最低なやり方
翌日はいつにも増して早く登校した。
昨夜は結局夜中まで部屋に閉じこもり、美香と海斗が寝静まったであろう頃合いを見計らって夕飯を食べた。どんなことがあった後でも、俺の分の夕飯は美香によって必ず残されていた。そしてそのまま、寝ずに家を出てきたのだった。
校内はいやに静かだった。朝練のある部活のかけ声がどこからか聞こえてくる以外は、昼間の騒がしさが嘘のようだった。
昨日の美香の泣き顔を思い出してしまいそうで、俺は教室に着くと机に伏せた。
美香は昨日、ただの一言も俺を責めなかった。それは単純に暴言を浴びせられることよりも、遥かに苦しいものに思えた。
「あのっ、大丈夫ですか……?」
伏せた腕の中で唇を噛んでいると、不意に呼びかけられて、驚き起き上がった。そこには、今一番、憎らしい男がいた。
「あ、すみません突然っ。僕、三組の夏見って言います。廊下を歩いてたら俯せてる貴方が見えたので、体調悪かったら大変だなと思って」
自分から声をかけたくせに、夏見はしどろもどろになって言い訳していた。俺は何も言わず、夏見を見上げた。美香はこの男のどこに惹かれたのだろうと探してみても、分からなかった。
「お前のことは美香から聞いてる」
俺が言うと、夏見は目を見開いた。心なしか頰を赤らめ、体をもぞもぞと動かしていた。
この男は、昨日俺が美香にキスをしたことをまだ知らない。それを知ったら、どのような顔をするだろうか。二度と浮かれることが出来ないくらい、打ちひしがれてしまえばいいのに。
しばらくすると夏見は頰の緩みを整え、じっと俺を見た。
「ふ、藤村くん。その、藤村さんの話を聞いてあげてくれませんか。す、少しでもいいんです」
「……は?」
「な、生意気なこと言ってすみません。でも藤村さん、ずっと悩んでるみたいで」
知っている。美香が俺のせいで悩んでることも、俺のせいで追いつめられていることも。俺のせいで傷付いていることも全部、知っている。お前に言われなくたって。
「最近特に、藤村さんの笑顔が見られなくなっていて」
嘘だ。昨日美香は、ずっとお前に笑顔を見せていたじゃないか。俺には向けてもらえなくなった笑顔を、お前は独占しているじゃないか。
悔しくてたまらない。憎くて仕方ない。美香を手に入れて、安全な場所から物を言うその行動にも腹が立つ。
「だ、だからお願いです。藤村さんの話を、」
「うるせえな」
俺が立ち上がると、夏見は目を見開いた。
「何様だよお前」
何も言えなくなって顔を俯けるその反応は、美香にそっくりだった。そんなところまで通じているのか、と苛立ちが込み上げる。
「お前が俺たちの何を知ってんだ?」
夏見、お前は俺が美香にしていることをどこまで知っている。美香にどこまで聞いているんだ。
どうせ何も知らないんだろう。夏見が聞かされているのは精々、俺と美香が喧嘩してそれが少しこじれているのだとか、その程度のはずだ。多分に嘘が含まれているそれを、夏見は信じているのだ。今目の前にいる男が、兄貴でありながら美香を想っているだなんて、夏見は想像もしていないだろう。
「ちょっとあいつと関わったくらいで分かった気になるな!」
お前は憐れだ。本当のことを何も知らない上に、ようやく手にした好きな女の唇を、その日のうちに別の男に奪われたんだから。そしてその事実すら、まだ知らないんだから。
「何も知らねえ奴が首突っ込んでんじゃねえよ」
「……ごめん、なさい」
俺は気弱な夏見の態度が、どこまでも気に入らなかった。こんな男が美香をものにしたなんて、おぞましくて仕方ない。こんな男は美香に相応しくない。
夏見はそそくさと教室を出ていった。俺は机を蹴り飛ばし、肩で息をした。
あんな男が、美香の想い人だと言うのか。あんな、弱い男が。
*
朝の苛立ちは一日中尾を引いた。それも、時間が経つごとに歪んだ形へと変貌を遂げながら、だった。帰宅する頃には、混じり気のないほどの黒い感情に支配されていた。
玄関を開けると、美香がリビングにいる気配がした。確かにリビングにいて、テーブルを拭いていた。俺と目が合うと、怯えた様子でそらした。
昨日のキスは美香にとっても大きなことだったに違いない。美香からしてみれば、初めてのキスを兄貴に奪われたことになるのだから。
美香はそのままキッチンへと逃げようとした。俺はそれを許さなかった。美香の腕を掴み、体を引き寄せた。
「お前あいつと別れたんだろうな」
美香は答えなかった。その様子からして、いや美香の性格からしても、別れを切り出せるはずがないと俺は分かっていた。分かっていて問いかけた。
美香の腕が俺により圧迫される。その細い腕には確実に痛みが生じているだろうに、美香は黙り続けていた。
「お前、夏見をどうやって手懐けたんだよ」
美香が、愕然として俺を見上げた。
「今日わざわざ俺のところに来て言った。お前の話を聞いてやれって」
「な、つみくん、が……?」
沈黙を貫いていた美香が最初に発したのが、夏見の名だった。そんなことにすら嫉妬して、我慢ならなくなる。
「随分お前に入れ込んでんじゃんあいつ」
「――っ」
「なあ、どうやったんだよ」
美香は何も特別なことはしていないのだろう。そこにいて微笑んで、普通に接しているだけで相手を翻弄するんだ。憎らしいほどの魅力によって。
それなら、美香の仕草も香りも笑顔も、全部俺のものになればいい。
俺はそのまま、美香の唇を奪った。
俺が少し前のめりになると、美香の体は腰から後ろに反れた。俺は食器棚に美香を押さえつけ、口付けた。
「こうやって、体でも触らせたか?」
美香は首を横に振った。零れていた涙が、フローリングに一滴、滴った。美香がリビングを飛び出すと、俺だけが取り残された。
床の上の涙が、俺を責めるように照明を反射した。
この涙も、あの唇も、今は全て夏見のものだ。そう思うとやっぱり、たまらなかった。
俺は美香を追いかけた。階段を上がりきり、ちょうど部屋に入ろうとした美香を捕らえ、壁との間に挟み込んだ。
「夏見を呼び出せ」
涙の筋を残したまま、美香が俺を見上げた。
「明日の放課後、夏見を呼び出せよ。そこで夏見と別れろ」
どんなことをしてでも、俺は美香を夏見から取り返す。
美香は怖々俺のワイシャツに手を伸ばし、握った。
「待って、そんなことっ」
「俺とキスしたくせに、黙ってあいつと付き合い続けるつもりか?」
美香は何も言い返せなくなっていた。そういうことに対してはとことん義理を通す人間だから、当然だった。
「……でも、でも私は、本当に好きでっ――」
「関係ねえだろ」
俺はワイシャツを掴む美香の手を離し、それを壁に押さえた。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ」
美香はまた、涙を溢れさせていた。それを拭ってやれる存在は、もういない。
*
翌日の放課後、俺は美香を連れ屋上へ続く階段の踊り場へ辿り着いた。人が近付かないここは、公にできない話をするのに全く都合が良いのだった。
昨夜、俺はここに夏見を呼び出すよう美香に指示し、目の前で電話をかけさせた。美香は声の震えを必死にこらえて、電話の向こうの夏見と会話をしていた。まさか別れ話をされるなどとは思わぬ夏見は、美香の要望にあっさり応じていた。
「ちゃんとあいつに言えよ。俺はここの上で聞いててやるから」
俺は踊り場より少し上がったところに座った。美香は泣いてはいなかったが、瞳は潤んでいた。そのうちに、足音が聞こえてくる。
「絶対ごまかすなよ」
美香の耳元で囁いてから、美香を送り出した。美香は全身震えていた。
「藤村さんっ。どうしたんですか?」
俺のいる位置から少し下、夏見の弾んだ声が響いてきた。
何も知らない夏見は、美香を前にして嬉しそうだった。そんな夏見の姿も、あと少しで崩壊するだろう。
「――夏見くん」
「えっ? ど、どうしたんですか、藤村さんっ」
美香はとうとう泣き出して、嗚咽を漏らしていた。ここからは声でしか察することができないが、夏見は狼狽えているようだった。
「ごめんなさい、夏見くんっ」
「え……?」
「別れて、下さい」
美香が言った瞬間、俺の口角は吊り上がった。
「ど、どういうことですかっ?」
当然、夏見が簡単に別れを受け入れられるはずもない。ここで夏見が食い下がるのは想定の範囲内だった。
最後の一手は、用意している。
「藤村さんっ。何か言って下さい!」
美香は固まっていた。夏見の取り乱した声だけが、天井にまで高く響く。
美香が何も言わないのは当然だった。夏見と別れたいと言った、そこに美香の意思はない。だからこそ確実に、美香と夏見に楔を打ち込む必要がある。
俺は階段を下り、二人のいる踊り場に立った。夏見は心底驚いたように、目を大きく開いた。
「美香」
俺は美香を手繰り寄せ、自分の懐へと引き入れた。そして、夏見の目の前で美香に口付けた。唇の触れ合いだけでなく深く、舌を挿入することまでした。視界の端の夏見は微動だにせず、言葉を失って俺たちのキスを見つめていた。
「ちゃんと言ってやれよ、お前とは別れたいって」
美香を放し、夏見を煽るようにしてそう言った。
「違う、私はっ」
「……どういうことですか、藤村さん」
美香はハッと反応して、俯いた。夏見が美香を凝視するその様を、俺は黙って見ていた。
「どうして何も言ってくれないんですか⁉︎」
夏見が声を荒げた。予想もしなかったことに対し、俺以上に美香が怯んだようだった。美香も、夏見のこんな姿は見たことがなかったんだろう。
「……僕のことは、もうどうでもいいってことですか」
「ち、違うのっ」
「違うとだけ言われても分からないですっ。何が違うんですか⁉︎ ちゃんと言って下さい!」
夏見は流石に、美香のはっきりしない性格をよく理解していた。そこを追及されたら、美香は何も言えなくなるだろう。
案の定、沈黙が訪れた。
「……ごめんなさい。一人になりたいので、もう行きます」
夏見は踵を返した。キスの後、夏見は一度も俺の顔を見なかった。
「大声出して、すみませんでした」
駆け下りていく夏見を美香は追おうとして、その足を止めた。自分にその資格がないことを知っていたからだろう。きっかけを作ったのは俺だったが、こじらせたのは美香だった。
最低なやり方で美香と夏見を破壊した。二人はもう、元には戻れない、だろう。




