熱と失恋
まさか、こんなことになるなんて。
「八度八分。私より高いね」
「くそっ、お前のせいだからな」
大きく咳込む。
美香の風邪が、完全に移ってしまった。それだけでなく、美香より重症なのだからどうしようもない。ベッドに横になっている俺の顔を、美香が覗き込んだ。
「ごめんなさい。私の看病してくれたばっかりに」
「ほんとだよ、全く」
「でも今日と明日は土日でお休みだから。一日中陸のそばにいられるし、なんでも言ってね」
一日中。それはそれで危ない。熱がますます上がりそうだ。頭ががんがんする。
「お医者さんでもらってきた薬、食後用なんだよね? 何か食べられそう?」
「なんでもいいから、なんか持ってこい」
「分かった、ちょっと待っててね」
美香が部屋を出ていく。一人きりになると、途端に心細くなってしまった。熱のせいで弱気になっているらしい。
「死ぬ……」
なんで俺がこんな思いしないといけないんだ。寝返りを打つと、俺は自然、意識を手放した。
――陸!
笑顔の美香が俺を呼んでいる。美香の周りは白っぽくぼやけていて、これは夢なのだろうと思った。
――あの、私ね。夏見くんのことが好きなの。
嘘だ、と脳が受け入れることを拒絶する。俺より、家族より、あの男……夏見を好きだなんて。
――夏見くんもね、私のことを好きって言ってくれてて……。
当たり前だ。お前のそばにいて、お前を好きにならない人間なんていない。
――だからね、私たち――。
美香と、その隣に夏見らしき男の影が現れ、並んで俺に背を向けて歩いていく。
嫌だ。やめろ、行くなよ。お前の隣にあいつは似合わない。
こんなことになるなら、言ってしまえばよかった。お前が好きだと。愛してると。お前なんて、困って惑わされていればよかったんだ。俺に翻弄されて、俺のことしか考えられないくらいになっていればよかったのに――。
悪夢から覚めたのは、美香が食事を持ってきてくれた時だった。
「陸?」
「美香……」
美香はその目で、夏見でなく俺を捉えていた。
「大丈夫? 起き上がれる?」
俺が起き上がるのを、美香が助けてくれる。すっかり温くなってしまった冷却シートを剥がした。
「朝、海斗のお弁当作る時に余ったもので食べやすいようにお雑炊にしてみたんだけど」
「ああ、それでいい。……じゃあ」
口を開けた俺を見て、美香が目を見張っていた。
「早く。食わせろよ」
「自分で食べられないの……?」
「食えねえ。つうかなんでもするって言ったのはお前だろ」
「そうだけど……ふふっ」
可笑しそうに笑う美香に、嘘がバレたかと決まりが悪くなる。
「なんだよ」
「陸って、結構甘えん坊だよね」
「うるせえよ! お前が移した風邪だろ。お前が責任取れっての」
「ごめんなさい。はい、口開けて」
口を開けると、美香が雑炊を食べさせてくれる。空っぽだった胃に染み渡っていく心地がした。俺の作ったお粥よりは遥かに美味いし、体によさそうだった。
「全部食べられそうかな?」
「……ああ」
「よかった。もし辛かったら、林檎も剥いてきたからそれ食べてね」
手を休めることなく美香は俺の口に雑炊を運んでくれた。不意に目が合うと、美香は大丈夫? と首を傾げる。美香が動くたびに香りが漂ってきて、どこか夢見心地だった。
「あっ」
雑炊を掬っていたスプーンが俺の口に当たり、美香の腕に雑炊が零れてしまう。
「ごめんね、今拭くから」
そう言って、美香はティッシュを取ろうとした。だがその前に、俺が美香の腕を掴む。そのまま、そこに付いていた雑炊を口に入れた。
「え……?」
美香は驚いたようだった。自分でやって恥ずかしくなり、美香から目をそらす。
なんか、もう何をやってもいい気がする。……いや、これは正確な言い方じゃないな。平時なら思い留まることを、素直にやってしまっている状態なのだ。深く考えるのが辛くて。なんにせよ、美香には後になって熱に浮かされていたんだと言い訳すれば、信じてくれるだろう。
美香の腕は白くて、そしてやはり細かった。
「……り、陸、そんなにお雑炊食べたかったの?」
「んなわけあるかよ。早く残り食べさせろ」
どんな苦しい理由をつけてでもお前に触れたいんだよ。気持ち悪いと、お前は思うかもしれないけど。
雑炊を食べていると、また頭がぐらついてきた。起き上がっているのさえ苦しい。こんなに酷い風邪は初めてだ。
「……美香、もういい」
「分かった。林檎は……食べられないよね。薬飲む?」
「飲みたくねえ」
「駄目だよ、飲まなきゃ。待ってね、今薬出すから」
美香が目の前にいるのにこんな無様な姿、情けないにもほどがある。
美香から薬と水を受け取り、一気に流し込んだ。布団を被ると、美香がもう一度冷却シートを貼ってくれる。冷んやりと気持ち良かった。
「汗は大丈夫かな。着替える?」
「……お前が着替えさせてくれんなら」
美香に背を向けて言う。全く、何を口走ってんだか。
「そ、それは流石に……」
だんだん、美香の声が小さくなっていく。恥ずかしさを感じているのだろうか。たかだか着替えという言葉くらいで、自分の妹ながら初々しい奴だと思う。
「マジに取るなよ。このまま寝る」
「あ、そ、そうだよね。うん」
ふわりと風が飛んできたので美香を見ると、美香は立ち上がっていた。スカートが揺れてその中が見えてしまいそうになって、咄嗟に目を背ける。
正直、私服の比率をもう少しズボンに偏らせてほしい。裾がゆらゆらとするだけで目をそらしたくなるほどの魅力があるから。
「あの、私は部屋に戻るね。何かあったらすぐに行って」
背中を見せて俺から離れようとした美香の片腕を、反射的に掴んでしまった。振り返る美香に、俺は何も言えない。
「陸?」
だって、去っていこうとする美香の姿が夢で見たものと重なったから。放っておいたら夏見のところに行ってしまいそうで、怖かった。
「行くなよ。ここにいろよ。俺の、そばに」
美香は、笑う。俺が本当に考えていることを、知らないから。
「もう。どうしたの?」
「いいから行くな……どこにも行くな」
夏見のところになんか行かないでくれ。ずっとずっと、俺のそばにいてくれ。
「分かった。ここにいるよ、安心して」
そうだ、それでいい。
美香を掴んでいた手が放され、その手を美香の両手が包み込む。心が落ち着いて、俺はそのまま眠りについた。
*
喉の渇きを感じると、自然に目が覚めた。筋肉痛のような痛みを全身に感じながらも、体を起こす。
「美香?」
美香はまだ、そこにいた。俺の手を握ったまま、ベッドに突っ伏して寝息を立てている。俺の方に向いているその顔は、どこか幸せそうだった。
「……ふはっ」
俺が寝た後出ていくことだってできたろうに、馬鹿正直にここに居続けたのか。美香らしい。思わず噴き出してしまった。
「バーカ……」
起こしてやろうかと思うが、まだこの寝顔を見ていたい気がして決心がつかない。
腕を掴んだり手を握ったり、こうして美香に触れているとあの花火大会の夜を思い出す。思えばあの時は中々大胆なことをしてしまった。抱きしめたことは勿論だけど、必死になってしまった時に一瞬触れた胸の感触とか――。
ああ駄目だ。思い出して興奮するなんて、本物の変態だ。こんな気色悪いことして、好きな女がいる男は、みんなこんなものなんだろうか。俺が異常なんだろうか。
「妹相手に、なにやってんだか」
楽しい夢でも見ているだろうところ邪魔するのも悪いが、そろそろ起こしてやろう。海斗もぼちぼち部活から帰る頃だろうから。
「ん……」
美香が呻いた。起きるのだろうか、と身構えたが、再び寝息を響かせ始める。
「……く……」
肩を揺さぶろうとして思い留まった。
「な……つみ、く……」
夏見くん。
美香は、そう言った。幸せそうな顔をする美香の頭を支配していた存在は、俺ではなくて、夏見だった。
それを思い知るとどうしようもなく腹が立って、夢の中にいるかもしれない夏見と美香を離してしまいたくて、俺は美香を揺さぶり起こした。
「美香、起きろよ!」
目覚めた美香は、瞳を何度も瞬かせて俺を見た。
「陸……?」
「……なんでお前まで寝てんだよ」
「え、あっ、ごめんなさい! いつから寝ちゃったんだろう」
そんなことはどうでもいい。
なんでお前は、夏見の名前を呟いたんだ。あいつを意識しているからか? あいつを好きだからか? 寝てる時でさえ忘れられないくらいに、好きだからか?
「陸、どうしたの?」
焦ったように美香の両肩に掴みかかった俺を、美香はぽかんとして見ていた。突然起こされて迫られて、頭が追いついていないらしい。俺は一旦美香の肩を解放して、ベッドに座らせた。
「なあ美香」
「なあに?」
「……前にお前が言ってた、夏見って奴のことだけど」
夏見の名前を出すと、美香は一瞬固まっていた。動揺している風にも見える。
「夏見くんが、どうかした?」
「どんな奴なんだよ、そいつ」
それを聞いて、単に俺が夏見に興味を持っただけだと理解したのか、美香は安心したように語り出した。
「夏見くんは凄く良い子だよ。私とは隣の席でね、たまにおすすめの本を紹介し合ったりしてて」
嬉しそうに夏見の話をする美香の笑顔は、ふんわりと優しい。いつもの笑顔と少し違う、特別な笑顔だ。頰の赤みがそれを象徴している。
「……そいつのこと、好きなわけ?」
「え⁉︎ そ、そんな。好きだなんて」
否定の仕方がわざとらしくて、俺は苛立つ。
「……実は、まだよく分からなくて」
「は?」
「好きだって実感してるわけじゃないの。でも最近ふと夏見くんのことを思い出して、今何してるかなとか、私が貸した本を読んでくれてるかなとか、そんなこと、考えたりしちゃって」
なんだ。夏見のこと、好きなんじゃないか。
現実として突きつけられると、あまりにもあっさりしていた。これほど簡単に美香の心が奪われるなんて。今までどんな男にも靡かなかったのに、夏見には一体、何があるんだよ。
「も、もしかしたら、好きなのかな、なんて……」
顔を真っ赤にする美香は、どんな時より可愛くて女らしい。夏見のことを考えているから、そんな顔になるのか。
「……俺より好きなわけ?」
「そ、そんな! 陸に抱く気持ちと夏見くんへの気持ちは違うし」
でも、俺の方だとは言い切らないのか。
分かっていたことだ。美香が俺に抱くのは家族としての愛で、夏見への想いこそが恋なのだ。俺の好きはそうじゃないと言っても美香はたぶんその意味を理解しないで、きょとんとするだけだろう。
例えば今ここでお前にキスしたら、少しは夏見のことを忘れてくれるだろうか。押し倒して体に触れたら、夏見を諦めて俺を見てくれるだろうか。近すぎるほどの距離にいるのだから、実行するのだって不可能な話じゃない。
「……陸?」
それでもやっぱり、できないんだ。
俺は美香の肩に頭を乗せるようにして項垂れた。美香を直に感じて、美香の香りに包まれているのに、美香は遠い。
こうしているうちに想いが伝わってくれたなら、どんなに楽だろう。
「どこにも行くなって、言ったのに」
声にすらならない掠れた言葉が、俺の口から漏れ出した。
覚悟していても、恋を失うのは胸が張り裂けそうになるくらい苦しいものだった。知らなかった、こんな気持ち。
「り、陸? 今度はなに?」
俺は美香の腰に腕を回して、ぐっと引き寄せた。
美香の問いかけに答えもせず、俺はただそのままでいた。




