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僕が君を求めても  作者: 麻柚
18/44

夏見幸一

 夏休みが明け、学校が再開された。それでもまだ暑い日々は続いている。

 俺が美香を抱きしめたあの日から、俺たちの距離は少しだけ近付いた。相変わらず会話はないが、食事は共にするようになった。それまで顔を合わせることすらしていなかったことと比較すれば、大きな前進だ。


「やっぱり藤村の弁当最高だな」


 俊也が、俺の弁当から奪った食材を咀嚼しつつ言う。

 俺がまた美香の弁当を持ってくるようになって、悠太も俊也も上機嫌だった。俊也に関しては言うまでもないが、悠太も俺たちの関係が少しでも改善したことに喜んでくれているようだ。


「俺たちの昼休みには美香ちゃんの弁当がないと締まらねえよな。あー俺も可愛い子の手作り弁当食いてーよ、母ちゃんのじゃなくて」

「悠太んちのも美味いぞ」

「お世辞どうもなあ俊也。母ちゃんに言っとくわ」

「いや本気で思ってる」


 昼休みも、食堂に行かず教室で食べるようになった。悠太もやっぱり、俺たちと食べている。


「そういや、最近田嶋どうした? 昼いねえようだけど」

「大会が近いからっつって自主練しに行ってる」

「マジか。エースも大変だな。……しっかし、相変わらず田嶋のことはなんでも知ってんだな陸。さすが田嶋の彼女」

「お前ぶっ殺すぞ」


 ニヤニヤする悠太に言ってやれば、悠太は怖い怖いと言って更に笑った。

 噂好きで有名なバスケ部の面々に田嶋が強く否定したおかげで、あの噂も落ち着いた。しかし悠太には相変わらずからかわれている。


「つうかなんで俺が彼女側なんだよ!」

「え、身長差的にそうなるかと。後はなんとなく」

「ふざけんな……!」


 田嶋が女だったとしても、田嶋が田嶋である限り俺はお断りだ。


「大会、応援行ってやれよ彼女なんだから!」

「お前それ以上言ったらマジで殺すからな」


 強く重い口調でそう言うと、ようやく悠太も口を噤んだ。俺は溜息を吐く。


 田嶋との関係も、あの日以来少し変化した。

 花火大会から数日後、田嶋から連絡があり、美香を襲った奴らが逮捕されたとのことだった。やはり、それまでに何度も同じ手口で金品を奪っていた前科があったらしい。だが強姦を働いたのは美香に対してだけだったと聞いて、怒りが増すと同時になんとしても美香を守らねばという使命感に駆られた。

 学校が始まってからも田嶋は以前よりどこかよそよそしく、俺と一定の距離を置いている気がする。花火大会に誘った自分のせいで、と責任を感じているのかもしれない。気にするなと言ったが、田嶋は頷いただけで態度は変わらなかった。少し、心配だ。もう一度、言っておこうと思う。


「それよかさあ、聞いてくれよ!」

「なんだようっせえな」

「なんだと! ……美香ちゃんがさあ、最近隣の席の男とやたら仲良さげにしてんだよ!」


 ふてくされる悠太の発言に、俺の体は反応した。


「……隣の席?」

「そうそう。夏見(なつみ)って奴なんだけどさ、すっげえ地味であれなら俺の方がマシだろって感じの男なんだぜ?」

「悠太の方がマシって、相当だな」

「また俊也はさりげなく失礼なこと言いやがるな。ああなんでだよ、もー!」


 夏見。それが、例の美香が惚れているかもしれない男なんだろうか。


「……なあ。そいつって美香と本貸し合ってるって奴か?」

「なんだよ陸、知ってたのか。そうそう、何か読書仲間って感じらしいぜ。同じ図書委員だった気がするし」


 あまりにあっさりと悠太は肯定した。俺は手が震えそうになるのを、精一杯抑える。

 ついに特定した。あいつの心を奪っている可能性のある、危険な男を。

 一体どんな奴だ。悠太についていけばそれもすぐに分かることなのだが、勇気が出なかった。もし見たら、相手が分かってしまったら、きっとまた嫉妬して美香を傷付ける。戻りかけている関係も、再び崩壊してしまう。


「ど、どんな奴なんだ?」

「あ? うんと、とにかく地味で、ついこの間まで友達すらいなかったような奴だよ。あれで不潔な感じだったら本気で美香ちゃんから遠ざけてたと思うぜ」


 地味で、友達も少なくて……そんな奴のどこが良いんだよ、美香。

 ……駄目だ。美香が見出した奴を悪く言うなんて、それこそ最低だ。それにまだ、まだ美香がそいつを好きだと決まったわけじゃないのだ。純粋に本の貸し借りが楽しくて、海斗に嬉しそうに話していただけかもしれない。そうだ、決めつけて嫉妬するのはよくない。


「俺もあんま話さねえから、分かるのはそれくらいだな」

「そうか……」

「なんかまた陸のシスコンレーダーが反応してるみてえだけど、心配ねえよ。田嶋よりは御しやすい奴だと思うぜ!」

「僕よりどうしたって?」

「げっ、田嶋」


 部活から戻ってきた田嶋が、タオルを持って立っていた。教室のドアから顔を覗かせ、田嶋くん、と呼びかける廊下の女子たちに、笑顔で手を振り返している。制汗剤でも使用したのだろうか、どことなく良い香りがした。


「広井くんそこどいて。邪魔」

「ほんと、女子への対応とはえらい違いだよあぁ……!」

「だって広井くんだし」


 田嶋の席に座っていた悠太をどかし、田嶋が腰掛ける。


「で、なんの話してたの?」

「お前には関係ねーよバーカ!」

「馬鹿? 広井くんには負けるよ」

「はあ⁉︎」

「もう広井くんうるさい。藤村くん、なんの話?」


 田嶋に振られて、一瞬言い淀む。だが田嶋には報告しといた方が良いだろうと思って、口を開いた。


「夏見って奴の話」

「夏見? 誰それ」


 取り出した苺大福を頰張る田嶋に、問われる。恨めしそうに田嶋を睨んだ俊也に、田嶋は手持ちの苺大福を一つ渡していた。瞬間、俊也の表情が柔らかくなる。


「美香ちゃんの隣の席の男だよ。最近美香ちゃんと仲良さげにしてるムカつく男!」

「……へえ。そうなんだ」


 美香の名前を聞くと、田嶋は一気に声の調子を落とした。いつもなら、こんな場面では必ず探るように俺を見てくるのに、今は俺に視線を向けない。一人で考え込んだように、顔を俯けた。


「なんであんな男なんだよ! 美香ちゃんと仲良くなれるなら俺も本読んどきゃよかったし!」

「駄目駄目、広井くんが読書なんて三日と持たないでしょ」

「馬鹿にすんじゃねえぞ田嶋! 本ってだけなら俺だって毎日読んでんだよ!」

「漫画とエッチな本以外で何か読んでるなら教えてみてよ?」


 う、と悠太が唸る。俊也に助けを求めようとするが、俊也は大福に夢中だった。


「ていうか広井くん、エッチな本読んでるの否定しないんだ」

「う、うるせえ! 男なら誰だって一冊や二冊読んでるだろ!」

「僕は読んでないし持ってない」

「嘘吐くな!」


 悠太の言葉を、田嶋は思いきり聞き流していた。澄ました顔をしているが、内心どう思っているのだろう。


 チャイムが鳴り、悠太が教室に戻っていった。俊也も弁当を片付け席へと戻っていく。


「さっきの夏見って男、この前君が言っていた男と同一人物?」

「……どうやら、そうらしい」

「そう」


 田嶋は俺にそれだけ確認すると、頰杖をつき目を閉じた。近頃田嶋は、授業中も巧妙に居眠りしている。恐らく、部活がハードなのだろう。先生の指名が田嶋に回りそうになったら俺が事前に起こしてやったりもする。中々、俺も親切になったものだ。


「……田嶋、あの時のことはお前のせいじゃねえ。いつまでも引きずるなよ」


 返事はない。聞こえているのかさえ分からないが、俺は続けた。


「俺に突っかかってこねえお前とか、調子狂うんだよ」

「……はは、酷い言われようだ」


 田嶋は目線だけ俺に移し、笑っていた。


「……ありがとう、藤村くん」


 俺に礼を言う田嶋、か。これほど違和感のあるもんもない。


「礼を言われるようなことじゃねえよ」


 田嶋も美香も、俺も。あの時のこと、それぞれが自分のせいで起こったのだと思っている。でも本当は誰のせいでもないはずなのだ。少なくとも俺は、そう思う。


「藤村さんには、幸せになってもらいたいよ」


 ぽつりと、田嶋が呟く。

 それは暗に、俺に美香を諦めろと言っているのだろうか。俺は何も気付かないふりをして、言った。


「……そうだな」


 美香の心が夏見に向いていないことだけを、祈りたい。


 *


「おい藤村!」


 その日の放課後、担任に声を掛けられた。


「なんすか先生」

「お前の妹が熱出したって。今保健室で休んでるらしいから、早く行ってやれ」


 突然すぎるその知らせに、俺は急いで保健室へと走った。

 確かに最近、美香は食事中によく咳込んでいた。本人が軽い夏風邪だと言い訳したのでそれほど気に留めていなかったが、それは痩せ我慢で、本当は辛かったのかもしれない。


「あ、藤村くん。今奥のベッドで藤村さん寝てるわ」

「すみません、ありがとうございます」


 保健室担当の先生に案内され、ベッドの方へと通される。美香が寝ているというベッドのカーテンを開けると、そこで美香は静かに眠っていた。その傍らに、一人の男が座っている。どこかで見た覚えのある、黒縁眼鏡の男。


「あ、すみません! では僕はこれで」


 男は俺を見ると慌てて立ち上がり、そそくさと去っていった。名乗りもせず事情の説明もしないまま消えていった男の背中を訝しんで見つめていると、代わりに先生が説明してくれる。


「夏見 幸一(こういち)くんよ。藤村さんに付き添って来てくれたの。それで貴方が来るまで、藤村さんに付いててくれたのよ」


 その言葉に、頭が割れそうなほどの衝撃を受けた。

 あの男こそが、美香の心を惹きつけている奴なのだ。ずっと気掛かりだった、憎らしくて羨ましくて堪らない男。あいつが。


「じゃあ藤村くんはここにいてあげて。私、貴方の担任の林先生に貴方方を送ってもらえるか聞いてくるわ」

「いいえ、大丈夫です! タクシーで帰れますから」

「私が心配なのよ。行ってくるわね」


 俺の制止も聞かずに、先生は出て行ってしまった。残された俺は、先程まで夏見が座っていたパイプ椅子に腰掛ける。そっと、美香の額に手を当てた。相当熱くなっている。


「美香……」


 きっと俺のせいで余計なストレスをかけたのだろう。毎日家事で疲れている上、心労が祟って、こうなってしまったのだ。美香を追いつめてしまった罪悪感でいっぱいになる。

 美香の顔にかかっていた髪の毛を、そっとどけてやった。


「ごめんな……」


 俺はどうしようもないくらい、お前に迷惑かけてばかりだ。

 見つめる美香の寝顔は、あの時以来のものだった。俺が美香にキスをしてしまった、あの時以来のもの。変わらず綺麗な寝顔だ。これを見ていると、俺が触れて穢していいものでは決してないと再度思い知らされる。


「ん……」


 その時、美香が少し動いた。ゆっくりと目を開けて俺を見る。その視界に一番に映る存在が俺であることが、この上なく嬉しい。


「陸……?」

「美香」


 まだ覚醒しきらない目をこすりながら体を起こそうとする美香を、引き止める。そのまま横になっているよう促した。


「……来て、くれたんだ」

「当たり前だろ、家族……なんだから」


 父さんも母さんも家にいない。海斗は学校が違う。美香のそばにいられる家族は、俺だけだ。今の俺たちの事情を全く知らない人間に、家族だと、兄妹だと思いたくないんだなんて理屈をこねても仕方ないし、そんなことできるはずもない。

 美香は家族という単語に僅かばかり反応した。一瞬安心したような表情を浮かべ、だがすぐに悲しそうな、申し訳なさそうな顔をした。


「私、また陸に迷惑かけちゃったね。ごめんね」


 違う、違うんだ。迷惑をかけたのは俺だ。お前を追いつめたのは俺だ。そんな風になんでも自分のせいだと思い込むなよ。俺を責めろよ。


「……あの」

「なんだ?」

「夏見くんって男の子……知らない? ここまで付き添ってくれたんだけど、あの、眼鏡掛けてる子で」


 初めて、美香の口から夏見について言及する言葉を聞いた。美香が仄かに頰を赤くしているのは、熱によるものだと……信じたい。


「知らねえ。俺が来た時はいなかったけど」

「そっか。ありがとう」


 微笑む美香に、胸が締めつけられた。

 嘘を、吐いた。本当は俺が来るまでずっと、美香のそばには夏見がいたのに。それを言いたくなくて自分勝手にごまかした。

 だって、おかしいじゃないか。悠太とでも、服部や加藤といった友達とでもなく、隣の席なだけの夏見と一緒に来るなんて。美香が少なからず夏見に心を開いているのは明白だ。それは恐らく、夏見も同じ。

 夏見はどんな思いで美香のそばにいたのだろう。美香の寝顔に、どんな気持ちを抱いただろう。


「……あ」

「陸? どうかした?」

「何でもねぇ」


 思い出した。夏見はあの男だ。文化祭の時俺の隣にいて、美香を見て凄いと称した、あの男。知らぬ間に、俺は夏見に会っていたのだ。

 あの時夏見は、美香に見入っていた。美香の姿全てに。


「おーい、来たぞ!」


 不意にカーテンが開けられ、林先生が顔を出す。


「林先生……」

「藤村、大丈夫か? ……って、二人とも藤村だったな!」


 何が面白いのか、林先生はガハガハと笑う。相変わらず締まりがないが、この絡みやすい雰囲気は生徒に人気があるのだ。


「お前らを送り届ける任務は俺が引き受けたからな。本当は駄目なんだが今日は特別だ」

「すみません。私のせいで余計な仕事を……」

「そんなこと気にするな! それより早く体調整えろよ」


 先生が美香の頭をくしゃりと撫でる。美香はくすぐったそうに笑っていた。俺は、先生の腕を掴んで美香から引き離す。


「先生、それセクハラ」

「何だ、お兄さんは厳しいなぁ。ハハハ!」


 林先生がお兄さんと言った瞬間、美香の表情が曇った。俺が言ってしまったことを思い出しているのだろう。

 兄妹だと思っていない。俺はそう言ったが、周りから見ればやはり、俺たちは兄妹だ。


「藤村、車まで歩けるか?」

「はい。大丈夫です」


 美香がベッドから下り、立ち上がる。美香の分の荷物まで俺が持ち、車へと移動した。

 先生の車の後部座席に美香を座らせ、その隣に俺が乗り込む。荷物は助手席に置かせてもらった。


「美香、少し寝てろよ」

「うん……」


 目を閉じると、美香はすぐに眠りについたようだった。頭を窓にぶつけないよう、俺の肩へと傾かせる。車が発進した。


「いやーしかし意外だな。藤村、結構お兄ちゃんやってたんだな」

「……何すか、その言い方」

「まあそう言うな。褒めてるんだぞ?」


 そうは思えない。自分で頼りがいがあるとは言わないが、そこまで適当な人間に見えるだろうか。


「今だから言うが、お前の家の事情複雑だろ? 心配だったんだ。でも仲良くやってるならいいんだよ!」


 仲良く、か。仲良くはやれてない。俺が美香を傷付けて、海斗を傷付けて、家族を壊している。

 こんな状態のままクリスマスがやって来て父さんたちが帰ってきたら、どんな顔をすればいいんだろう。心配させて、仕事に支障を与えてしまったら謝っても謝りきれない。勿論、美香を好きになってしまったなんて言えるはずもない。

 俺の肩にその身を預け眠る美香の、息遣いを感じていた。


 そのうちに、車は俺たちの家のあるマンションの前に到着する。


「美香、着いたぞ」

「藤村、起きられるか?」


 呼びかけても美香は起きない。はあはあと苦しそうに息を漏らしていた。慌てて額に手を当てると、先程より確実に熱が上がっている。


「先生、悪いけど荷物持って」

「藤村は大丈夫か?」

「美香は起きられそうにない。俺が運んでいきます」

「本気か? 俺がやった方が良いんじゃないか?」

「結構です。つうかそれセクハラだって言ってるじゃないですか」

「これもセクハラ扱いですか……」


 例え先生だろうと、美香には触れさせない。

 肩を落とす先生を無視して美香を背負おうとするが、上手くいかない。やむを得ず、俺は美香を抱きかかえた。背中と足を押さえ、持ち上げる。


「それで大丈夫か?」

「はい」

「ぶはっ。藤村のお姫様抱っこ、様になってるぞ」

「……相手は妹ですけどね」


 普段は疎ましい兄妹という関係も、こうしてそれを理由に美香に触れることが出来る。無論、恋人のような触れ合いは出来ないけど。

 美香を部屋に寝かせ、一通りのものを準備するまで先生は手伝ってくれた。


「じゃあな。何かあったらすぐに連絡しろよ」

「はい」

「……どんな事情があるにせよ、お前たち兄妹だもんな。それが分かって良かったよ」

「そう、ですか」


 やめてくれ、兄妹だなんて。言われなくても、痛いほど理解できているから。


 先生が帰ると美香の部屋へ戻った。冷却シートを貼ってやり、汗を拭いてやる。流石に着替えさせることは出来ないから、制服のままだ。一通り終えると勉強机の椅子に座り、息を吐いた。

 美香の部屋に入るのは久しぶりだった。以前はテスト期間に勉強するため押しかけたり、共通の課題を写しに来たりしていたが、最近は全くない。

 美香の寝顔は、保健室で見たものより苦しげだった。

 その時、不意に携帯の着信音が鳴り響いた。美香の鞄から鳴っていることに気付き、恐る恐る取り出してみる。


「夏見……」


 画面には、夏見の名が表示されていた。出ることは出来なくて、携帯を握ったままジッと画面を見つめる。しばらくして着信は途絶えた。

 夏見、そんなに美香が気になるか? 心配はいらない。美香のそばには俺がいるのだ。お前は、お呼びではない。

 薬を飲ませるためには何か食べさせなければと思って、俺はそっと美香の部屋を後にした。

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