深まる誤解
修学旅行が終わってから、数日が経過した。
「加藤ちゃんってさ、可愛いよなあ」
久々に、学校の食堂で悠太を交え食事を摂っていた。そんな時悠太が呟いた言葉に、すかさず田嶋が突っ込みを入れた。
「加藤ちゃんって、加藤穂奈美さんのこと?」
「な、なんで田嶋が知ってんだよ!」
「去年同じクラスだったからさ」
「それだけだろうな。何もないんだろうな⁉︎」
「……ないよ。ていうか、何があったの」
田嶋が疲れたような表情で問いかけると、悠太は待ってましたとばかりに口を開いた。悠太のお気に入り、玉子とじうどんは既に伸び始めている。
「実は修学旅行で加藤ちゃんが眼鏡外してるところ見ちゃってさ。髪も下ろしてて、めっちゃ可愛かったなー!」
悠太は相当盲目になっている。それは、俊也が隣から悠太の玉子を取っているのに気付かないその様子からも、明らかだった。
「なに広井くん、藤村さんから鞍替えするの?」
「変なこと言うなよ田嶋! 美香ちゃんは高嶺の花なのっ。あー、また見てえなあ」
悠太が両腕を振り上げた時、その後ろを歩いていた女子に腕が当たった。タイミングが良いのか悪いのか、それは先程までの噂の、渦中の人だった。
「か、加藤ちゃん⁉︎」
振り返った悠太が慌てて立ち上がった。
渦中主、加藤は定食を運ぶ途中だったらしく、お盆を抱えていた。当たりどころが悪ければ大惨事になっていたかもしれない。
「おいあんた、もう少し周り見ろよ。危ないだろうが」
隣にいた服部が悠太に凄みを利かせ、悠太は小さくなって謝罪した。
加藤と服部がいるということは、と辺りを見回したが、美香の姿は見えなかった。ほっとして小さく息を吐いた俺を、隣の田嶋は黙って見ていた。
「つうかお前が広井か⁉︎」
「え、そ、そうだけど。えっと、誰?」
「はあ? お前ふざけんな、あたしは」
「おい陸」
どこか喧嘩腰の服部と、ぼやけた悠太が口論に発展しかけた時、俊也が振り返り服部の顔を見てから、俺に言った。
「もしかして、この女子が服部?」
「ああ! お、お前はっ!」
服部は俊也の存在にたった今気付いたらしい。俊也に向かって、指を差していた。
以前美香に言われたことはそのまま俊也に伝えてあった。服部という女子が、食いっぷりに惹かれてお前を探している、と。
「まあ、とりあえず加藤さんも服部さんもそこに座りなよ。一緒に食べよう?」
加藤と服部が座ると、全員で事情を説明し合った。加藤と服部と美香は昨年まで同じクラスだったようだが、今年は服部だけ離れたという。
美香だけがいないこの場で、加藤も服部も俺に何か言ってくる気配はなかった。
「最近穂奈美に広井っつー変な男が言い寄ってるって噂を聞いたんだよ。そうか、あんたが……」
「おい待て、変な男ってなんだ!」
「広井くんが変な男、か。ははっ、真理じゃない」
「おい田嶋!」
「田嶋は金輪際美香に近付くなよな」
「あれ、僕にも飛び火しちゃった」
服部に睨まれた田嶋は、肩をすくめた。
「おい服部、飯冷めるぞ」
「小峰。分かってるよ」
俊也に忠告され、服部が口に箸を運び始めた。その光景を、俊也はじっと眺めていた。あまりにも見られるので居心地が悪くなったのか、服部が俊也に視線を移す。
「服部、女子にしてはよく食うな」
「悪いかよっ」
「いや、いいと思うぞ」
俊也が服部に微笑みかけた。女子に微笑むなんて滅多にない俊也のその行為に、俺と田嶋は顔を見合わせる。
服部の方はと言えば、先程とは打って変わって頰を真っ赤に染めていた。
「な、なんだお前っ。食い意地張る女なんか好みでもなんでもないくせに!」
「俺はよく食う奴の方が好きだぞ。例えば、服部くらいな」
今度こそ服部は何も言えなくなって、馬鹿野郎、と小さく呟きご飯をかき込んだ。
修学旅行の時にも見えた、俊也の無自覚なその言動。上手くすれば多くの女子を惹きつけるだろうに、俊也にその気はないのだろう。
俊也と服部の様子を見た悠太は、唇を尖らせた。そして、隣に座る加藤を見た。
「加藤ちゃん!」
「え? どうしましたか、広井くん」
「あ、どうしたっていや別に、その」
相変わらず悠太の方は駄目なようだ。田嶋は可笑しそうにしていた。
「あはは、いいなあ。僕にも春が来ないかな」
「は? 選びたい放題の奴がなに言ってんだ」
「選びたい放題って言ってもね、関係ないさ。僕にだって一緒にいたい人がいるんだよ」
悠太のひがんだ突っ込みに田嶋が返す。俺は丼を抱え込み、顔を伏せて中の物を食べていた。あまり聞きたくはないその言葉から、逃れるように。
「僕は、藤村さんが一緒にいたい」
田嶋が宣言すると、服部と悠太から間髪入れずに野次が出た。
「ふざけんな! 美香に近付くなってさっき言ったばっかだろうがっ」
「美香ちゃんはお前なんか選ばねえぞバーカバーカ!」
「なんとでも言ってよ。僕は本気だから。この前とは違うんだ」
真剣な顔の田嶋に、さすがの二人も口を閉じた。
やっぱり、田嶋が羨ましい。こうして堂々と言い切って、文句を言われることはあっても軽蔑されることはない。俺は、口外することさえできないのに。
「……あ、あの」
しばらく流れた沈黙を破ったのは、意外にも加藤だった。
「た、田嶋くん。もう美香ちゃんのこと、冷たい目で見たりしませんか……?」
「え?」
「あ、いえっ。一年生の時、田嶋くんが時々冷たい目で美香ちゃんを見てたのがその、怖くて」
一年の時とは、田嶋が美香を利用して俺を陥れようとしていた頃のことだろう。普段から柔らかい表情を浮かべている田嶋の微妙な変化に、加藤は気付いていたのだ。
田嶋は加藤の言葉を受けて、申し訳なさそうにした。
「しないよ。約束する」
「そ、そうですか……! それなら」
「でも美香ちゃんが好きなのはお前じゃねえぞ」
悠太の発言が再び場を停止させた。悠太は田嶋を馬鹿にするわけでもからかうわけでもなく、真面目な顔をしていた。その姿は、悠太にまるで似合わない。
「美香ちゃんが好きなのはあの夏見って野郎だ。誰も信じねえけど、俺には分かる。美香ちゃんの雰囲気が明らかに違うんだよ」
「……知ってるさ、そんなことは」
俺も田嶋も、よく理解している。好きな奴の視線の先に、別の男がいることくらい。
「二人が上手くいくなら、僕はそれでいいとも思ってるし」
「……ふうん。選びたい放題のくせに、切ねーな」
「それでも好きになっちゃったんだから、仕方ないよ」
どうして田嶋は、こうも美香を思いやれるのだろう。自分の気持ちを押し殺してまで祝福しようと思えるのだろう。俺には到底、真似できない。
「おい藤村陸」
突然服部に呼びかけられ、顔を上げた。服部は俺を睨んでいた。
「あんたさっきからずっと黙ってるけど、あたしはあんたに一番文句が言いたいんだよ」
「……は?」
「放課後あんたの教室に行くから待ってろ」
それきり服部はまた定食に手を付け始め、何も言わなかった。
何を言われるかは、大方見当がつく。
俺は悠太や俊也、加藤の不思議そうな視線から逃れるように早々と昼飯をたいらげ、一人で席を立った。
*
昼休みの後には修学旅行の総括をする時間が設けられていた。班ごとに固まって、振り返りをする。
「反省って何するんだ。カツ丼が一番美味かったとか?」
「それ違うでしょ」
それぞれ頭を捻りながら出した案を、田嶋が班に配布されたプリントに記入していった。田嶋の字は小綺麗だ。
修学旅行は色々なことがありすぎた。楽しい思い出もあれば、重苦しい思い出もある。そこでふと新井の顔が思い浮かび、気分が沈んだ。
新井に軽蔑されたまま、もう話すことはないのだろうか。美香を理解してくれた新井をあんな風に傷付けたままで、俺は何もできないのか。美香と友人になったのに、俺と別れた原因がその美香にあったと知った時、新井はどんな思いを抱いたんだろうか。
「藤村くんっ」
呼ばれて、ハッと顔を上げる。田嶋が俺を覗き込んでいた。
「藤村くんもぼんやりしてないでなんか考えてよ」
「悪い」
俺は頭を仕切り直して、田嶋たちに向き合った。
「藤村くんが静かだと調子狂うんだよね。みんなの中心でギャーギャー騒いでるのが似合うんだから、藤村くんには」
「……貶されてる気しかしねえ」
「まあ半分貶してるからね」
田嶋とのやり取りを、大山と岡崎がくすくすと笑った。俺はもう溜息しか出せなかった。
「あ、そうだ。大山さん、岡崎さん、聞いてよ。藤村くんの腹筋ね、割れてるんだ」
「田嶋てめえなに言ってんだよ!」
田嶋を睨み上げても、奴は全く動揺していなかった。しかも大山にしても岡崎にしても、田嶋の話に食いついていた。
「なんのスポーツもやってないのにだよ? 修学旅行の大浴場で見た時はびっくりしちゃったよ」
「す、凄いですっ」
「ほんとずるいよね。顔も良くて運動もできて、体も鍛えられてるなんて。弱点らしい弱点なんてゲームが下手くそなことくらいなんだから」
いつかゲームでこてんぱんにしてやりたい、と言ってのけた田嶋の頭に、拳をぶつけた。そんなことをしている間、俊也は昼寝の体勢に入り、実際眠っていた。
「あ、もっと凄いことがあった。二人とも聞きたい?」
「おいっ」
大山と岡崎がまた田嶋に興味を寄せたため、田嶋を止めることはできなかった。何を言うつもりかと、身構える。
「藤村くんと藤村さん、弟くんのお土産に全く同じ物を買ったらしいんだ。しかも偶然」
まさか美香と海斗の話題だとは思わず、俺はつい口を噤んだ。田嶋の様子からして、俺を煽るために確信犯でやっているわけではなさそうだった。
「ええっ、凄い!」
「藤村さんたち、凄く仲良いご兄妹ですもんね。でもそんなことまで」
兄妹。
俺たちは兄妹だから、あんな偶然が起こったんだろうか。それとも他に何か、繋がるものがあったんだろうか。後者だったらいいのに。
「あ、でもお揃いと言えば」
「ん? なに、大山さん」
「あの。藤村さんとその、夏見くんって子がいるんですけど」
思いがけぬ名前に、俺は聞き耳を立てた。
言われてみれば、大山と岡崎は図書委員だ。美香と夏見について何か知っていても不思議はない。
田嶋は夏見という語を聞いて、僅かばかり不満気に頷いた。
「知ってるよ。二人がどうかしたの?」
「その。お二人は同じ班で、班の皆でお揃いのお守りを買ったらしいんです。でも藤村さんと夏見くんだけもう一つお守りを買ってて、それが偶然同じ物だったらしくて」
「図書委員のみんなで話してて、びっくりしたんです」
大山と岡崎のもたらした情報は、嬉しくもあり、反面苦しくもあった。
つまりあの時俺が見たお守りは、故意に揃えて選んだわけではなかったのだ。ということなら、二人はまだ付き合ってはいないのかもしれない。でも偶然揃いの物を買うなんて、二人の気持ちが通じていることにもなるんじゃないか。
「へえ、なにそれ。妬けちゃうな」
田嶋が唇を尖らせた。大山と岡崎が、首を傾げる。
「はは、ごめん。なんでもないよ」
田嶋はそうやって誤魔化したが、大山と岡崎は全てを察したらしかった。二人とも顔を見合わせ、口元に手を当て頰を輝かせた。
その時、チャイムが鳴り、授業時間の終わりを知らせた。班で纏まっていたクラスの奴らが自分の席へと戻り始める。俺と田嶋も並んで自分たちの席に着いた。
「やっぱり藤村さん、本当に夏見が好きなんだろうね」
先程の話について、田嶋は落胆したような表情をした。
「やっぱり、我慢するしかないか」
「……できんのか、お前は」
「勿論、藤村さんのそばにいるのが僕だったらとは思うよ。でも藤村さんの幸せを壊したいとも思わない。藤村さんが幸せなら、それでいいって思えるから」
田嶋は俺なんかよりずっと理性的で大人だ。自分の気持ちを殺しても好きな奴を思いやれるのだから。でも俺は、そうはいかない。俺は、譲るなんてできない。
「できた人間だなお前。俺には、無理だよ」
清掃を終えれば服部がやってくる。美香についての何かを俺に訴えようとしている、服部が。その話を聞いても、俺は感情的にならずにいられるんだろうか。
*
放課からしばらく経った教室には俺と田嶋しかいない。何故田嶋までいるかと言えば、いつもの奴の野次馬根性だ。
服部は一人でやってきた。教室に射し込む夕日が、ドア口の服部を照らしている。服部は俺と田嶋に少し寄って来て、腕を組み近場の机にもたれかかった。
「なんで田嶋までいるんだよ」
「まあいいじゃない服部さん。僕のことはいないものだと思って、本題をどうぞ」
「ウザいけど仕方ないな」
服部はそう言って、続けた。
「藤村、あんたまだ美香に謝ってないだろ」
俺は服部と加藤に、美香に謝ると約束した。だがあの約束は、数ヶ月経った今も守られていない。
服部は机を叩いた。
「いい加減にしろよ! あいつを傷付けてんの分かってんだろ?」
分かっている。美香を裏で泣かせているであろうことも、美香が自分を責めているであろうことも。美香のことなら、手に取るように全部分かる。
「美香は相当追い込まれてる。これ以上あいつを放っておいたら、壊れちまうよ」
「藤村さんが……?」
「田嶋はとりあえず黙ってろ。おい藤村」
美香が壊れてしまう。俺のせいで、そこまで追い込まれている。
今すぐ、美香を救ってやらなければいけないのに。
「頼むから。頭だって下げるから。美香をもう、傷付けんなよ」
全て俺が悪いのに、服部は俺に向かって頭を下げた。謝るべきは、俺の方なのに。
「……顔、上げろよ。服部」
「藤村っ」
「美香のことは俺がなんとかするから。だから服部がそんなことすんなよ」
顔を上げた服部は、俺を見据えた。
「実は、あいつを呼んでるんだ。もうすぐここに来ると思う」
想定外の事実に、心臓が早鐘を打った。
美香がここに来る? 田嶋と服部がいる前で、美香に向き合えるのか。いや第三者がいた方が、冷静でいられるだろうか。俺は美香に何と言えば。
「美香が言ってた。兄妹のことは兄妹で乗り越えたいって」
「……兄妹?」
「そうだ。美香にとってあんたは大切な兄妹なんだよ。そう思えば、素直に謝れんだろ?」
逆効果だった。
否定しても変わらないその事実を、否定しているところなのだ。それをあいつは何の考えもなしに兄妹だと言って現実を突きつけ、俺を家族だとして扱う。
妹としての美香なんか、いらないのに。
「……それだ」
「は?」
「それがムカつくんだよ。兄妹であることにこだわり続けるあいつの態度が」
そう言ってしまえば、服部は怒りを露わにした。
「あんたまだそんなこと言ってんのかよ! あいつが妹で何が不満なんだ。あんたの妹が美香じゃなけりゃ、あんたとっくに見捨てられてるぞ!」
美香が妹でなければ? 美香以外の誰かが妹だったならば?
そうだ。そうだったらよかったんだよ。そうすれば、そもそもこんなこと起こらなかった。妹を傷付けるなんてことはしなかった。あいつが、妹でさえなかったら。
「あいつが妹だってことがムカつくんだよ俺は!」
否定しても否定しても、美香を変えられない。美香が俺を兄妹以上の存在として意識することはない。それが歯痒くてもどかしくて、腹が立つ。
「あいつじゃなけりゃ誰でもいいんだよ。なんでよりによってあいつが妹なんだよ!」
そう叫んだ時、服部の後ろでがたんと物音がした。そこにいたのは、美香だった。美香は泣きそうな顔で俺をじっと見つめていた。
「美香っ、あんたいつからそこに」
「……千歳ちゃん。私のためにわざわざ、本当にありがとう」
美香は微笑んだ。それが自然な笑みではないことくらい、俺も田嶋も服部も理解していた。服部は舌打ちして、俺に掴みかかった。
「藤村っ。美香に謝れ!」
「千歳ちゃん、私知ってたの。陸が私を兄妹だと思いたくないことも、私が、嫌いだってことも」
美香はそのまま俯いて、体を震わせた。
「だから私、平気だよ」
「どこが平気なんだよ。強がるなっ。泣きそうになってるんじゃないのか!」
頑なな美香に、服部が大声を上げた。
「こらえんなよ。少しはあたしらのことも頼れ!」
「……ごめんね、千歳ちゃんっ」
美香は一瞬俺を潤んだ瞳で捉えてから、走って行ってしまった。田嶋は美香の後を追いかけていった。
残されたのは服部と俺だった。服部は悔しそうに俺を見て、吐き捨てた。
「最低だな、あんた」
俺は、最低だ。そんなこと知ってる。
「あんたみたいなのが兄貴だなんて、あいつが可哀想だよ!」
そうして、服部は美香と田嶋を追っていった。服部の言葉だけが教室に響いていた。
こんな最低な兄貴、他にいない。傷付けて、その責任を負おうともしないで逃げているだけの兄貴なんて。
美香が俺の妹でなければと、何度もそんな仮定を考えてきた。でも、逆だ。俺があいつの兄貴でなければよかったんだ。俺にあいつの兄貴である資格なんて、ないんだから。




