事実が、俺を強烈な怒りへと導く。
「そうだ。じゃあ君たちも一緒に遊ぶ? そうすれば僕も場違いじゃなくなるし。ね、藤村くん」
田嶋が俺に振ったが、俺は答えなかった。何か反応してしまえば、場を弁えず、憎いという感情をぶつけてしまいそうだった。
「広井くんは加藤さんと遊べるわけだし、名案だと思わない?」
「名案だっ。それでいこうぜ!」
「あはは、単純」
小峰くんもいいかい、と問われた俊也は頷いていた。俊也はスパゲッティとオムライスを平らげ、ドリアに手をつけていた。
田嶋は件を伝えてくると言い、俺たちのテーブルから離れた。
「まさか加藤ちゃんと遊べるなんてなー。たまには田嶋も役に立つな」
「その言葉、田嶋が聞いてたら三倍返し食らってるだろうな」
田嶋はどういうつもりなのか。本気で、美香とのことで俺と張り合おうとしているのだろうか。
田嶋が去っていった方向に目をやりながら、俺は水を飲み干した。
*
ファミレスを出たところで田嶋たちと合流した。悠太と加藤、俊也と服部はそれぞれ楽しげに挨拶を交わしていたが、田嶋の後ろにいた美香は、俺を見るなり目をそらした。
田嶋の合図で、街へと繰り出した。
田嶋によれば、美香が服部の家に泊まっていることを知り遊ぶことを提案した。どうせなら加藤も、ということで呼び、四人で会うことになったという。勝手に事の顛末を話し出す田嶋を憎々しく思いながら、聞き流した。
今日、田嶋は女子の買い物に付き合うつもりでいたようだ。つまりそこに合流した俺たちも、女子の買い物に付き合うことになる。
服屋が複数入った大型の店に立ち寄った。そこからは、個人行動になった。
悠太は加藤につく。ふりふりとした茶色のスカートを手に取った加藤に、悠太は顔を赤らめながら、可愛いよ、と必死にアピールしていた。今日の加藤の服には所々にフリルのような素材が用いられていて、どんなものが好みなのか、一目瞭然だった。
俊也は服部に付き、一歩引き気味の服部にミニスカートを手渡していた。今日の服部は男っぽい服装をしていて、この店の雰囲気とは正反対だった。
悠太と俊也の組が、次第に離れていった。俺は田嶋と美香とともにいた。田嶋は美香のそばを片時も離れようとしなかった。
「藤村さん、これなんか可愛いと思うな」
「そ、そうかな」
「うん。藤村さんにぴったりだと思う」
田嶋の働きかけに、美香は少し戸惑っている様子だった。俺は二人から数歩離れ、後ろからついていった。まるで花火大会の時のように。
買い物を済ませ、会計をする。その間、俺は田嶋によってトイレに押し込められた。
「僕、頑張ってると思わない?」
手を洗いながら田嶋は言った。その背後の壁に腕を組んで立つ俺を、鏡を通して見ていた。
「今日は僕から離れないでって言っておいたんだ。君から藤村さんを守ってみせるよ」
そんなことを宣言するために、わざわざ俺を引っ張ってきたんだろうか。くだらない。
「思えば君はお兄さんで、僕は他人だもんね。君にはない可能性が僕にはある」
こめかみが動く感覚があった。俺が最も憎悪している現実を、田嶋はわざと引っ張り出して提示してきた。
「君は藤村さんを手にできない。でも、僕は違う」
俺はいよいよ田嶋に掴みかかった。俺たちしかいないここでは、それを咎める人間もいなかった。
「美香は俺のものだ」
「……なに言ってるの。藤村さんはあんたのものじゃない」
あんた。その物言いに、俺はさらに強く田嶋の襟首を絞め上げた。田嶋は一瞬間苦しそうに眉間に皺を寄せたが、すぐいつものうさんくさい笑顔を浮かべた。
「いい加減認めたら? 藤村さんはあんたなんか眼中にないんだよ」
全身の熱が突如として沸き上がった。気が付いた時、田嶋は床に倒れ込んでいた。俺の拳には、人を殴った感触が残っていた。
頰を押さえて俺を見上げる田嶋は、何故か笑っていた。それがただただ不快で不気味で、仕方なかった。
田嶋がゆっくりと立ち上がる。手を洗い直し、田嶋は再び俺と顔を合わせた。
「僕を殴ろうが現実は変わらない。藤村さんがあんたを見ることは、一生ないよ」
田嶋は先に、トイレを出ていった。
服屋を出ると、今度は男物の服屋に向かった。悠太が服に困っていると言うと、加藤が是非一緒に選びたいと言ったそうだった。
そこでもまた、自然に三つの組に分かれた。田嶋は俺を一切気にせず、まるでその場にいないものとして扱っていた。
「藤村さん、僕にはどんな服が似合うかな?」
田嶋と並んで、美香は田嶋のための服を選んでいた。
本来、そこにいるのは俺だった。着られればなんでも構わない、と特にこだわりを持たない俺に、美香は度々一緒になって服を選んでくれていた。なんでもいい、と俺が投げやりに言うと、苦笑しながら俺に合うものを選定してくれた。服選びなんて面倒で仕方なかったのに、もうあの時間すら戻らない。
「これかな……うんと、こっちかな」
「あはは、ありがとう。ゆっくりでいいからね」
美香は今、田嶋のことを考えている。募る嫉妬をごまかすことは、不可能だった。
服屋を出て街を歩き出す。田嶋の手には美香に選ばせたズボンを入れた袋が、大事そうに握られていた。
腹が減った、という俊也のぼやきに、服部がパン屋の存在を主張して、そこへ向かうこととなった。
「ねえ、別行動しない?」
田嶋がそんな提案をしたのは、その時だった。
「僕、藤村さんを本屋に連れていきたいんだ。みんながパン食べてる間に行ってきちゃうよ」
「は? おいっ」
「いいんじゃね。俺と加藤ちゃんはパン屋組につくけど」
「時間も無駄にならないしな」
悠太と俊也が賛同する。服部は何か反論しかけていたようだったが、口を噤んでしまった。
「藤村くんはどうする?」
田嶋が俺に問うた。それは、どことなく挑発的であった。
田嶋と美香を、二人だけにはさせない。
「本屋に行く」
「は? 待て藤村、あんたはこっちだ!」
「大丈夫だよ服部さん。僕がいるんだから」
服部を抑え込んだ田嶋は、俺と美香を連れて歩き出した。田嶋、美香、俺の順に進んでいく。人が多く、油断するとはぐれてしまいそうなほどだった。この状況も、あの花火大会とまったく同じだ。
「人が多いね。もうすぐ着くから」
「うん。ありがとう、田嶋くん」
田嶋はこまめに美香を気にかけながら、先頭を歩いていた。美香は決して、此方に振り返らなかった。
「美香」
ショーウィンドウを眺めながら歩いていた美香を、呼んだ。美香は背中を震わせ、恐る恐る、といった風に俺に向いた。肝心な時に気付かなかった田嶋は、立ち止まった俺たちを置いて先に行ってしまった。
「待って、田嶋くん」
田嶋を追おうとした美香の腕を、強く引き寄せた。人通りのない狭い路地へと引き込み壁に追い込んでやれば、それだけで美香は泣きそうになっていた。暗く異臭のする路地裏は、蜜事を行うのには最も適当な空間だった。
「田嶋に乗り換えたんだな」
「ち、ちがっ……」
「何がどう違うんだよ」
唇を奪う。何度も何度も、離れては触れ合わせた。美香は熱っぽい吐息を漏らした。俺とのキスに慣らされた美香は、甘い色香でもって俺を煽る余裕を持ち始めていた。
涙で瞳を濡らして、美香は俺を見る。紅潮する頰とのコントラストが、俺の熱情を更に湧き上がらせた。
「……泣けばどうにかなるとでも思ってんのか」
俺は美香の唇を、もう一度奪った。
何も言わずに泣く美香の手を引き、路地を出た。しばらくすると、田嶋と服部たちが俺たちを見つけた。田嶋は青ざめた顔をして、服部は深く俺を睨んでいた。だが美香の涙の跡に気付いた者は、誰もいなかった。




