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僕が君を求めても  作者: 麻柚
16/44

知らなかったこと

 夏休みは、バイト漬けの毎日だった。家にいないためには、美香と同じ場所にいないためには、そうするしかなかった。

 今日のバイトが終わり、賄いを食べてからバイト先のラーメン店を後にした。もう二十一時を過ぎているが、またどこかで時間を潰して帰ろうと思い立ち、駅前をふらふらと歩く。ぼんやりと店々のショーウィンドウを眺めていると、突然、思いきり背中を叩かれた。


「いって!」


 思わず叫んでしまってから、慌てて振り返った。そこには、悪戯っぽく笑った新井がいた。


「新井っ。お前何してんだよ」

「陸がイケメンにあるまじきだっさい歩き方してるからだよお」

「そうじゃなくて、なんでこんな時間にほっつき歩いてんだよ。補導されるぞ」

「あは、人のこと言えないし。でも心配してくれんだ。大丈夫、友達の家に遊びに行って、その帰りだから」


 持って、と言われて大きな旅行用のボストンバッグを押しつけられた。パンパンと不自然な形に膨らみ、やたらと重量がある。


「そう言う陸はー?」

「バイトの帰り」

「そっか。あ、ねえこの後暇?」

「別に、暇だけど……」

「ちょっと話そうよお、いい店知ってるから。勿論陸の奢りね」


 有無を言わさず楽しそうに歩き出した新井に戸惑いながらも、付いていくことにした。文化祭の時とはまるで異なる態度に、動揺していたのだ。

 新井が俺を連れ込んだのは、裏通りにある小さな喫茶店だった。木造建築風の内装で、ゆったりとした空気が流れている。俺たちは窓際の席に腰を下ろした。客が少ないからか、注文したものはすぐに運ばれてきた。


「この前は嫌な態度取ってごめんね。ムカついたでしょ?」


 レモンスカッシュをストローで掻き混ぜながら、新井が言った。


「でも陸に仕返ししたかったの。あ、隣にいたのは新しい彼氏。幼馴染のね」

「なるほどな。別に気にしてない」

「優しーい」

「……別に思ってねえだろ」

「うん、思ってない」


 遠慮する様子もなく、新井は言い放った。悠太や田嶋だったら腹が立っていただろうが、新井が相手だとそんな気も起こらない。


「で? 話ってなんだよ」

「そうそう。陸、恋が実ってよかったねぇって」

「はあ?」


 なんの脈絡もないおかしな発言に、俺は面食らった。決して実らないはずの俺の恋が実ったって、一体どういうことだ。


「え、だって陸、田嶋くんのことが好きだったんでしょ?」

「は⁉︎」

 新井の言ってることが全く理解できず、俺の脳は瞬間的にフリーズした。そんな俺に気付かぬまま、新井は続ける。


「あたし、妙に納得しちゃった。陸が普通の女の子相手に怖気づくなんておかしいと思ったんだけど、そういうことかあって。でもよかったじゃん」

「……おい待て。どういうことか説明してくれ」


 きょとん、とした新井の口から語られた「噂」に、俺は頭を抱えた。曰く、俺と田嶋がとある日の朝、空き教室でキスしていた、と。勿論キスなどしていないが、確かに以前俺は空き教室に田嶋を連れ込んだ。それを目撃した誰かの話に尾ひれがついて膨らんでいったんだろう。文化祭の時に俺と田嶋だけの写真を撮りたがった人間がいたのは、そこらへんに理由があるのかもしれない。


「え、なに、あの話マジじゃないの?」

「当たり前だろ! あんな噂、ただのデマだっ」

「なあんだ。じゃ、陸の本当に好きな人って誰?」


 瞳を輝かせ、新井が俺の顔を覗き込んだ。答えられない俺は、視線をそらすしかない。


「……言えねえ」

「なんでえ? もういいじゃん、誰にも言わないからさっ。あ、佐木さんとか?」

「違う。つうか佐木には三年の彼氏がいるだろ」


 男子の人気を美香と二分していた佐木には、先日めでたく彼氏ができたらしい。先輩に持っていかれてしまったのかと、男子の嘆きは酷かった。


「そんなの関係なくない、好きって気持ちにはさ」

「とにかく違うし新井には教えられねえよ」


 妹が好きだなんて、口が裂けても言えない。軽蔑されるだろうし、気持ち悪いと思われることは目に見えている。

 俺はコーヒーのカップをつまみ、小さく口をつけた。


「なんでよお、ケチ。じゃあ、藤村さんとか?」


 コーヒーを噴き出しそうになり、急いで飲み下した。いつ暴露たのか、どう誤魔化すべきか、と思考回路が激しく回り始めたが、新井はあっけらかんと続けた。


「なあんてね。いくら可愛くても妹なんだもん、それはないよねえ」

「……そ、そうだ。あるわけねえだろ、あんな奴。馬鹿なこと言ってんなって」


 新井は、冗談で言っただけだった。でも、油断は出来ないと重ねて認識させられる。新井はたぶん、鈍感じゃない。


「あんな奴なんて言っちゃ駄目でしょ? 陸より何倍も良い子じゃん」


 新井はレモンスカッシュのさくらんぼをつまみ上げ、口に放った。


「あたしね、藤村さんのことちょっと誤解してた。皆の言う悪い噂、信じちゃってたんだよねえ。あたしもなんかあざといって思ってたし」


 そういえば、美香が最も嫌われやすいのは正に新井のようなタイプの女子だ。新井が何か良くない噂を聞いていたとしても、不思議はない。


「でも今年一緒のクラスになってさ。って、言ったっけこのこと?」

「言ってねえよ」

「そうそう、一緒のクラスなの。それで噂通り誰にでも挨拶してたり声かけたりしてるから、ああやってるなあって思って」

「……それで?」

「でも、初めて直接挨拶された時分かったんだあ。藤村さんのは愛想じゃなくて、ちゃんと感情が籠ってる。本心からやってるんだなあって」


 美香は嘘が下手くそだ。だから、心から思っていない行動は取れない。


「女子だけでいる時も態度が変わったりしないし。家でもあんな感じなんでしょ?」

「……ああ。まあ、な」


 新井は笑顔で何度も頷きながら、ストローで氷をつついていた。


「いつも陸のそばにいて狡いって思っちゃってたから、色眼鏡で藤村さんのこと見てたのかも。嫉妬ってやつ。馬鹿だよね、妹相手にさあ」


 妹。歯痒いけど、それが現実だ。


「だってねえ、全然似てないんだもん。傍から見たら彼氏と彼女に見えるんだよお」

「…………」

「今は、藤村さんと仲良くなりたいなあって思ってる。なれるかな、あたしでも」

「……美香は誰かを拒んだりしない。むしろ、なってやってくれ。あいつ嫌がらせされても碌に文句言えねえから、新井が味方になってやってくれれば、有難い」


 新井が、美香を理解してくれた。誤解さえなければ、美香は本来目の敵にされるような人間ではないのだ。自分を犠牲にしてでも他人を尊重する、馬鹿な奴なのだから。


「……ふふ。なんか、お兄さんって感じ」

「は?」

「藤村さんのこと。ちゃんと分かってるんだねえって。いいね、お兄さんって」


 美香については、俺が最もよく理解している自信はある。俺よりも長い時間美香と接している人間など、いないのだ。

 でも。


「……よくねえよ」

「え?」

「兄貴なんて、一つも良いことねえ。他人の方が、マシだ」


 好きになった瞬間から、叶わないと分かってしまった。それが恐らく、いつでも美香のそばにいられることに対する代償だ。

 それなら、他人が良かった。美香を手に出来るなら、どんなに離れていても構わない。


「ど、どうしたの? そんなこと言うなんて」


 狼狽した様子で、新井が俺に問いかけた。俺は先程の自分の発言を反芻し、しまった、と焦りを覚えた。


「べ、別になんでもねえ。妹がモテると、とばっちりくらって色々面倒なんだよ」

「な、なんだ、そういうこと。藤村さんモテモテだもんねえ。あ、でも藤村さんを好きになる男の気持ち、ちょっとは分かるかも。なんて言うのあれ、庇護欲? 唆られる感じ?」


 守りたくなっちゃうタイプだよねえ。新井は言って、レモンスカッシュを飲み干し、追加にジンジャエールとチーズケーキを注文した。


「って、藤村さんの話じゃなくて! 陸の好きな人の話だってば!」

「もういいだろ、それは」

「よくない! 陸、まだ告白してないの? 本当にしないつもりなの?」

「……しない」


 本音を言えば、したい。でも、俺を信頼し切ったあの美香に対して、出来るわけがない。


「なんで? 勇気出しなよ。ウジウジしてる陸なんて陸じゃない!」

「……俺、じゃない」

「そうそう。女百人斬りの陸らしくないってえ」

「俺、陰でそんなこと言われてんのか?」

「いや、これはあたしが勝手に言っただけ」


 けらけら、と新井は笑った。


「とにかく、当たって砕けろだよ。はい解決っ」


 もし。本当にもし、だ。もし美香に好きだと伝えたら、あいつはどんな反応をするだろうか。

 顔を真っ赤にして照れるだろうか。怒るだろうか。泣くだろうか。

 俺にはやっぱり、困った顔をする美香しか想像出来ない。気持ちがないならきっぱりと拒絶してくれればいいのに、美香はそれをしてくれないだろう。こんな俺に対して、美香はどこまでも優しいのだ。


「じゃ、ここからが本題ね」

「は?」

「あたしの彼氏の愚痴! たっぷり聞いてもらうよお。あたしは藤村さんみたいに性格良くはないからね」


 どうやら今日の目的は、それだったようだ。辿り着くまでに随分時間がかかったが、それから俺は何時間も新井の愚痴を聞かされることとなった。


 *


 帰宅する。日付を跨いでいたが、それはもういつものことだった。いつも通りでなかったのは、海斗が難しい顔をしてリビングに残っていたことだ。


「兄貴、話がある。ここじゃ話せないから、俺の部屋に行こう」


 海斗は立ち上がって、真剣な眼差しを俺に向けた。恐らく、美香に関わることだろう。

 俺はコップに麦茶を注いでから、それを持って海斗とともに海斗の部屋へと移動した。俺は海斗のベッドに座り、海斗はカーペットの上に座ったが、中々話は切り出されなかった。


「……海斗」


 沈黙が居た堪れず、俺は海斗を急かした。

 海斗はまた俺を責めるに違いない。それだけのことを俺はやってしまっている。だからこの際、海斗には躊躇わずに俺を詰ってもらいたいとも思っていた。


「兄貴。俺、分からなくなったよ。兄貴のことも、自分のことも」


 俺に詰め寄る時とは明らかに違う、掠れた、弱々しい声だった。


「分かんねえ。分かんねえんだっ」


 海斗は脚の低いテーブルに肘をついて、頭を抱えていた。海斗の様子の全てが異常で、俺は何か、嫌な予感を持った。


「……ごめん兄貴。俺、見たんだ」


 その予感は、現実のものとなった。


「兄貴の誕生日の夜、兄貴が、寝てる姉貴に……キス、してるところ」


 そんな、まさか。

 一番に思ったのはそれだった。そこからは頭の中が真っ白になり、何も思考出来なかった。


「今までずっと黙っててごめん。俺なりに頭の整理をつけたかったんだけど、駄目だった」


 あの日から今まで、二ヶ月は経過している。その間ずっと、海斗は打ち明けられないままで考え込んでいたことになる。


「……なあっ。兄貴は、姉貴のことが嫌いなわけじゃなかったのか?」

「…………」

「姉貴にあんなこと言ったのは、姉貴のことを、愛してるからなのか……?」


 俺が美香に、兄妹だとは思っていないと言ったのは。それは俺が、美香を好きだから。海斗の、言う通りだった。


「なあ、違うって言ってくれよっ」


 唇が震えた。確かな事実と、それが海斗に露呈していたことへの罪悪感から、俺は否定の言葉を失っていた。


「なんでだよ。だって、ついこの間まで普通の兄妹だったのに。それがいつの間にかこんな風になって、しかも兄貴が姉貴を、なんてそんなの、そんなのおかしいだろ⁉︎」


 俺のせいだ。俺のせいで、美香だけでなく海斗まで巻き込んで、混乱させて苦しめている。

 知らなくてよかったはずの苦しみを、与えてしまっている。


「……でも、一番分かんねえのは自分だ」

「…………」

「兄貴がどう思っていようと、姉貴は姉貴なのに。それなのに姉貴が姉貴に見えなくて、姉貴の前で今まで通り振舞えなくなって」


 海斗と美香の関係さえも、俺が歪めている。そんな現実を目の当たりにして、何より自分に対して憤りを感じた。

 俺と美香の関係が崩れるのは覚悟の上だった。承知した上であいつを突き放した。でも、海斗は何の関係もない。何もなければ、ずっと変わらず美香を姉貴と呼んで慕っていたはずだったのに。


「姉貴が女の子に見えたりする時もあって! ……動揺して、姉貴のこと避けたりして」

「海斗、」

「馬鹿だよな。姉貴を避ける兄貴を責めたのは俺なのに、その俺が姉貴を避けるなんてっ」


 これが、俺の行動が招いた結果だった。美香を振り向かせるどころか、海斗の視線さえねじ曲げて、俺と同じ泥沼に引きずり込もうとしている。

 俺が美香を好きになってから、幸せだったことなんて一度もなかった。ただただ絶望があるだけで、嫉妬に狂って、だがそんなこと些細なことだったのだ。二人が傷付いている様子を見ることに比べれば、俺一人の受難なんて取るに足らない。


「海斗、ごめん」


 傷付いている姿を見たくはない。だが二人を傷付けているのは、他でもない俺だ。


「……俺、は。美香が、好きだ」


 傷付けることしか出来ないのに消えない想いを、必死に絞り出して言った。海斗は愕然とした表情で俺を見つめた。


「でも、海斗。俺の気持ちも、お前が見たことも、全部忘れてほしい」

「なっ、なんでだよ! そんなの、無理だっ」

「勝手なこと言ってるのは分かってる。でもこのままじゃ、あいつが一人になる」


 俺たちの知らないところできっと泣いている美香を、救えるのは海斗しかいない。俺は美香への気持ちの制御だけで精一杯で、そんな余裕、今はない。


「あいつは何も悪くない。だけどあいつはきっと、自分のせいだと思い込んでる。だから海斗が、そばにいてやってほしいんだ」

「兄貴の言いたいことは分かる。でもっ」

「頼むから!」


 俺は声を張り上げた。見据えた海斗の瞳は、真っ赤に腫れていた。


「……俺を悪く言っていいから。だから美香のこと、頼む」


 しばらくの沈黙の後で、海斗はゆっくりと立ち上がり、俺の隣に腰掛けた。


「分かった。でも俺、今は姉貴を避ける兄貴の気持ちも分かるから」


 俺は自分の膝に目を落とした。二人の優しさに付け込むばかりで、俺は何もしていない。


「気持ちを伝える気は、ないのか?」

「……一度、言おうと思った。でも、駄目だった。だからこの気持ちが冷めるまで、俺は美香と距離を置く」


 一人の人間に対する恋心なんて、きっと永遠ではない。だからいつか薄れて消滅してくれるまでは、出来るだけ美香から離れていようと思う。もう色々、限界だから。


「でも本当にそれで、兄貴は後悔しないのかっ? 消そうとしても消えてくれなかったくらい、好きなんだろう?」

「……いい。だって、あいつを困らせるだけだろ?」


 海斗でさえこれほどに取り乱すことだ。まして、美香に伝えたりしたら。

 あいつは、こう思うのではないだろうか。兄妹だと信じていたのに、裏切られたと。そんな穢らわしい視線で自分を見ていたのか、と。


「……姉貴に、惹かれる男がいるとしてもか?」


 確信的な海斗の口ぶりに、俺の感情は大きくうねった。


「詳しくは分からないけど、本を貸し合ってる男がいるらしいんだ。その人のこと話す時の姉貴、見たことないくらい嬉しそうだから、もしかしたら、って」


 本を貸し合っている。嬉しそう。

 そいつが、美香の好きな男?

 嘘だ。だって美香は、言ったじゃないか。俺や海斗がいれば充分幸せだと。男なんかいらないと。そうだろう。

 祝福も応援も、出来るわけがない。俺は本当に、無理にでも奪いたいと思うほど、美香を好きなのに。

 奪いたい。他の男に奪われる前に、俺が。


「……悪い。一人で考えさせてくれないか」


 海斗から顔を背けて、言った。俺が立ち上がって部屋を出ていくのを、海斗は何も言わずに見送ってくれた。麦茶を入れたコップは、そのまま置き去りにした。

 海斗と俺の部屋の間には、美香の部屋がある。その前を通り過ぎても、異変は何もなかった。美香の心が揺れ動いているかもしれないのに。

 美香の心だけが欲しい。それ以外は、何もいらない。


 *


 一夜明けても、気分は晴れなかった。何もしていないと、海斗の昨日の話ばかりが頭に浮かんで、俺は二度、三度と眠りの世界に堕ちた。

 夕方、バイトに行く時間になると渋々布団を出た。夕日が射すだけで薄暗いリビングに入ると、美香がいた。美香はハッと、俺から目を背けた。

 俺はキッチンへ行き、コップ一杯の水を飲んだ。戻ると、美香が何かを持って立っていた。


「これ、洗っておいたよ」


 美香が差し出したのは、俺がバイトで使用しているエプロンだった。昨日、海斗の部屋へ行く時にここへ置き忘れたのだ。


「……勝手なことしてんじゃねえよ」


 引っ手繰るようにして受け取ると、エプロンには丁寧にアイロンがかけられていた。愚かな態度しか取れない俺に、ただひたすらに優しく接してくれる美香は、どんな思いでいるのだろう。


「何か食べていく……?」


 美香の問いかけには、背を向けて無視した。

 いつもと、本当に何も変わらない美香だった。昨晩の海斗の証言が全くのはったりに思えてくるほど、美香は美香だった。


「いつも、ありがとう。家にお金入れてくれて」


 返答しないでいると、美香は更に続けた。


「あ、あのね。一つだけ、聞きたいことがあるの」

「……なんだよ」

「私のことを兄妹だと思えないのは、私が、嫌いだから?」


 俺の背中に向かって、美香が問いかけた。

 やはり美香は、自分は嫌われていると考えていた。俺がそう思わせて、美香に自身を責めさせた。

 お前が、好きだ。

 でもそれは、お前の望む答えじゃない。


「嫌いだって言ったら、お前はどうすんだよ」


 俺はまた、美香に誤解させようとしている。でも、俺が美香に正直な想いを伝えるより、嫌っていると思い違いさせる方が、美香にとってきっと幸せだ。

 抱き締めたいだとか、キスがしたいだとか、肌に触れたいだとか。俺がそんなことを考えているなんて、美香は想像もしていない。

 汚いことばかり考えて、ごめん。


「妹、やめるのか?」


 美香は口を噤んでしまった。

 どうしたって美香は、俺の妹だ。この世にただ一人しかいない、俺の。


「ごめん、なさい――」


 違う。そんな言葉、聞きたくない。俺が聞きたいのは、俺を愛している、という、それだけだ。


「……海斗が、来週は部活の合宿で家にいないらしくて。私たち、二人だけになっちゃうの」


 それなら、俺を阻むものは何もない。俺が美香をどうしようが、誰も分からない。泣き叫んで暴れたって、誰も助けに来てはくれない。美香を俺のものにするための、絶好の機会だ。

 ……なんてことをごく自然に思考してしまう自分が、心底恐ろしい。


「それなら、俺も来週は帰らない」


 俺の背後で、美香が息を呑むのが分かった。


「お前もその方が気楽だろ。俺がいない方が」


 美香が、俺の前に回り込んだ。その瞳は心細そうに潤んでいて、それでもしっかりと俺を捉えていた。


「私は、陸にいてほしいよ。だからお願いっ、せめて、帰ってきて」


 美香は俺の手に触れ、美香なりに出来得る限りの力をそこに込めて訴えた。だが俺はそれをすぐに振り払って、美香を突き放した。


「俺はお前といたくないんだよ」

「そんなにっ。そんなに、私が嫌――?」


 嫌だなんて、一言も言っていないだろう。

 それとも聞きたいのか? お前が好きだと。滅茶苦茶にしてやりたいと思っている、と。


「お前のそういうところがムカつくんだよ!」


 美香は体を震わせ、下を向いた。


「そうやって俺と必死に兄妹でいようとするところが目障りだっつってんだろ」


 兄妹とか家族とか、美香がそれを強調するたび、俺はお前を裏切っているのだと思い知らされる。

 いらない。兄妹なんて関係、いらない。


「……でも私は、兄妹でいたいよ」


 俺が舌打ちすると、美香は更に強く怯えたようだった。


「二度と同じこと聞いてくるな。鬱陶しい」


 荒っぽくリビングのドアを閉め、家を出た。

 新井や他の女の前なら、もっと冷静で穏やかに話していられる。だが美香の前だと、どうしても感情が先導してしまう。理性が殺されて、感情だけで突き進んでしまう。

 このまま美香のそばにいて、俺は平気でいられるのだろうか。いつか本当に美香を穢してしまう気がして、俺はもう、自分が怖くて憎らしかった。

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