苦しい状況
俺が美香と夏見を引き裂いてから、数日が経過した。
あの日以来、いや正確にはその翌日の夜から、美香は感情を大きく出さなくなっていた。無理に笑顔を作ることは勿論、泣くこともなく、ただ呆然とした日々を過ごしていた。少なくとも、俺の前では。
夏見との別れは、美香を確実に狂わせていた。
「おい田嶋っ、お前藤村さんと抱きしめ合ってたって本当かよ!」
その話を聞いたのは、そんな時だった。
四限の体育を終え更衣室で着替えていると、隣の田嶋はそう声をかけられていた。途端に、更衣室内の視線が田嶋に集まる。動揺して、ワイシャツを羽織りかけた俺も田嶋を見た。
「あーあ、見られてたんだ」
田嶋は俺を一瞬捉えた後、笑って言った。鼓動が加速する。周りの男子は興奮気味に、田嶋に食いついていた。
「噂は認めるんだな?」
「うーん、正しくは抱きしめ合ってたじゃなくて抱きしめてた、だけどね」
その田嶋の発言に沸かなかったのは、その場では俺だけだった。
「お前フラれたんじゃなかったのかよっ」
「復縁したのか?」
「ちょっと、フラれたなんて心外だなあ」
どうして、田嶋が。ついこの間まで叶わなくてもいいとまで言っていたはずの田嶋がどうして、急に動き出す。
夏見の手からやっとの思いで奪った美香を、今度は田嶋に盗られるというのか。
「ていうか僕、何度も付き合ったことはないって言ってたはずなんだけどなあ。あの時はお互い好きだって気持ちもなかったよ。勿論、友達としては好きだったけどね」
あの時――一年次の終わり頃、田嶋はただ美香を利用していただけだった。憧れという感情はあったかもしれないが、それはやっぱり、恋ではなかった。
「でも、今は本気だよ。僕は藤村さんが好きだ」
直後、あちこちで歓声が上がった。口笛を吹いて冷やかす奴さえいる。
普段美香を品定めの目で見、彼氏ができればブーイングを起こしていそうなこいつらも、田嶋の告白には熱心に耳を傾けていた。野次馬なんてそんなものなのだ。
「と言っても、まだ片想いなんだけどね」
「田嶋なら余裕だろ⁉︎」
「あー、藤村さんまで盗られるのかよ」
「田嶋死ねっ」
「ちょっと、酷いなあ」
美香が田嶋に盗られる?
そんなことはありえない。美香のそばにはこの俺がいる。俺がいる限り、他の男が美香を得るなんて、絶対にあり得ない。
誰も、何も分かっていないのだ。美香が誰のものであるか。
「おいそこらへんどうなんだ、お兄さん。藤村から何か聞いてないのか?」
金山が俺に問いかけたのを聞いて、田嶋は意味ありげに俺に目を向けた後、再び他の奴らに微笑んだ。
「みんな落ち着いてって。この話に藤村くんは関係ないんだから」
殴りかかりそうになった。
田嶋は俺の気持ちを知っている。知っていて、散々俺を弄んでいた。その田嶋が俺のことを、部外者のように言い放ったのだ。
「てことで、みんな藤村さんに手を出さないでね。はいこの話は終わり」
田嶋はそれ以上何も話そうとしなくなった。周りの奴らも諦めたのか、着替えを終えると更衣室を出ていった。いつの間にか、俺と田嶋の二人だけが残された。
「……僕、見ちゃったんだよね」
田嶋が、ジャージ袋の紐を締めながら呟いた。
「藤村さんが教室で夏見にフラれてるところを、さ」
教室で、ということは、美香と夏見は再度二人きりで話をしたのだろう。そしてそこでは夏見から、美香に別れを告げた。もしかしたら美香は踊り場での出来事ではなく、その教室でのショックでおかしくなっているのかもしれない。
「何があったか知らないけど」
田嶋を見ないでいた俺を、田嶋は無理矢理自分の方へ向けた。そこにいつもの微笑みは浮かんでいなかった。
田嶋に美香とキスをしたことを告げれば、田嶋はそれだけで何があったのか全てを悟るだろう。だが俺は、何も言わなかった。
「藤村さんが幸せならそれでいいと言ったのは本心からだ。でも、君も夏見も藤村さんを傷付けるだけなら、僕は遠慮しない」
そして田嶋は、不敵に笑んだ。
「僕と君はライバルだ」
田嶋は俺の返事を聞くことなく、更衣室を出てしまった。
ライバル? 俺と、田嶋が?
違う、田嶋は周回遅れだ。美香はとっくに、俺に捉われているのに。
こうなってしまった以上、悠長なことは言ってられない。田嶋にも、思い知らせるしかないのだ。美香がとうに俺の手に堕ちていることを。
そして美香自身にも、自分が誰のものであるか、しっかりと認識させる。
*
家に帰ると、美香はリビングで静かに洗濯物を整理していた。俺に気付いても行動は見せず、俯いて作業を続行した。
俺はソファに座り、真下で作業する美香を見下ろした。
「お前田嶋にも媚売ってるわけ?」
それを聞いた美香は肩をびくりと動かした。明らかに心当たりがあるのだろう。足を組み、美香の返答を待った。
「そんなこと、してない」
「抱き合ったんだろ?」
美香の顎を持ち上げ、視線を合わせた。だが美香はすぐにそらしてしまった。何度もそうやって逃げようとして、そのたび美香は俺に支配された。美香が危ういのは学習しないからだ。
「夏見が駄目になったからって田嶋に乗り換えんのかよ」
「そ、そんなのじゃないっ」
美香を、俺の顔のすぐ前にまで引き寄せた。俺と美香の目線が至近距離で絡み合う。美香は俺を突き放そうとしたが、無駄なことだった。
「結局お前は手っ取り早く慰めてくれる男が欲しかっただけなんだろうが」
美香は、その気になればどんな男だって囲うことができる。夏見や田嶋を潰したところで何も解決しないのかもしれないと思うと、苛立ちが募った。
「――違うっ。私が好きなのは、夏見くんだけだから……!」
何故。
夏見はお前を守ったのか。夏見はお前に何を与えた。何故お前は、そうも夏見に固執する。
「馬鹿じゃねえの。捨てられたくせにご苦労なことだな」
捨てられた。その言葉を受けてか、美香はしばし沈黙した。それから涙を流し、顔を手で覆った。
今美香が零している涙は、夏見のためのものだ。そんなことすら腹立たしく、俺はその涙をも自分のものにしようとした。
美香の腕を持ち上げ、立ちかけた美香をソファへ投げる。美香は深くソファに沈み込んだ。美香の上から覆い被さるような体勢を取ると、俺は美香に口付けた。そうしながら美香の服の首元を思いきり引き下ろす。驚いた美香がそこを隠そうとするより先に、俺は美香の肌に食らいついた。
「いっ――」
美香は俺の頭を精一杯押しのけようとしていた。俺は片手を美香の首裏へ回し、もう片方でソファに手をついていた。そうすることで美香の肌と俺の唇を更に密着させた。
俺はその白い肌を吸い上げ、痕を残した。この紅い痕跡は言い逃れを許さぬ、証拠だった。俺が美香に触れた、という。それ一つでは飽き足らず、俺はもっと目立つ位置を狙い二三を散らした。
「……どうして、こんなこと」
美香は涙声で、呟くように言った。
「陸は、私が嫌いなんでしょう?」
俺たちの足元で、洗濯物がぐちゃぐちゃに崩れていた。美香が必死に築いていたものが、俺によって全部壊されていた。
唇を手の甲で隠しながら、美香は横を向いて涙を落としていた。その首筋に、俺の痕が生々しくこびりついていた。
「……嫌いだ」
好きだと伝える資格なんて、とっくになくしてる。
「大嫌いだよ、お前なんか」
俺が美香から退くと、美香は走り逃げ、玄関を飛び出していった。俺はほとんど放心状態で、洗濯物の山を眺めていた。
*
部屋で仰向けになっていた俺が物音に気が付いたのは、美香が出ていって二時間ほど経過してからのことだった。しばらくして部屋をノックする音がしたが、訪問者は美香ではなかった。海斗は深刻な顔つきで俺を見下ろし、すぐ本題に入った。
「……姉貴に何をした?」
部活帰りの海斗は、家を飛び出した美香に偶然出くわしたと言う。海斗の姿を見た美香は、泣きながら抱き着いたらしい。普段の美香は決してそんなことをしないから、それで海斗は、何かあったのだと察したようだった。
「姉貴の首のあれ、兄貴がやったのかよ⁉︎」
美香の首に刻んだあの痕は、俺の証だった。俺が美香に触れたことを、確かに示すものだった。
「……だったらなんだよ」
開き直るような態度で答えた俺に、海斗は怒りを露呈させ、掴みかかった。
「ふざけんな!」
海斗のやり方に抗わないでいると、海斗は続けた。
「姉貴を傷付けてる自覚はねえのかよ!」
あるに決まってる。俺はわざと、美香を傷付けてるんだから。
「……あんな目立つところに、何個もっ。普通じゃねえよ!」
海斗は俺のワイシャツを握る手を揺らし、全力で訴えていた。
「兄貴は姉貴が好きなんだろ⁉︎ 好きならっ、好きなら守れよ! 傷付けるなよ!」
海斗は美香だけでなく、俺のことすらも思って言ってくれているのだと感じられた。俺と美香が幸せになれるなら応援すると、そう笑ってくれたあの時の優しさが、思い出された。
俺は、最低の兄貴だ。美香にとっても、海斗にとっても。
「お前に何が分かるんだよ!」
俺は海斗を振り放し、顔を背けた。
「もう無理だっ、なんにも知らないあいつを見てるだけなんて。もう限界なんだよ!」
限界で、自分の欲望の赴くままに行動してしまっている。今の俺を止めるすべなどあるんだろうか。あるとしたらそれは、美香を想う以前の日々に時間を戻すことくらいではないだろうか。
「そんな勝手な都合っ、姉貴に押しつけんな!」
勝手な都合。その内容すら知らない美香にしてみれば、俺の行いは奇行同然かもしれない。
でももう、戻れない。俺が美香を好きなままで以前のように笑い合うなど、できるはずがないのだ。
「これ以上姉貴を傷付けるなら、悪いけどもう兄貴の応援なんてできるわけねえから。姉貴は俺が守る」
海斗が守ってくれるなら、俺は美香を穢さずに済むのだろうか。自制力のなくなった俺を海斗が殴って立ち止まらせてくれるなら、それがいいのかもしれない。
「姉貴には、明日からしばらく姉貴の友達の家に泊まってもらうことになったから」
「……は?」
「兄貴のそばほど危ねえところはねえからな」
海斗は俺を睨み、出ていった。一人になった俺は、込み上げる笑いを抑えきれなかった。
俺から引き離せば美香を守れるだなんて、それは甘すぎる考えだ。そんなことで、美香を救えるはずがないのに。




