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僕が君を求めても  作者: 麻柚
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本当の自分と好きな人

 美香の気持ちを知ってから、何にも集中出来ない日々が続いたが、中間試験はすぐそこに迫っていた。ここ数日は悠太と俊也、それに試験期間で部活が停止中の田嶋と、放課後学習室で勉強している。学習室は図書室とは違い、いつもがやがやと騒がしい。


「ぐはー! もう無理、面倒くせえっ」


 数学と格闘していた悠太が、いきなり顔を上げて思いきり頭を掻いた。悠太の正面の田嶋は不愉快そうにシャーペンを止め、顔をしかめた。


「やめてよ広井くん。フケが飛ぶ」

「失礼な奴だな、フケなんてねえよ!」

「そんなの信じられない。沢山出てきそうだよ」

「ぶっ殺すぞ」


 普段と変わらぬ悠太と田嶋のやりとりに、俊也は興味も示さない。淡々と古典のテスト対策のプリントに向き合っていた。

 少しでも発言すると巻き込まれるため、俺も手許のノートを睨む。普段ならするすると頭に入ってくる数学なのに、全く駄目だった。


「おい田嶋、英語教えろ」

「なんで。僕には広井くんに勉強を教える義理なんてないよ」

「俺を侮辱しただろうがっ。とっとと教えろ!」

「人に物を頼む時の態度がなってないなあ」


 最近美香は夜、度々夏見と電話をしているようだ。以前、リビングで電話に出ている美香を見かけたが、俺ですら知らない笑顔を浮かべて頰を赤くしていた。

 勿論美香は、俺や海斗の前でも笑っている。だが、何かが違うのだ。夏見が絡んでいる場合と、そうでない場合の笑顔は。


「……なんなんだよ」

「お、どうした陸。お前が数学で手こずるなんて珍しいな」


 俺の小さな呟きの意味を取り違えた悠太が、俺に声をかけてきた。


「田嶋に教えてもらえば?」

「そうだね。広井くんよりはずっと教えがいがあるよ」

「てめえ!」


 うるさい。上に、能天気だこの二人は。田嶋は良いとしても、悠太は真剣に勉強しなければならないはずだと思うんだが。


「つうかマジで教えてくれよ田嶋。お前英語の成績超良いだろ、頼む!」

「じゃあみたらし団子三本にクリーム餡蜜で手を打とうか」

「なにっ。悠太、俺も教えるぞ」

「いや、俊也は遠慮しとくわ……」


 食べ物に反応した俊也の申し出を、悠太は丁重に断っていた。とことん奢らされる未来が見えているからだろうが、俊也は分かりやすくショックを受けて、固まっていた。


「トイレ行ってくる」

「なんだよ陸、大きい方か?」

「黙れ悠太」


 洗顔して気持ちを入れ替えようと、学習室を出た。このままではテストが危うい。

 学習室や図書室にいる奴以外はほとんど帰宅したらしい校舎内は、静かだ。俺は水場で蛇口をひねり顔を洗い、二階にある教室に置いたままの英語の教科書を取りに向かった。


「藤村陸くん?」


 不意に呼び止められたのは、階段を上がる途中での出来事だった。降ってきた声を追って見上げると、見知らぬ女子が、笑って俺を見下ろしていた。


「ちょっと話があるんだけど」


 そう言った女子に案内され、俺は人気のない特別教室に入った。その女子は三年だと言い、自ら名乗った。


「なんですか、話って」

「あたしと付き合ってほしいの」


 予想はしていても、それが現実として突きつけられると気が重くなる。人をフるのは良い気持ちがしない。


「……ごめんなさい」

 俺が頭をさげると、その女子は狼狽したらしく、俺の腕に掴みかかってきた。


「なんでっ。あんた今彼女いないんでしょ!?」

「……いません」

「だったらなんで断るのよ! あんた、どんな告白だって受け入れてるんじゃなかったの?」


 女子の明るい茶髪が翻り、俺の腕に絡みついた。俺は振り払いたいと思いながらも、あくまで冷静でいようと努力した。

 女子の言うことは、つい数ヶ月前までなら正しかった。でも今は、そういうわけにいかない。


「ごめんなさい。俺、好きな奴がいるんです。……本当に好きで、そいつ以外考えられないんです」


 誰かを美香の代わりにすれば忘れられるかもしれない、なんてことはあり得ないのだと、新井との間で学んだ。無意味に相手を傷付けることにしかならない、と。

 俺に交際を願い出た女子は、俺の告白を聞くと腕を放してくれた。理解してくれたのだろうと安心してもう一度謝罪しようと口を開きかけて、


「……なによ、それ」


 重く低い声色が、教室に嫌に反響した。


「本当に好きってなに。キモいんだけど。超めんどくさいし、噂と全然違うじゃん」


 去り際にそう言って、その女子は行ってしまった。置き去りにされた俺は、勢いよくとじられたドア口を呆然と見入った。衝撃から覚めると、次第に苛立ちが込み上げてきた。

 噂と違う? めんどくさい?

 キモいって? そんなことは分かっている。俺が誰を想っているのかを知ったら、もっと気持ち悪いと思うだろう。

 どうでもいい、何も知らない奴らのことなど。俺には、美香さえいればいい。

 そうだろう。なあ、美香。どうしたってお前は、俺のものなんだから。

 俺は嫌な心地を振り払い、教室を出た。そのまま、苛立つ感情をそこに置き去りにして、歩き出した。


 *


 自分の教室で教科書を引っ張り出すと、俺は学習室への帰路に着いた。下校時刻があと僅かに迫っているためか、やはりどの教室にも人の影は見えない。そろそろ学習室組も帰らされる頃だろう。


「本当にありがとう。わざわざ教えてくれて」


 先程の出来事を忘れるためにわざと何も考えないようにしていた頭に、突然強烈に声が響いた。俺は足を止める。通り過ぎようとした教室から聞こえてきたそれに、目を向けた。そこには確かに美香がいた。夏見と、二人きりで。


「いえ、少しでもお役に立てたなら良かったですっ」

「勿論だよ。私、数学苦手だから助かっちゃった」


 数学。それは本来なら、俺に教わっていたはずの科目だった。


「僕の方こそお礼を言わせて下さい。僕が教えましょうかなんて図々しいこと言っちゃって、本当にすみません!」

「そんなっ。なんで謝るの。夏見くんは親切にしてくれただけでしょう?」


 二人ともちょうど帰るところらしく、教科書やらノートやらを鞄に仕舞っていた。教室の中央で夕日に照らされながら微笑み合う二人からは、俺が絶対に届かない何かを感じた。


「それにね、とっても嬉しかったよ。夏見くんがそう言ってくれて」

「藤村さん……」


 俺は、丸めて持っていた教科書を、思いきり潰した。


「何もお返しできなくてごめんね」

「い、いいんですっ。僕が教えたかっただけなんですから」

「ふふ、ありがとう」


 俺の知らない美香が、そこにいた。

 美香と夏見が両想いなのは明らかだった。どちらが気持ちを伝えれば二人はきっと、一緒にいることを選択するだろう。

 美香は、俺のものじゃない。


「あの。藤村さん!」


 立ち上がった美香を呼び止めた夏見の声は、いやな艶と緊張感を孕んでいた。美香が夏見に向き直ると、夏見が息を飲む気配が此方にまで伝わってきた。


「あの、その。ふ、藤村さん、前に僕が読んでた小説、興味あるって言って下さいましたよね」

「……花音(かのん)のこと、かな?」

「そうですっ。それが今度、映画になるらしくて。よかったら、一緒に行きませんか?」


 不器用だがそれは、紛れもなくデートの誘いだった。夏見もたぶん、そういう意図で美香に声をかけている。夏見は美香を、独占したいのだ。

 嫌だ。そんなことさせたくない。


「本当にっ。行きたいな!」


 断れ。俺がいくら念じたところで美香に影響を与えられるはずもなかった。美香の声はこの上なく弾んでいた。こんな風な美香の声を聞いたのは久しぶりだった。それは関心のある小説の映画を観れるから、だけではない。相手が、夏見だからだ。

 俺はもう、夏見には勝てない。美香の心は戻ってこない。


「ほ、本当ですか! えっと、確か映画が始まるの再来週からだったと思うので、分かったらまた伝えますね」


 戻ってこないなら。無理矢理、此方に引き込むだけだ。


「美香」


 俺は美香たちのいる教室に入った。俺の呼びかけに気付いた二人が俺の方を向いた。状況が飲み込めないらしく、美香は目を白黒させた。


「美香、帰るぞ」


 呆然とする美香の腕を強く引き、俺は目を丸くする夏見を一瞥してから、教室を出た。足を止めることなく真っ直ぐに、美香を夏見から引き離した。


「り、陸。どうしたの?」


 背後からの美香の問いかけに、俺は立ち止まり、美香に振り返った。美香は戸惑ったような表情で俺を見上げていた。


「帰るんだよ。腹減った」


 見ていられなかった。耐えられなかった。他の男を慕う美香が。それを見せつけられているのが、我慢ならなかった。


「陸、お腹空いてたの?」


 俺の想いなど知らない美香は、俺に笑いかける。美香と夏見を切り裂こうとしている俺に向かって、微笑むのだ。

 家族のこととなれば、美香は何よりもそれを優先する。分かっているから俺は、それを利用して二人を引き離す。


「でも、ごめん。私その、夏見くんと帰る約束してるの。ごめんね、帰ったらすぐ作るから」


 美香は俺にそう言って、夏見の残る教室へ戻っていってしまった。俺はただ一人、そこに取り残された。それは、先程の告白の直後よりも、俺を空しくさせた。

 いつも家族のことばかり考えていたはずの美香が、俺を、家族を置いていった。

 美香はもう、俺なんかよりあの男が大切なのか?


「――ふざけんな」


 思わず、左の拳で白塗りの壁を殴っていた。

 ずっと俺についてきたくせに。高校だって、俺が行くと言ったからここを選んだくせに。それなのにそこで目ぼしい男ができたら、むざむざ俺を捨てるのか。

 お前がそうするのなら、俺にだって考えがある。心を取り戻せないなら、俺のもとを離れられなくさせてやる。

 兄妹なんかじゃない。所詮他人だ。そのことを俺が、理解させてやる。

 絶対、誰にも渡さない。美香は、俺だけに捉われていればいい。


 *


 一人で帰宅し、部屋に籠った。試験対策に取り組んでいると玄関の開く音がして、美香も帰ってきたことを知った。

 一時間ほどして、部屋のドアをノックする音が聞こえた。


「陸、ご飯できたよ」


 俺はドアを開けた。美香は微笑んでそこに立っていた。


「おまたせ。遅くなってごめんね」


 俺は何も言わずに美香を見下ろした。美香はそんな俺に違和感を覚えたのか、首を傾げた。


「陸?」

「いらねえ」


 美香は恐らく、夏見との約束に浮かれながら夕飯を作っていただろう。隠し事が苦手な美香だから、はっきりとその気持ちを態度に表していたに違いない。

 何故俺がそんなものを食べさせられる。夏見を想いながら俺のために作ったものなんて、食べたくない。


「もしかして途中で何か食べてきちゃった?」

「食ってねえよ。とにかく、いらねえから」


 美香はドア口に凭れる俺を見上げ、それから俯いた。そして、再び俺と視線を合わせた。


「……私、また陸を怒らせちゃったかな」


 怒る、なんて単純な感情じゃない。これはもっと深くて、歪んだ感情だ。


「でも、夏見のことは本当に約束してたことだったの。ごめんなさい」


 美香が、俺の機嫌を取ろうと必死に言い訳をしている。滑稽に思った。それと同時に、言い訳されればされるほど夏見との仲が深いものに思えてきて、歯軋りしたくなる。

 どうせ言い訳するなら、夏見のことなんか好きではないと、それぐらい言ってみせろよ。


「なんだよお前、浮かれてるわけ? 調子乗ってんじゃねえよ。あんなの愛想でお前に付き合ってるだけに決まってんだろ」


 こんなの、ただの八つ当たりだ。

 顔で、表面だけで俺を判断して愛想を振り撒いてくる奴は大勢いる。そんな上っ面だけの関係とは全く無縁な場所で笑い合う美香と夏見に、俺は嫉妬している。


「夏見はお前なんか好きじゃねえよ」


 違う。夏見は、美香が夏見を想う以上に、美香を想っている。そうでなければ、熱を出した美香にずっと寄り添ってなどいないだろう。

 美香は言葉を失っていた。余程ショックだったのだろうか、唇は青ざめて震えていた。

 夏見のことなど、諦めてしまえばいい。美香が離れれば、夏見も美香から離れるだろう。嫌われた、愛想を尽かされたのだと勘違いして。


「……いいの、それでも」


 でも美香の返答は、俺の期待とは全く異なるものだった。


「好きになってもらえなくてもいい。でも、私が好きでいるのは自由なはずだから」


 好きになってもらえなくても? 美香は、本気で言ってるんだろうか。好いた人間が自分以外の誰かを見つめていても構わないと。そんな綺麗事、本当の片想いを知っていたら絶対に言えない。

 どうせ美香は両想いだ。俺とは違う。俺の片想いとは、全然違う。


「とにかく俺はいらねえ。海斗が帰るまで待ってろよ」

「待って!」


 美香が俺の腕を掴んだ。思わず睨んでしまうと、美香は怯んだように力を緩めた。


「今日、海斗は帰ってこないの。部活で学校に泊まるらしくて」

「……だから?」


 また、二人きりなのか。もう、いい加減にしてくれ。


「一緒にご飯、食べてほしいの」


 美香はほとんど泣きそうな顔をしていた。どうにか紡いだ申し出は、あまりにも頼りなく、溶けて消えていく。俺は美香を振り払った。


「勝手にやってろ」

「そんなっ――」

「勉強してんだよ。邪魔すんじゃねえ」


 俺は美香に背を向け、ドアを完全に閉めようとした。その瞬間、信じられないことが起こった。

 ふわり、と美香の香りが鼻をくすぐったと思うと、美香の腕が俺の腰に回されていた。俺は後ろから、美香に抱きしめられていた。


「待って……!」


 美香の温もりが何をも介さず、そのままに伝わってくる。鼓動さえも、聞こえる気がした。


「一人に、しないで」


 突き放しても突き放しても、美香は俺に食らいついてくる。傷付けられているのに、俺の存在を必死に求めてくる。

 心が揺れる。体が熱くなる。もっと近くに、美香を引き込みたくなる。


「陸」


 俺の名を紡ぐその声は、普段と違っていた。甘くて、どこか切なくて。俺を更に、昂らせた。


「……放せよ」

「陸っ」

「放せ!」


 理性が壊れる寸前だった。俺は美香を振り放し、その勢いのまま廊下の壁に押さえつけていた。


「お前の顔見てると腹立つんだよ」


 他の男を想いながら浮かべる、幸せそうな顔。そんなもの、見たいはずがない。

 美香は表情に影を落とした。毎度そうやって泣きそうになるくせに、美香は一度も泣いていない。俺が傷付けても、美香は涙を見せない。


「……兄妹面してんじゃねえよ」


 泣いてしまえばいい。そうすれば、俺の痕跡がお前の中に残る。泣かされたという記憶とともに。でも俯いて唇を噛む美香は、泣かない。

 俺は美香から離れ、自分の部屋へと戻った。ドアを閉めると、そのすぐ向こう側から、美香の声がした。


「ご飯、残しておくね」


 答えないでいると、美香が立ち去っていく気配があった。

 傷付けているくせに、どうして泣かないんだ。泣かれた方が楽になれる。むしろ我慢されるほど、責められている気がしてくる。お前のためには泣く価値すらないのだと、言われているようで。

 田嶋から俺を守ってくれた時、美香は言った。

 ――陸は私を傷付けたりしないっ。

 あの時の田嶋とは比較にならないくらい、俺は美香を傷付けてしまっている。

 俺を守ってくれた美香を。俺を信じていてくれた美香を。ずっと、俺の隣で笑っていてくれた美香を。


 ああ、そうか。


 美香だけは、何があっても俺の隣にいてくれた。俺を裏切らなかった。本当の俺を知っていて、その上で好きでいてくれた。誰も見てくれなかった本当の俺を、美香だけは見つめていてくれた。

 だから俺は、美香のことを。

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