守れない約束
朝起きると、リビングに美香の姿はなかった。恐らく途中で目を覚まし、部屋に行ったのだろう。食卓には俺のブレザーが綺麗に畳まれて置かれていた。そこには、俺の温もりも美香の温もりも、もう残ってはいなかった。
「おはよ」
登校し、校門に入ってから少しして、俊也と悠太に出くわした。
「はよ。……悠太も」
「ふんっ」
隣の悠太は俺にそっぽを向いて、鼻を鳴らした。俺は何も言えないままで、三人で校舎に入った。玄関で靴を履き替えさっさと階段を上ろうとすると、不意に悠太が大声を出した。
「どうした、悠太」
「俊也。こ、これっ」
悠太が指差すのは、玄関脇の柱に貼られていたポスターだった。文化祭の近いこの時期、そういった類の張り紙は珍しくない。
だがそこには、確かに驚くべき点があった。そのポスターの左半分に写っていたのは、美香だった。肩の開いたドレスを着て、手を組みながら切なげな、不安気な表情をしている。右半分には、メイド服のようなものを着た女子が対照的に明るい表情で写っていた。
思わず、目を見張ってしまう。
「演劇部のポスターか。藤村って演劇部だったか?」
「ち、違うっ。美香ちゃんはどこの部にも入ってない。おい陸!」
悠太に呼ばれて、ハッとした。
「なんか聞いてないのかよ」
「し、知らねえ。俺は何も」
「確かに、特別出演、藤村美香って書いてあるな」
こんなものに参加するだなんて、全く知らなかった。当たり前、か。俺の方から美香を避けて、まともな会話もしていないのだ。そう思っても違和感を覚えてしまうのは、美香はこういう、大舞台に立つということが苦手な人間だから。まさか自分の意思で舞台に立つなんて、どんな心境の変化があったのだろう。
「王子とメイド、禁断の恋物語……だってさ」
「これ文化祭一日目か。よく分かんねえけど、絶対観にいく!」
悠太が鼻息荒く宣言して、階段を上っていった。俊也もその後に付いていく。俺はもう一度、ポスターに振り返った。
そこに写っている美香の表情は、どことなく、昨日の美香に似ている気がした。
教室に到着すると、田嶋は既に登校していて、俺を見ると小さく会釈した。
「おはよう、藤村くん。昨日はどうだった?」
笑顔で田嶋が問いかけてくる。それを横目で見ながら、俺は鞄から必要なものを出し机の中に押し込んだ。
「なにがだよ」
「藤村さんと。上手く話せた?」
田嶋がこんなことを問うてくるのは初めてだった。昨日は俺の誕生日だったわけで、何かしら動きがあったのではという、田嶋の野次馬根性だろう。
「お前なら、俺の顔を見れば分かるんじゃないのか」
「駄目だったんだ。まあ急に話せるようになれとは言わないよ。少しずつ頑張ってみたら?」
「余計なお世話だ」
「そうかな。藤村さんは誰かを拒絶したりしない。まして君が相手なら、どんな話でもちゃんと聞いてくれると思うよ」
分かったような口を。たかだか数ヶ月俺たちと付き合っただけの田嶋が、俺たちの何を知っていると言うのか。
「お前、ちょっと来い」
「え、なにそれ」
「いいから来いって言ってんだよ」
もう疲れた。そもそも、田嶋の一挙手一投足に怯え続けなければいけないなんて、阿呆らしい話だ。
俺は田嶋を、空き教室に押し込んだ。田嶋の本音を聞き出すためだった。
「なに、こんなところに連れ込んで。変なことでもする気? 僕は男だよ」
「するかっつうの」
「はは、冗談さ。で?」
田嶋が俺を見つめる。いつもと違う真剣な眼差しに、もう動揺してたまるものか。
「お前、何が目的だ。やたら俺に突っかかって干渉して、何が目的なんだよ」
語尾が強くなってしまった。こんなあからさまな苛立ちを田嶋に見せては、奴の思う壺だというのに。
田嶋は笑った。
「好きだからさ」
俺の頭が一瞬、働くのをやめた。
「君のことが好きだから。君には幸せになってもらいたいから、出来る限り協力したいんだ」
冷静さが戻ってくると同時に、苛立ちが加速した。適当に取り繕えばかわせるだろうと侮られているのだと思うと、腹が立った。
「ふざけるな。本当のことを言えって言ってんだよ」
「失敬だな、半分は本当だよ。残りの半分は、別の理由だけど」
田嶋はそう言って、ロッカーに寄りかかった。瞬間、田嶋の瞳の色が変わった。柔らかく穏やかなものから、鋭く燃えるようなものへと。
田嶋は、窓の外を見た。
「――僕はさ、藤村さんを誰にも盗られたくないんだよ」
それは、俺が抱く「独占欲」と同じものだった。俺は田嶋を凝視したが、田嶋は相変わらず校庭を眺めていた。
「藤村さんは、僕の存在に気付いていてくれた。初めからずっと。いつも笑いかけてくれた藤村さんが、僕は好きだった」
田嶋も、俺と同じ気持ちでいるのか?
呆然としていると、田嶋はふっと微笑んで俺に向き直った。
「誤解しないで。好きって言っても、人間的にだ」
そこで一呼吸置いてから、田嶋は続けた。
「だからね、そんな藤村さんが適当な男に弄ばれて傷付けられるのなんか見たくない。藤村さんには穢れなんて知らないで、いつまでも綺麗であってほしい。でも、君になら藤村さんを任せられる。君なら、藤村さんを守れるから」
守る。俺が、美香を。
田嶋は俺を、買い被りすぎだ。昨日俺は、最悪な言葉で美香を傷付けた。それに、最低な、許されざる行為を美香にしてしまった。結局俺はあいつを、傷付けることしか出来ない。
「だから僕は君の応援をするんだよ。分かった?」
「……分かんねえよ」
田嶋が俺に託すのは、俺が美香の兄貴だからだろう。兄貴なら、美香を不用意に穢すことはないと思っているのだ。
違う。むしろ俺は美香を、早く自分だけのものにしたくて堪らない。無茶苦茶に穢してでも、手に入れたい。
「そこまで思ってんなら、なんで自分の手許に置いておこうと思わねえんだよ」
「なんで? 今まで散々、思い知らされたからだよ」
自嘲気味に、田嶋が言った。
「どんなに藤村さんと仲良くなっても、結局僕は藤村さんの心には触れられなかった。釣り合わないんだよ、僕なんかじゃ」
「…………」
「もう思い出したくもない。だからお願いだよ、藤村くん」
田嶋は本当に、俺なら美香を守れると思っているのだろうか。俺なら美香に釣り合うと思っているのだろうか。こんなにも俺が汚れたことを考えているのに、それでも、本当に釣り合うと。
「俺は」
俺は、美香には釣り合わない。それでも、あいつが欲しくて仕方ない。
「悪いが、約束出来ない。美香は綺麗すぎる。俺は、美香を穢すことしか出来ない」
俯いて、絞り出すように言った。床の木目をなぞっていた視界に、ふと田嶋の靴先が侵入した。俺は顎を掴まれ、真っ直ぐ田嶋を向かされた。田嶋は、柔らかく微笑んでいた。
「そんなことはないさ」
「……俺はっ」
「さあ、もうホームルーム始まるよ。行こう」
田嶋は俺を見ないで歩き出した。俺は何も言えないまま、田嶋の後を追うしかなかった。
俺の想い、田嶋の本音、海斗や悠太の怒り、そして、美香の泣きそうな顔。様々なものが俺の中で入り混じって、押し潰されそうだった。
*
放課後になり、教室で鞄に荷物を詰め込みながら、俺は朝の田嶋の言葉を反芻していた。俺が美香を守る。そんなことが、可能なのだろうか。
俺は一体、どうすればいい。
「藤村、陸くん」
呼びかけられて顔を上げると、見知らぬ女子が二人立っていた。一人は仁王立ちし、もう一人は気まずそうに俺から視線を逸らしている。
「ちょっと来て」
仁王立ちしていた女子が、俺に命令するように言って歩き出した。もう一人の方に目を向けると、小さく会釈される。訳が分からない。
気が重くなるのを感じながら、二人に付いていった。辿り着いたのは、誰もいなくなった食堂だった。
「ち、千歳ちゃん。こんなところ、勝手に入っていいのかな」
「心配すんなって。食堂のじじいに許可は取ってある」
先程仁王立ちしていた女子は、千歳と言うらしい。名字ではなく、名前だろうか。
食堂の中央の席に並んで腰掛けた二人と向き合うように、座らされた。とてつもなく居心地が悪い。
「とりあえず自己紹介から。あたしは服部千歳」
「あ、その、加藤穂奈美、です」
「俺は、」
「知ってる。あんたのことは良くな」
そう言って、服部と名乗った女子は腕と足を組んだ。
「その、私たち美香ちゃんの友達なんです」
「……美香の?」
それでは、噂に聞いていた柄の悪い美香の友達とは、明らかに服部のことだろう。校則ギリギリの明るさをした金髪に、首元のネックレスが光る。短すぎるスカートは、完全に校則違反の範疇だ。反対に、加藤は美香以上に大人しい性質なのだろう。どことなく暗い印象さえある。きっちりとした三つ編みに厚い眼鏡を掛け、膝丈のスカートを揺らしていた。
こんな二人が、よく友人として繋がったものだ。
「なああんた、美香に何をした?」
遠まわしにすることなく切り込んできた服部を、千歳ちゃん、と加藤が柔くなだめた。
「前から様子がおかしかったから気になってたんだよ。そしたら今日は泣きそうな顔して笑ってやがるから、強引に聞き出してやったんだ」
「そ、そうしたら美香ちゃん、ふ、藤村くんと喧嘩したんだ、って……」
「本当はそれだけじゃないんだろ。あんた何をしたんだよ」
服部と加藤に見つめられ、言葉が見つからない。まさか、美香を好きになってしまったから、などと言えるはずもない。
「なんとか言えって!」
「ち、千歳ちゃん、落ち着いてっ」
「甘いよ穂奈美はっ。この際はっきり聞いておかないと気が済まないんだよ」
服部が机を叩いた。その残響は俺たちしかいない食堂に、ぼんやりと尾を引いた。
「おい藤村っ」
「――ああ。俺のせいだ」
口を開いた俺の代わりに、服部はその口を噤んだ。
「俺があいつに、お前のことを兄妹だとは思ってないって言ったんだ」
改めて口にすると、自分がいかに愚かしいことを言ったのか、よく分かった。
兄妹であることを否定する。それでどうなると言うのだ。美香が本当に、俺を見てくれると思っているのか?
「……あんた、あいつがあんたのことどれだけ大切に思ってるか分かってて、言ったんだよな?」
「ああ、そうだ」
「そんな……」
加藤が悲痛な声を漏らす。服部は唇を噛んで、俺を見据えていた。
「あんたらの事情は知ってるよ。確かにあんたはあいつの本当の兄妹じゃない。でも、だからってあいつを傷付けていいことにはならない」
服部がもう一度、更に力強く机を打って立ち上がった。
「ふざけんなよっ。今更そんなこと言ってあいつを傷付けたなんて許せない! 何がしたいんだよ!」
俺はただ、兄妹を否定したかった。そうすることで何かが動き出さないかと、淡い期待を抱いていた。結果は、美香を傷付いただけだった。
「……いつもヘラヘラしてるあいつに元気がないと、調子狂うんだよ」
「…………」
「部外者がって思ってるかもしれないけど、あたしらだって美香のこと見てるんだ」
「そうですっ。美香ちゃんがいなかったら私、ずっと、ずっといじめられて、友達いないままでしたっ。だから美香ちゃんには、笑っていてほしいんです」
服部は座り直して、泣き出しそうになった加藤の背中をさすっていた。加藤は何度も目許をこすり、服部に、ありがとう、と言った。
その様を見て、このままでは駄目だと思った。このままでは、美香だけでなく周囲の人間全てを不幸にする。
「……分かった」
そう言った瞬間、服部と加藤の表情が晴れて、俺は後悔した。無責任な発言をしてしまったと、罪悪感が募った。
「良かった。これであいつも」
「うん。美香ちゃんもきっと、元気になってくれるっ」
そうだろうか。むしろ、これまで以上に美香を困らせ、傷付けるだけではないだろうか。
「じゃあ、頼んだぞ!」
用件が済むと、二人は足早に立ち去っていった。廊下を駆ける足音が俺の耳にじくじくと鳴り、消えた。
俺が美香を傷付いたことで、海斗も、美香の友人でさえ俺に憤りを見せた。だがそれでも俺は、美香に何も出来ない。この気持ちを告げてしまえば、美香に更なる苦悩を与えてしまう。
何もかも俺自身で引き起こしたことなのに、俺自身の手ではもう、制御が効かない。
ごめん。好きだ。
あいつに一番言いたいこと。あいつの前でなければ、いくらでも言えるのに。




