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僕が君を求めても  作者: 麻柚
17/44

事件、愛しい存在

 今日から、バイト先の先輩の家に転がり込ませてもらうことになった。美香には散々止められたが、今日はあいつが起き出す前に家を出てきてしまった。

 青木先輩はフリーターで、一人暮らしをしている。俺が新人の頃、一番親身になって指導してくれたのが先輩だった。

 リビングに通してもらうと、先輩は俺にジュースを出した。


「狭い上に散らかっててすまんな」

「いや、別に」

「……別にって顔してねえぞ」


 部屋中に、弁当殻やペットボトル、脱ぎ捨てた服が無造作に置き去りにされている。確かに狭いが、変な臭いはしないし、一応足の踏み場もあるにはあるのだ。


「で、今回はどうしたわけ? 家出か?」

「まあ、そんなものです」

「兄弟と喧嘩でもしたか?」


 笑いながら、先輩は缶ビールのプルタブを開けた。俺もコップに入れられたジュースに手を伸ばす。

 先輩には、俺の家の事情を少し説明してある。美香が――妹が本当の兄妹ではないということ以外を、だが。それで今回も、すんなり泊めてくれたのだろう。


「喧嘩っていうか、妹に対して俺が勝手にキレたっていうか」

「何じゃそりゃ」

「気まずいんですよ。弟が部活の合宿で家にいなくて、妹と二人きりなんで」

「妹ねえ。そういやお前の妹って、俺まだ顔知らねえんだけど。写真とかねえの?」


 興味津々、といった様子の先輩に気圧され、渋々携帯の画像を漁った。フォルダを遡ると、去年のクリスマス、父さんと母さんが帰ってきた時にふざけて撮った写真を発見した。隠し撮りしていた俺に気づいて、美香が恥ずかしそうに顔を背けているものだ。


「え、マジでこれ⁉︎ すげえ、超可愛いじゃん。彼氏いんの?」

「いないですよ。そいつにはいたことないです」

「嘘だろ、こんな可愛いのに。……でも、お前と全然似てねえな」


 それは、本当の妹じゃないから。美香は妹だけど、妹じゃない。


「お。弟の方は結構似てるな」

「ちょっと、勝手に見ないで下さい」

「なんだよケチだなあ」


 唇を尖らせる先輩から携帯を取り返し、ジーンズに突っ込んで先輩に向き直った。内心、溜息を吐く。

 本当は、美香の写真はあまり見せたくない。相手がどんな反応をするか、大体分かるから。


「その妹ちゃんが家事やってんだろ? 怒らせちゃ駄目だろ」

「怒らせてないですってば。俺が一方的に出てきただけです」

「どっちにしろ駄目だろ」


 先輩は苦笑して、テーブルの上にあったスルメイカを齧った。


「しかし大変だな、お前んちも。親が仕事行くの止めなかったわけ?」

「……むしろ母さんは仕事辞めようとしてました。海外に異動するって決まった時に。でも俺たちが送り出したんですよ」

「何でだよ」

「父さんも母さんも、仕事だけど好きなことをやってるんです。俺たちが邪魔するわけにいかないでしょう」


 俺と美香と海斗、三人で母さんを説得した。始めは心配そうにしていた母さんも、俺たちに根負けして結局仕事を辞めなかった。美香は家事を必死に覚えて、俺と海斗はそんな美香を助けていくことを約束した。海外の様子を楽しそうにメールで送ってくる父さんと母さんを見ていると、続けてもらって本当に良かったと思ったものだ。


「へえ、結構良い兄弟じゃん。早く仲直りしろよ」


 そう言うと、先輩は立ち上がってキッチンに向かい、一台しかないコンロでやかんに火をかけた。賄いを食べた直後のはずなのに、カップラーメンの蓋を剥がしている。お前も食べるか、と問われたので、丁重に断った。


「ところでさ、お前の好きな女のタイプってどんな?」

「……なんすか、急に」

「いいから教えてくれよ。飯塚に聞いて来いって頼まれたんだよ」


 キッチン台に寄りかかりながら、先輩は言った。

 飯塚、というのは、恐らくバイト先の俺の同期のことだろう。以前告白されたが、当時は新井と付き合っていたので断ったのだ。それからもアプローチされてはいるが、気付かないふりをしている。


「特にないっすよ、タイプなんて」

「答えになってねえよ。じゃあ、お前が一番惚れ込んだ奴ってどんな感じだったんだ?」


 甲高い音を立てたやかんからカップ麺へと湯を注ぎ、先輩がリビングに戻ってきた。


「飯塚が諦めそうなこと言ってくれよ、な? 頼む、もう面倒くせえんだ」

「……そうっすね。まず、お人好しなくらい優しくて」

「お、いきなり飯塚が諦めそうな言葉」

「失礼ですよ。……それから、誰にでも隔てなく接して、裏表なくて、料理が上手くて」


 自然に、美香の特徴がすらすら口を突いて出た。一番惚れ込んだ奴、というのもそうだけど、たぶん美香が俺の初恋のような気がするのだ。恋をしたことがなかったわけではないから、なんとなく、だけど。こんな風に本気で相手を求めている自分は、初めてなのだ。


「あと、笑顔が可愛い、です」

「……そんな奴、本当に実在すんの?」

「し、しますよ。つうか惚れ込んだ奴のこと話せって言ったの先輩でしょうが」

「そりゃそうだけどよ。そんな絵に描いたような完璧な女いるわけ?」

「……いますよ。少なくとも、俺は知ってます」


 すぐ近くにいる。俺の、すぐ近くに。

 先輩はふーん、とだるそうに唸ってから、あぐらをかき直した。


「んで、その女とは別れたのか?」

「付き合ってないです」

「は、え、なんだよそれ。もしかして片想い⁉︎」

「なんですか、その驚き方は……」

「だってお前、そんな良い顔持ってて片想いとか信じられん」


 俺は自嘲して、笑った。良い顔、も、役に立たない時はある。


「俺なんてそいつの視界にも入ってないですよ」


 改めて口にして、顔をしかめた。自分の発言を押し流すようにジュースを呷る。

 兄妹なんて、兄貴なんて立場はいらない。でも、例え俺が兄貴でなかったとしても、美香は俺を見なかった気がする。結局、俺という人間ではきっと、あいつを支えられはしないのではないか。


「……まあ、振り向かせられるといいな」


 あっけらかんとそう言って、先輩は蓋を取り麺を啜り出した。

 ずるずるという間抜けな音を聞きながらぼんやりしていると、ふと携帯が鳴った。断りを入れてから画面を見る。着信には田嶋と表示されていた。目の前に奴がいるかのように溜息を吐いてから、通話ボタンをタップした。


「……なんだよ」

「いきなりのそのテンションの低さ、相手に対して失礼だと思わないかい?」

「お前には思わない。本題は?」

「君の声が聞きたくなった」

「あのなあ」

「というのは冗談で。明後日の市内花火大会、一緒に行かない?」


 花火大会。そんなイベントがあることを、すっかり忘れていた。


「なんでお前と?」

「広井くんも小峰くんも明後日は用があるって言うし、君はどうせ暇でしょ?」

「……言っとくけど、お前の方が何倍も失礼だからな」

「じゃあ明後日十七時頃、君の家に迎えに行くから」

「は⁉︎」

「ああ、君の家は広井くんに聞いたから大丈夫だよ。そうだ、藤村さんにも話しておいてよ。一緒に行きたいから」

「おい、お前勝手に――」

「じゃあ明後日。バイバイ」


 自分の用件を一方的に伝えると、田嶋は電話を切った。俺に拒否や反論の間隙を与えないあたり、全く田嶋らしい迷惑さ加減だ。

 だがもう、こうなったら田嶋は頑として自分の意見を変えない。あいつの傍若無人に従うしか道はなくなってしまった。


「どうしたー?」

「なんでもないです。俺明後日、家戻りますね。勝手にすいません」

「いーや。好きな時に来て好きな時出ていけよ。俺はいつでも暇だから」


 美香と田嶋と花火大会、など、どうなるか想像もつかない。考えるだけ、無駄だろう。何か起こる時はどうやったって起きてしまうのだろうから。

 俺はジュースに一気に飲み下し、それから家に一人でいる美香のことを思った。


 *


 花火大会の日が来た。田嶋は宣言通り、十七時丁度に俺を迎えにやってきた。更に、躊躇する美香を強引に連れ出して、俺たちは人でごった返す道を歩いている。陽はまだ高いが、既に酒に酔ったような大人が彼方此方で大騒ぎしていた。


「藤村さん。何か食べたいものある? 買ってあげるよ」

「そ、そんなの悪いよ」

「いいんだよ。無理矢理連れてきちゃったし。何がいい?」

「じゃあ、えっと。チョコバナナかな」

「分かった。屋台探そっか」


 俺たちは横並びになって歩き、俺と美香との間に田嶋がいる。少しは気を使っていてくれているのか、ただの気まぐれなのかは分からない。


「藤村さん、そのスカート可愛いね、ピンク。藤村さんによく似合うよ」

「そんな。ありがとう」


 笑顔で、躊躇いなく女を褒めることが出来るのは田嶋らしい。俺は、そういうのが苦手だ。

 田嶋は美香を引き連れてチョコバナナを買うと、美香にそれを渡していた。実際は近くにいるのに、どこか遠くからその光景を眺めているような錯覚に陥る。

 笑顔を向け合う二人は、一見すると恋人同士だ。ついこの間まで、田嶋の位置には俺がいたはずなのに。


「藤村くんも何か食べる?」

「いらねえ」

「そう。僕たこ焼き食べたいから、半分こしようよ」

「半分こって、そういうのは彼女とやれよ」

「生憎僕には彼女がいないから。あ、あそこにたこ焼きあるよ。藤村さんも行こう」


 田嶋の後ろを歩く美香の後ろを、俺が歩いた。

 美香は先程から俺と目を合わせようとしない。合ったら合ったで互いにすぐ逸らすことになるだけだとは分かっているものの、あからさまに俺を見ようとしないのにも苛立ちを覚える。全部、自業自得だけど。

 前を歩く美香の黒髪が、リズム良く揺れていた。時節ふわりと舞うように踊って、手を伸ばせば届いてしまいそうだった。俺は目を背けて、美香のサンダルに意識を集中した。


 たこ焼きを購入し、花火を見る場所へ移動することになった。良いところを知っているんだ、と得意げな田嶋に従い雑踏の中を抜け、しばらく歩いたところにある石段を登った。花火打ち上げ時刻の十九時に迫り、夕日はもうとうに隠れてしまっていたが、熱気と湿気は容赦なく俺を襲って、登りきる頃には汗だくになっていた。

 辿り着いたのは古ぼけた神社だった。三方は木々に囲まれ、俺たちが登ってきた階段だけが開けていた。祭りの雑踏が嘘のように静かで、俺たち以外に人影はなかった。


「ここから花火が綺麗に見えるんだよ」

「へえ……! よく知ってるね、田嶋くん」


 腕時計を確認する。十九時までは、あと数分ほどだった。


「俺、トイレ行ってくる」

「あ、僕も。ごめんね藤村さん。このたこ焼き持っててくれる?」

「うん。いってらっしゃい」


 田嶋は美香にたこ焼きを託してから、俺の後を追ってきた。

 神社の裏手にあるトイレは蛍光灯が切れかけているらしく、チカチカと落ち着きのない光り方をしていた。一人で来るには不気味だろうなと思いつつ、田嶋と並んで用を足す。


「藤村くん、藤村さんとまた何かあったの?」

「は?」

「いつもに増して気まずそうな雰囲気だから、どうしたのかって」


 手を洗いながら、鏡の中の田嶋が俺に目を向けていた。些細な変化も敏感に感じ取る田嶋の前では、誤魔化せない。


「……美香に、好きな男がいるかもしれないらしい」


 重々しくなってしまった口調で告げると、田嶋は驚いたように俺を見つめた。


「それ、本当なの」

「海斗が……弟が言ってた。ある男の話をしてる時の美香が、とりわけ嬉しそうにしてるって」


 田嶋は顎に指先を当て、考え込むような仕草をした。


「誰だかは分からないんだね?」


 俺は、ゆっくりと頷いた。

 目の前の鏡は水垢と埃で曇っている。時間の経過とともに募っていくばかりの、汚れたもの。透明になりたくても、こんな辺鄙な場所にあっては、手を施す者もいないだろう。


「……藤村さんが選んだ人なら、間違いないよ。彼女は、僕にも騙されなかった」


 俺に言い聞かせるように、田嶋は呟いた。

 田嶋の言うことは正しい。美香が、信用できない危険な男に惚れるとは思えない。それくらいの人を見る目はあいつにだってあるだろう。でも、分かっていても、俺の感情が受け入れることを拒否していた。

 俺のものだと、思っていたい。


「俺は引かない」


 田嶋は、薄汚れた鏡の中で目を細めた。


「簡単に諦めらんねえよ。俺は、強くない」


 美香の幸せを願って身を引くなんてこと、俺にはできないのだ。俺には、美香しかいない。美香以外ありえない。それなのに美香は俺を選ばないなんて、そんなの、不公平だろう。


「……どうするつもりなの?」

「あいつを俺に気付かせる」


 田嶋は俺を、強引に自分の方へ向かせた。目の前に現れた田嶋はへらついた笑顔ではなく、真剣な表情をしていた。でもそこに、俺への敵意はなかった。


「馬鹿なことはするな。藤村さんを傷付けたくないなら」


 俺は唇を噛み、田嶋を振り払った。知ったような口で説教する田嶋に対する怒りと、救いようのないほど歪んだ自分に対する憤りが、一気に噴き出てきた。

 俺は、鈍感じゃない。田嶋が美香を見つめる、その目が普通じゃないことにくらい気付いていた。恋でも友愛でもない、もっと深くて狂気を抱えた何かを、田嶋の瞳は秘めている。


「お前に何が分かるんだよ」

「分からないよ。でも、僕は藤村さんを深く傷付けた。もう彼女の傷付く姿は見たくない。君が我慢して藤村さんを応援してあげれば、」

「俺はもう嫌になるほど我慢したんだよ!」


 これ以上どう我慢しろと言うんだ。他の男を慕う美香を黙って眺めていられるくらいなら、こんな気持ちとっくに捨ててる。


「あいつを避けてまで我慢し続けてきたのに、あっさり関係ない男に盗られるなんてムカつくに決まってんだろ!」

「藤村くんっ」

「お前に何を言われようが、悪いけど俺は変わらない」


 俺は田嶋から逃げるように踵を返して、トイレを出た。田嶋は俺を追ってきたが、それ以上何も言ってはこなかった。

 田嶋は正しい。分かっている。でも俺は、何もかも正しく生きるなんてこと、できない。


 神社の表に戻った。賽銭箱の横に残してきたはずの美香の姿は、そこにはなかった。俺と田嶋は顔を見合わせて辺りを一周したが、やっぱりどこにもいない。嫌な予感が体中を駆け抜けた。

 その時、鬱蒼とした木々の入り口に白いビニール袋が落ちているのが、目に入った。慌てて拾い上げると、中にはパックのたこ焼きが入っていた。田嶋が美香に渡したはずのもの。


「藤村くんっ」


 眩暈のような動揺から俺を覚ましたのは、田嶋のうわずった声だった。駆け寄ってくる田嶋は、美香の白いハンドバッグを手にしていた。


「そこに落ちてた。これ、藤村さんのだよね」

「……くそ野郎っ!」


 俺はたこ焼きの袋を地面に叩きつけた。ぐしゃ、という不快な音とともに、たこ焼きは崩れた。

 木々はまるで森のように、奥深くまで迷宮のごとく広がっていた。月明かりすら差さず、一寸の先も見えないほどの暗黒だった。


「美香!」


 俺は当てもないままに、がむしゃらに林に突入した。田嶋も俺と少し離れたところを入っていった。憎々しいほど群生した葉が俺の視界を遮り、腕や足を切りつける。俺は、邪魔するものを引きちぎりながらひたすらに前へと進んだ。

 俺があいつを置いていったりしなければ、こんなことにはならなかった。俺のせいだ。俺の、せいだ。

 ――私は、兄妹でいたいよ……!

 もう、兄妹でもなんでもいい。お前さえいれば、俺はそれで構わないから。だから。


「いやっ、やめて下さい!」


 蝉や葉の擦れる雑音に混じって、微かな叫び声が耳に届いた。明らかに美香の声だった。その方角に向かって、転びそうになりながら死に物狂いで走る。遠くで、花火の打ち上がる音がした。


「チッ、大人しくしてろよ」

「見かけによらず強情な女だな。早くヤっちまおうぜ」


 林の間を吹き抜ける強風が俺の足音を掻き消していた。僅かに視界が開けた瞬間、現れたのは二人の男と、男たちに馬乗りされている美香の光景だった。遅れた田嶋が、俺の後ろからこの場に躍り出てきた。


「陸っ」


 いち早く俺に気づいた美香が俺の名前を呼んだ。美香のシャツを脱がそうとしていた男が振り返り、俺たちの存在に意識を向けた。


「んだよ、邪魔が入ったか」

「……放せ」


 田嶋が、拳を震わせて言った。


「今すぐその汚い手を藤村さんから放せって言ってんだよ!」


 田嶋は、これまでにないくらいの激情に駆られていた。言葉遣いも乱暴で、此方が怯むほどの形相で男どもを鋭く睨み据えていた。だが美香の胸元から退いた男は驚いた様子もなく、俺たちに近付いてきた。


「汚い手? 何のことだよ」

「お前……!」

「この女がぼうっと突っ立ってたんが悪いんだろ?」


 俺は田嶋と対峙する男を突き飛ばし、その横を通り過ぎた。そして、未だ穢らわしい瞳と手で美香のスカートを乱していた男を掴み上げ、力の限り殴り飛ばした。左頰に俺の一撃を食らった男の体は吹き飛び、無様に土の上に倒れ伏す。


「死ね」


 起き上がりかけた男の腹に蹴りを入れた。更にもう一発入れてやると、男は呻き声を漏らした。


「死ねよ!」


 振り上げた拳を落とそうとして、腕を捕らえられた。振り返ると、田嶋が首を振っていた。


「それ以上やったら駄目だ!」

「邪魔すんな! こいつらは、こいつらは美香をっ」

「駄目だ! 今の君は本当にそいつを殺してしまうっ」


 俺を必死に、真っ直ぐに射抜く田嶋の目線に、ハッとした。

 俺がゆっくりと拳を下ろすと、男たちはすぐに逃げていった。田嶋は俺を放して、美香の方へ飛んでいき、寄り添った。美香の着衣を直しながら、田嶋は何も言わずにいた。美香は体を震わせて、田嶋の手をぐっと握っていた。


「ごめんなさい」


 打ち震える美香の体を、田嶋が抱き締めた。それから柔い手つきで、美香の頭を撫でる。


「ごめんなさい、私っ――」

「君は何も悪くない。僕こそ、君を一人にしてごめんね」

「ごめんなさい……! ありがとうっ、来てくれて」


 美香は、田嶋の腕の中に顔を埋めていた。

 どうして俺は、田嶋と美香を見ているだけでいるんだろう。本当なら、田嶋の位置には俺がいなくてはいけないはずなのに。固く抱き寄せて、俺の体温で、美香を守りたいと思っているはずなのに。


「美香、帰るぞ」


 俺は二人の横に立ち、美香の腕を引き上げた。田嶋は口出しせず、俺たちを見守っていた。


「前科があるかもしれないし、警察には僕が言っておくから」


 田嶋から美香のバッグを受け取った。美香は俺に抵抗せず、従っていた。


「……ごめんね、藤村さん」


 田嶋が小さく、申し訳なさそうに呟いた。


「ううん。ありがとう、田嶋くん。今日は楽しかったよ」


 美香がそっと微笑むと、田嶋は泣きそうに目を逸らした。恐らく、こんな場面で笑いかけられるなんて思っていなかったからだろう。

 三人で林を抜け、神社の前で田嶋と別れた。俺は美香の手を引きながら、お互い無言で石段を下りた。俺が腕を掴む手に力を込めても、美香は何も言わなかった。

 三人で見るはずだった花火は、終わってしまっていた。


 *


 家に到着し、二人でリビングに入った。ソファに美香を座らせ、救急箱を取り出す。水で湿らせた脱脂綿で拭いてから、美香の膝の擦り傷を消毒した。


「……ありがとう」


 美香は微かな声で俺に礼を言った。二人きりの家は、いやに静かだった。


「陸は大丈夫……?」

「は?」

「……拳。ごめんなさい、私のせいで」


 正真正銘の馬鹿か、こいつは。何故今、俺の心配をする。


「なんであんなことになったんだよ」


 思い出したくはないことだろうが、どうしても聞かずにはいられなかった。俺の不手際のせいで美香を傷付けたのだから、知っておく責任がある。俺は美香の足下に膝をつき、見上げた。美香は顔を俯けていたが、俺を見てはいなかった。


「……後ろから羽交い締めにされて、バッグを盗られたの。転んだ拍子に顔を見られて、そうしたら林の方に連れ込まれて――」


 つまり、奴らの初めの目的は金だった。でも美香の顔を見て、犯行を強姦に変えた。

 あの男どもに対してと同じくらい強く、俺は自分に殺意を抱いた。美香が下衆な男たちに狙われやすいことを知っているくせに、どうしてあの時美香を一人置いていったのか。周りに人の影が見えなかったからって油断して、馬鹿だ。どんだけ浅はかだったんだよ、俺は。


「でもまさか、あんなことされるなんて、思わなくて」


 異性に肉体を求められるという生々しい現実を、美香はまだ知らない。だからこそ純粋で世間知らずで、どこか夢見がちで、そんなところがますます、男の気を引く。


「私なんて、まだ子供なのに――」


 消え入りそうな声とともに、美香は自らの体を抱き締め、震えた。

 子供。美香はそう信じていたいのかもしれない。でも現実は違う。胸だって体つきだって、男が醜い欲望をぶつけたくなるくらいに美香は成長している。いつまでも、子供ではいられないのに。

 何度も何度も、多くの男に言い寄られて、それでもまだ分からなかったのか。自分が女であること。自分が、卑しい男に抵抗できないほど弱い存在であることを。

 美香を穢したいという肉欲を抱いている男なんて、きっと掃いて捨てるほどいる。美香が好きな男だって、そうに違いない。そしてなにより、今美香の目の前にいる男こそが、そんな男たちの中でも一番強く、お前を穢したいと思っている。


「田嶋くんや陸が助けに来てくれなかったら、私」


 美香は最も危険な存在が誰であるか、まるで理解していない。美香を助けたその二人の男こそ、一番美香に歪んだ感情を抱いているのだと、知らないんだ。

 お前は少し、男の怖さを思い知った方が良い。


「美香」


 俺は立ち上がって美香の右手首を掴み、じっとその目を見つめた。美香はどうしたらいいか分からないようで、俺に視線を返していた。


「振り払ってみろよ、俺を」

「え――」

「抵抗してみろって言ってんだよ」


 ようやく自分が何を求められているか理解した美香が、俺の手から逃れようと腕を引いた。でも、俺は放さない。より強く握ってやれば、美香は諦めたように首を横に振った。


「……できない」

「何でできないか、分かるか?」

「陸の力が強いから……払えない」

「ああそうだ」


 俺は美香のもう一方の手首も掴み、二つをソファの背もたれに押しつけた。美香は顔をしかめて衝撃に耐えてから、俺を見上げた。


「俺もお前も。もう子供じゃねえんだよ」


 昔はよく、俺と美香と、それから海斗で、ほとんど取っ組み合いのようなじゃれあいをした。でも今、そんなことはできない。俺と美香の間には明確な力の差がある。俺は美香を簡単に捩じ伏せられるが、美香は本気を出した俺には敵わない。

 子供でないこと。もっとお前に、分からせてやりたい。


「お前はさっきの男どもみてえに、女として見られてんだよ」


 きょとんとしていないで、ぼんやりしていないで、早くそれに気が付けよ。子供が好きな女を抱きたいとか、そんなこと考えるか? 気に入った女を犯してやろうなんて、考えるか?

 どうして分からないんだ。最も気をつけるべきお前が、なんで分かんねえんだよ。


「いたっ――!」


 俺は、もっともっと強くと、どんどん美香を押さえつける力を強めていった。美香は小さく痛みを訴えて、涙目になって俺を見上げる。


「ほら、押しのけてみろよ!」


 美香は、何故俺がここまで必死になるか知らない。美香が奪われそうになったことに対する恐怖、美香が他の男を見ているかもしれないという焦り。そして何をおいても、俺が男だということを覚えさせてやりたい、という願望。それらを内包してぶつかっているのだと、美香は知り得ない。

 俺たちは兄妹だ。でも、血の繋がりはない。俺は男で、お前は女だ。


「どうした。俺をどけるなんて、簡単だろ」

「できないっ、できないよ」

「これが俺とお前にある差だ。男と女の差なんだよ!」


 危ういことばかりしてくれるな。お前が今日みたいに、見ず知らずの男に奪われるなんて、考えただけで気が狂いそうになる。

 それほど、俺はお前を想っているから。


「ごめんなさいっ。もう、分かったから、」

「分かってねえよ!」


 この際、美香はとことん痛感すべきだ。自分がいかに、無知で無防備か。

 俺は美香の両手首を左手にまとめ、自由になった右手で美香の肩に触れた。


「あいつらにどう触られたんだ?」


 俺は理性を保つ努力もしないまま、美香の胸に触れた。美香は俺から逃れるためか、身を捩っていた。


「こうか?」

「や、だっ……陸っ」

「どう触られたのか聞いてんだよ。答えろ」


 俺は右手をじわじわ下へと移動させた。美香の足を指先で撫で、スカートの中へと手を滑り込ませる。固く閉じている美香の足を広げるようにしながら内腿に指を這わせた。美香が体を硬直させた。


「こうか。あの男、お前のスカート捲ってたもんな」

「やだっ。何を……」

「あの男どもがやったことを再現してやろうとしてんだよ」

「なんで、なんでそんなこと……!」

「……なんで?」


 まだ、分かんねえのか。


「こうでもしなきゃお前は分かんねえだろ!」


 襲われても自分がまとう魅力に目が向かないなんて、馬鹿にもほどがある。このままでは、美香は必ず同じことを繰り返す。その時も、俺が助けてやれるとは限らないのに。


「呑気なこと言ってんじゃねえよ! お前は犯されかけたんだぞ⁉︎」

「っ……」

「お前が子供じゃねえから、だから男に襲われたんだ! 性欲をぶつけられそうになったんだよ!」


 俺だって、少し気を抜くとお前の女の一面ばかりを考えてしまう。どんな顔しながら男をその体の中に迎え入れるのだろうとか、どんな声で喘ぐだろうとか。そんな、汚らわしいことばかり考える。お前を、女として見てしまっているから。

 俺は醜い。美香が信じているであろうこの「俺」という存在ですら、醜いんだ。


「なんでそれを理解しないんだよ。なんで受け入れようとしないんだよ!」


 頼むから、分かってほしい。美香を守れるのは、美香しかいないんだって。


「……お願いだから。自覚してくれよっ」


 ナンパとか痴漢紛いの行為とか、そんな多くの欲望から美香を守ってきた。それでも、本当の意味で美香を穢されそうになったのは、今回が初めてだった。当たり前だと思っていたこの綺麗な美香だって、いつ亡き者にされてしまうか分からない。

 美香は、俺が必要とする数少ないものの一つだ。だから盗られたくない。失くしたくない。ずっと、そばにいてほしい。


「……美香っ」


 好きだ。

 俺にとってお前の代わりなんて、誰もいない。


 沈黙の後、美香は掠れた声で俺の名前を呼んだ。俺によって体の自由の失われたままの美香は、目許を赤くして俺を見ていた。


「ごめんなさい。私のせいで、陸にそんな顔させてしまって」


 美香は必死に涙をこらえるように、だがしゃくり上げるようにして、ただ俺に謝り続けた。

 美香は何も悪くない。美香を責めるなど、間違っている。悪いのは全部、美香を狙ったあの男どもだ。美香はただあそこにいただけで、ただ俺と田嶋を待っていてくれただけなのだ。


「――謝るな! 謝ってほしいんじゃない。俺は、俺は」


 俺は美香の手首を解放すると、その体を抱き締めた。そうすることで、ここにいる美香を、感じようとした。

 美香、俺は。俺は、ただ。


「無事で良かった。本当に、良かったっ」


 お前を失わずにいられたこと。それだけのことが、こんなにも俺を安心させている。


「お前に何かあったら、俺は」

「……ごめんなさい、陸」


 美香はそう言って、俺の背中に腕を回した。


「ありがとう――」


 こんな風にずっとずっと、抱き締め合っていられたらいいのに。

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