言わせてはいけない言葉
教室を出ていった田嶋も服部も、すぐに戻ってくることはなかった。俺は誰にも何も伝えないまま帰路に着き、その足でバイト先へと向かった。
今日のシフトを確認したが、青木先輩は入っていないようだった。その代わりに厄介な人物と重なっている。俺は早々と着替えて仕事に取りかかろうとした。
「陸くん」
しかしそんな俺の考えも虚しく、俺は厄介な人物――飯塚に捕まってしまった。
「おっはよ。今日もかっこいいね」
飯塚からは事あるごとにアプローチを受けていた。好いてくれているのは嬉しいが、一度断ったのだからもう少し距離を置いてほしいとも、思ってしまう。
「店長が言ってたよ、陸くんのおかげで女性客が増えたって」
「……そうですか」
「もう、敬語やめてって言ってるでしょ。同い年なんだからさ!」
こういう時は、いつも青木先輩がさりげなく間に入って場を流してくれていた。でも、今日はその先輩が不在だ。自分でどうにかするしかない。
「もう時間だし、俺行きます」
歩きかけた俺を、飯塚が腕を掴んで引き止めた。振り返ると、楽しそうに笑っている。
「今日さ、終わったらご飯食べに行こうよ」
「俺、賄いもらいますから」
「じゃあじゃあ、お茶しよ。ねっ?」
約束だよ、と言って飯塚は店の方へと出ていってしまった。一方的なその取付を拒否する間隙もなかった。何も考えたくない時分に限って、厄介なことが次々と持ち込まれてくる。
俺は店に出ると仕事に専念した。そうしているとあっという間に時間が過ぎ、賄いを食べてからバイトは終了した。飯塚がいないうちにさっさと出ていこうと急いだが、飯塚は既に店の裏口で俺を待っていた。
「陸くんっ」
飯塚は嬉しそうに俺に駆け寄ってきた。こんな無愛想な姿勢を取り続ける男の、どこがいいんだろう。
「この近くにね、ちょっと高いけどすっごく美味しい紅茶飲めるところがあるの。行こうよ」
飯塚が俺の腕を取った。
このまま、曖昧に流されてはいけない。新井の時はそうやって後悔したのだから、繰り返してはいけない。
俺はその場から動かなかった。飯塚はそんな俺を見て、不思議そうにした。
「……ごめんなさい、飯塚さん」
その場しのぎの中途半端な言動は、後々自分も相手も傷付ける。だから今ここで、はっきりと言うべきなのだ。
「俺は行けません。飯塚さんの好意に甘えるわけにはいかないから」
「そ、そんなのいいんだよ? ね、行こうってば」
「ごめんなさい」
俺は軽く頭を下げて、飯塚の次の言葉を待った。
「……なによそれ」
飯塚から返ってきたものは、予想もしない言葉だった。
「なに。ちょっとモテるからって調子に乗ってんじゃねえよ」
「え、」
「あーあ、もう良い子ちゃんぶるのも疲れたし。せっかくあたしが誘ってやってんだから、あんたは黙ってついてくりゃいいのに」
その変貌ぶりに動揺した俺は、しばらく何も返せなかった。呆然としている間にも、飯塚の口は動く。
「あんたみたいな愛想ない男、顔が良くなきゃ相手にしないし。自惚れんなっつうの」
飯塚は再度俺の腕を引き、言った。
「別にお茶しなくてもいいよ。だからあたしと付き合って。彼女いないんでしょ」
「……ごめんなさい。それはできない」
俺には美香がいる。それに、こんな素性を見せつけられた後で女として意識するなんてこと、できなかった。
俺は飯塚をそっと払い、背を向けて歩き出そうとした。
「待ちなさいよ。好きな女でもいんの?」
「そうです。だから付き合えません」
「ふうん、それって片想いなわけ。あんたのことだもん、どうせろくでもない女なんでしょ」
頭に血が上った。怒りのあまり全身が震えたが、手の平に爪を食い込ませてどうにか耐える。美香を貶されることだけは、我慢ならなかった。
これ以上飯塚といたら何をしてしまうか分からない。俺は身を翻し、その場を去ろうとした。
「待ってよ!」
そんな声が聞こえて腕を引き寄せられたと思うと、次の瞬間、飯塚の唇が俺のそれに押し当てられていた。それに気付くと、勢いに任せて飯塚を突き飛ばしてた。飯塚は勝ち誇ったように笑っていた。
「ふん、ざまあみなさいよ」
飯塚は顔を顰めた。先程までその表情に湛えられていた優越したような態度は、もう見られなくなっていた。
「馬鹿っ」
飯塚はそう叫び、走り去った。俺は何度も何度も、唇を手の甲で拭っていた。
飯塚が分からなかった。でも別に、考えたいとも思わなかった。ただ重なった唇の感覚を忘れたくて、俺は何度も何度もそこを拭い続けた。悲しさのような悔しさのような、微妙な感情が湧き上がってきた。
*
その後、わざとゆっくり帰宅したが、海斗はまだ帰っていなかった。玄関の端に小さく揃えられた美香の靴だけが、俺の目に映った。二十一時を過ぎている。
放課後俺に向けられた表情を思い出すと、美香とは到底顔を合わせる気になれなかった。俺はリビングを避け、その足で階段を上がった。自分の部屋のドアノブを捻ろうとしたところで、隣の部屋のドアが開いた。そこにいたのは無論、美香だった。
美香は、すぐに俺から目をそらした。そして俺の横を通り過ぎようとした。それを阻んだのは俺だった。俺は美香の二の腕を反射的に掴んでいた。
「避けるなよ」
美香は俺の方を見なかった。唇を噛みしめて、じっと耐えていた。
そんなに、俺が嫌か。
「こっち向け」
俺は美香を引き、美香の顔を此方に向かせた。美香は明らかに怯えていた。飯塚との間の出来事も相まって、俺はいつも以上に苛立ちを覚えた。
「……ムカつく」
美香は絶望したように俺を見上げた。夏見がもたらすだろう美香の笑顔なんてどこにもなくて、ただ俺による、恐怖だけが美香の表情を作っていた。
「どうせ夏見もろくでもねえ奴なんだろ」
――どうせろくでもない女なんでしょ。
無意識のうちに俺は、飯塚と同じことを口走っていた。
「ああいう奥手そうな奴に限って、お前で汚ねえ妄想してるに決まってんだ」
違う。それはむしろ、俺だ。俺はどこまでも汚くて、美香の傷付いた顔にさえ欲情する、最低な男だ。そう思うのに、口が止まらなかった。
「あいつはお前が思ってるよりずっと最低な野郎なんだよ」
そう言い切った瞬間、廊下に乾いた音が響いた。美香が俺の頰を叩いたことによる音だと気付くのに、僅かばかり時間を要した。
美香の体は震えていた。それでも俺を、危うげな瞳で精一杯睨み上げていた。
「どうしてそんなこと言うの……⁉︎ 陸は夏見くんの何を知ってるの?」
はたかれた左頰がじくじくと熱を持ち、痛かった。
「わ、私のことはいいよ。でも、夏見くんのこと悪く言うのは許せないっ」
美香は夏見を庇うためなら、俺すら傷付けるのか。ずっと家族として一緒に過ごした俺を、一人の男のために反抗して傷付けるのか。
――二人がいるから、今はそれだけで充分幸せだよ。
あんなの、嘘っぱちじゃねえか。
「……お前の方こそ」
美香だって、本当の俺を知らない。これほど身勝手で愚かな想いを秘めた俺を、美香は知らない。
俺は打たれた頬を押さえながら、美香を見下ろした。美香は肩を揺らした。
「お前の方こそ俺の何を知ってんだよ!」
なあ。こんな汚い俺を知ったら、お前はどうする?
「勝手な想像を散々俺に押し付けてきたのはお前だろ⁉︎」
俺が美香を傷付けるたび、美香はそのような目線を俺に送り訴えかけてきた。本当の俺はそんなことしないはずだ、と。美香は馬鹿で、俺を見放すということを知らなかった。
「お前のそういうところがムカついて仕方ねんだよ。二度と俺に口出しするな!」
俺は美香に怒鳴り散らすと、部屋に入りドアを思い切り閉めた。美香がどんな顔をしているかは、恐ろしくて確認できなかった。
どうして美香は、こんな俺を兄貴なんかに持ってしまったんだろう。俺さえいなければ美香は、ずっと笑っていられたのに。
立ったまま拳を握りしめた時、ドアの向こう側から、こつんという音がした。俺はドアに振り返った。
「陸」
美香が、向こう側から俺を呼んでいた。閉ざされているそこからは、当たり前だけど美香の顔も体も見えない。
「私、陸のこと全然分かってなくて、ごめんね」
謝らなくてもいいはずの美香が、俺に謝っている。それに驚いて、俺はすぐに言葉を返せなかった。美香の声は悲痛で、涙ぐんでいるようにも聞こえた。
「私なんかが妹で、ごめんねっ……」
私なんかが妹で。
それは決して、美香に言わせてはいけない言葉だった。家族、そして兄弟を誰より大切にしていた美香の発言としては、あまりに残酷だった。
「美香っ」
俺は慌ててドアを開けた。でもそこに美香の姿はなく、階段を駆け下りる足音だけが廊下で鳴っていた。俺は階段の方向を、立ち尽くして見つめた。
俺は美香を、完璧に追いつめてしまった。何もかも、俺が悪いのに。
美香、あれはお前が言うべき台詞じゃなかった。あれは、俺にこそ似合う台詞だった。
美香。こんな奴が兄貴で、ごめん。




