露見
「たく、ムカつくよな田嶋の奴!」
悠太がぼやいた。
長かった今日という日を終え、ホテルで食事や入浴を済ませると、就寝時刻までは自由行動となった。俺と悠太、俊也はロビーのシャンデリアのもと、一台のテーブルと椅子三脚を陣取っていた。田嶋は班長会議の集まりに行っており、不在だ。
「こいつのどこが俺に似てんだよっ」
「いや、割と悠太の特徴を捉えてると思うぞ」
「俊也、お前田嶋の次にぶっ殺す」
田嶋から貰った起き上がり小法師を手の上で弄びながら、悠太は俊也を睨んだ。
「悠太、お前同じ班の女子が可愛いってやつどうなったんだよ」
「それが聞いてくれよ!」
悠太に話を振ると、悠太は身を乗り出した。迫り来た悠太の顔に怯み、俺は頭を後退させる。
「俺の班、女子が二人で男子が三人だったんだけどよお。俺以外の男と女子が良い雰囲気になりやがって!」
俺と俊也は顔を見合わせ、肩をすくめた。
「案の定だな」
「旅行前に話した通りだな、陸」
「おいお前ら、話してたってなんだよ!」
悠太が噛みつくのを、俊也と二人で聞き流した。すっかりへそを曲げた悠太は乱暴に立ち上がり、部屋へと帰ってしまった。
「りーくっ」
入れ替わるように悠太の座っていた場所に腰を下ろしたのは、新井だった。新井は普段と変わらず、花の香りのする香水を漂わせていた。
「ちょうどいいところにいたっ。ねえ陸、アイス食べよアイス」
「は?」
「ほら、あそこの売店にあるアイスだよお」
新井は、俺の背後の売店を指差した。新井の顔と口調からして、俺が奢れということなのだろう。財布を確認していると、俊也はさりげなく腰を上げて悠太の行った方向へ去っていった。
「待ってね、もう一人奢ってほしい人がいるの。ほら来た!」
俊也と入れ違いにロビーへ出てきたのは、胸にノートを抱いた美香だった。美香は俺に気付いていないようで、新井を見ると歩んできた。新井は、にこやかに美香に手を振っていた。
俺を発見した美香は目を見開き、それからそらした。
「美香、班長会議お疲れ」
「……うん。ありがとう、綾芽ちゃん」
「食べようって言ってたアイスね、陸が奢ってくれるって!」
美香はぎこちない笑顔を作り、片手を振った。
「いいよ、私は自分でお金出すから」
「もうなに遠慮してんの。自分のお兄ちゃんじゃんっ」
美香は何も言えなくなっていた。昼間、俺が言ってしまったこと。以前俺が、兄妹だと思ってない、と言ってしまったこと。思い当たることの全てが美香を襲い、追いつめている気がした。
「じゃ、アイスはいいや。それよりさっ、二人でお土産選びなよ! 弟くんのお土産」
新井は俺を急かし、売店へと俺の背中を押した。美香はその後ろを、ゆっくりとついてきた。
「ばらばらなお土産だけじゃなくてさ、二人で買ってあげたら弟くんもっと喜ぶんじゃない?」
郷土の菓子、酒や玩具などが雑然と並ぶ売店を前にして、美香は固まっていた。ただ俯いて、はいともいいえとも言わなかった。
「さーほらほらっ。あ、このお菓子とかいいんじゃない?」
「……うん、そうだね」
「ちょっと美香、なんかテンション低くなあい。どうかした?」
「ううん、なんでもないよ」
美香は苦笑して、俺と新井から少し離れていき、そこにあった菓子の箱を手に取って眺め始めた。
「美香ってほんっと良い子だよねえ」
新井は俺の耳元に口を寄せようとした。背伸びをしているが、身長に差があり届いていない。
「旅行中も家に一人でいる弟くんの心配したり、体調悪くなった子の心配したりさ、いっつも誰かのことばっかりで自分のことは後回しで。見てると心配になるくらいだよねえ」
良い子すぎてちょっと引く、と新井はけらけら笑った。俺は新井に答えなかった。
美香は、俺とは違う。美香に反感を抱く側に近かった新井ですら取り込んでしまうほどに、美香は優しい。そういった優しさを、美香のために自分の想いを捨ててやれるような強さを、俺は持っていない。それどころか、傷付けるほど美香の中の俺が大きくなって美香を征服することに、快感すら覚えている。
最低、なんだ、俺は。美香とは違う。全然、違う。
「……陸?」
新井に呼びかけられ、ハッとした。ほとんど同時に、新井の名前を呼ぶ声が響いてきて、女子が数人、此方へ走ってきた。俺の知っている顔もある。
「あ、陸もいるじゃん」
「ほんとだ。陸、なに買ってるのー?」
新井が目的だったはずの女子たちに囲まれ、俺は逃げ場を失った。新井は俺の隣で、じっと俺を見上げていた。
「それお土産?」
「えー誰に? もしかして彼女?」
「ちげえよ、弟」
「なあんだ。そういや陸、最近女の影がないよね」
「もしかして狙い目? あたしと付き合う?」
「冗談やめろって。今そういうのいい」
俺の周囲だけ俄かに騒がしくなったが、それでも美香は、俺を見ていなかった。それどころかその隣に男を侍らせていた。俺の視線を辿ったらしい女子たちが、口々に声を漏らした。
「うわ、藤村さん声かけられてるねえ。誰あいつ」
「ほらあれじゃない? サッカー部の部長になったばっかだって話の」
「ああ、藤村さんを狙ってるって噂になってる奴ね」
「そこそこかっこいいけど、陸に比べれば全然だよねえ」
そんな噂は知らなかった。再度美香の方を見ると、美香は男に笑いかけていた。反射的に、拳に力が入った。
美香なんか、やめておいた方がいいのに。遊びでも、本気ならもっと。美香を好きでいても、苦しいだけだ。
男に対して頭で忠告しながら、俺は嫉妬していた。本来なら俺がいたであろう場所に、田嶋や夏見や、他の男がいる光景を見てしまうだけで、これほど絶望的な思いにさせられるなんて。
「ねえ陸っ、ちょっとこっち!」
突然、新井が俺を引き走り出した。何事かと思いながらも、ついていくしかなかった。
美香にはもう、振り返らないようにした。
*
新井に連れられたのはホテル裏だった。かつての喫煙所だったらしいそこは薄暗く、辺りに人もいないようだった。
「あのさ、あたし今からすっごく変なこと言うから、否定してほしいんだあ」
新井は俺の真正面に立ちながら、此方を見ることを露骨に避けていた。
「言ってもいい?」
「あ、ああ」
新井は随分と何かに躊躇っているようだった。今更何を言うにしたって遠慮することないし、新井はそんな性格ではないはずなのに。
「……陸の好きな人って、美香なの?」
その瞬間、風が強く吹きつけて新井の髪を攫った。薄暗い中でも新井の瞳は煌めき、だが弱々しかった。
「あ、あれ? あたし、否定してって言ったよねっ?」
何も言えずにいた俺に対し、新井はわざと明るくとぼけてみせた。
「……ねえ! なんで否定しないのっ」
否定してごまかさないと、という焦りより、どうして悟られてしまったのかという疑問の方が大きかった。俺の頭は混乱して、否定の語が何一つ浮かんでこなかった。口が開かない。
「……意味、分かんない」
新井は俯いて、絞り出すようにそう言った。
「美香は陸の兄妹でしょ!?」
違う、兄妹じゃない。本当の兄妹じゃない。
「美香はっ、陸の妹じゃん!」
「妹じゃない!」
怒鳴り声を上げてしまい、片手で口を押さえた。新井が体を震わせたのを見て、後悔した。
「どういうこと?」
「あいつは、本当の妹じゃない。俺たちは、義理の兄妹なんだよ」
「……なに、それ。そんなの聞いてないっ」
新井が、俺の二の腕を強く掴んだ。
「あたしたち、付き合ってたよね。なんでそんな大事なこと、言わなかったの?」
打ち明けることが面倒だった。あらぬ誤解や敵視を生めば美香にも新井にも迷惑がかかるし、何より俺がその対処をさせられると思うと、到底告白する気にはならなかった。
俺は俺のせいで、今この時を招いた。
「……別に、いいよ。あたし口軽いし、信用出来なくて当然だもんね」
新井は、顔に纏わりついていた髪をどけて、苦笑した。
「今思えば前から陸変だったもん。告白しないとか、妹がいたっていいことないとか言ったりさあ。気付かないあたしが馬鹿だっただけ」
新井は泣きそうな顔をした。俺の想いが、美香のみならず新井までも苦しめている現実を、突きつけられた。
「さっきだって、美香のこと辛そうに見つめてさ。あんな目してたら、流石に気付くよ」
新井は俺を見上げ、俺の二の腕を、掴んで揺らした。
「陸、美香には好きな人がいるんだよっ」
知ってる。どんなに見ないようにしても、見せつけられ続けたんだから。
「……美香は、美香は陸なんか見てないじゃんっ!」
「そんなこと分かってんだよ!」
分かっているから、分かっているからもう、言わないでほしい。
俺が好きなのは美香で、美香が好きなのは夏見だ。俺がしているのは、絶対に叶わない、片想いだ。
新井は俺を放した。叫んでしまった手前、俺は新井に視線を合わせられなかった。
「陸でも、怒鳴ったりするんだ」
「……ごめん」
「あたしは全然駄目だったのに、美香は簡単に陸の気持ちを揺さぶって……陸を、こんなに変えちゃうんだねえ」
美香によって変えられた俺が、変わる前の俺を好きだと言ってくれた新井を傷付けていた。せめて俺は、新井に謝るべきなのに。
「……あたし、美香に負けたんだ」
「ちがっ、新井」
「違くないよ!」
新井は、泣いていた。美香や新井を泣かせることしかできない俺は、心底最低な人間だと思った。
「そりゃ、あたし馬鹿だし可愛くないし、性格だって良くないしっ。ほんと、陸と付き合えたの奇跡ってくらいだけどっ」
袖口で何度も目元を擦る新井を、俺はただ呆然として見ていた。何をどうすればいいか、まるで分からなくなっていた。
昼間、田嶋は俺を優しいと言った。以前の美香も俺を優しいと言った。でもこんな人間、全然優しくないじゃないか。
「――最後まで、否定してくんないんだね」
俺は新井のために嘘を吐くことすら、できない。
「妹とかほんと、なんなのお……!」
「…………」
「知りたくなかったよこんなことっ」
目の前で涙を流し続ける新井を慰めることすらできない。俺に、そんな資格はない。
「妹が好きなんてっ。気持ち悪いよ!」
新井は、来た道を引き返して走り去っていった。そんな新井の後ろ姿が、昼間俺から逃げた美香と重なって、また苦しくなった。
気持ち悪い。
田嶋にも海斗にも言われなかった言葉だ。でも新井が酷いわけじゃない。新井の反応は普通のもので、俺の想いを受け入れてくれた海斗たちの方が特殊なのだ。
俺は最低で、気持ち悪い。




