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僕が君を求めても  作者: 麻柚
13/44

誕生日

 ゴールデンウィークも明け、今日は俺の誕生日だった。放課後、悠太と俊也、それと田嶋に連れられ、ファストフードの店に入る。誕生日だから、というだけの理由で小洒落た店に行けるような金回りの高校生は、そういない。


「ムカつくけど今日は俺の奢りだ! まあみんな好きなだけ食えよ」


 誰が奢るかを決めるジャンケンで負けたらしく、悠太は不貞腐れながらコーラを吸っていた。


「ありがとう広井くん。たくさん食べさせてもらうね」

「へいへい。もうなんでお前がいるんだって突っ込むのも疲れたわ」

「田嶋、部活はいいのか?」

「日曜に練習試合があった代わりに今日はお休みなんだ。ご心配ありがとう、小峰くん」


 俺の隣で、田嶋はいつものように笑っていた。

 田嶋が俺に現実を突きつけたあの日の翌日から今まで、田嶋はまるで何事もなかったかのように振舞っている。俺も自らその点に触れることはせず、結局うやむやのまま、田嶋と付き合っていた。


「それより田嶋には一刻も早く彼女を作ってほしいんだが」

「なんでだい、広井くん?」

「え、お前が女子に囲まれてるの見ててウゼーから」

「……あはははっ」


 真顔で言った悠太を、田嶋は軽い調子で笑い飛ばした。腹を立てたらしい悠太はテーブルに身を乗り出し、正面の田嶋に顔を寄せた。


「なんで笑うんだよ!」

「いいや、広井くんのひがみって分かりやすくていいなって。安心してよ、僕に彼女ができても、女の子たちはそんなこと気にしないから」


 満面の笑みで嫌味を言う田嶋に戦意を削がれたのか、悠太は脱力して腰掛け直した。


「……あはは。水ぶっかけてえ」

「できもしないくせに」

「田嶋あー! お前ほんっと、ほんっといけ好かねえ奴だな!」

「褒め言葉?」

「ちげーよ!」


 悠太と田嶋の言い合いを尻目に、俊也は三個のバーガーに手を付けていた。大口を開け、チーズバーガーにかぶりつく。首を突っ込むとろくなことにならないのは目に見えているため、俺もぼんやりと聞き流した。ポテトは味付けの加減がおかしくて、塩辛かった。


「お前あんだけよりどりみどりで、好きな女いねえのかよ」

「いないねえ。逆に目が肥えちゃうしね」


 舌の回る田嶋に、悠太は苦い顔をするばかりだ。弁舌でも容姿でも勝てないんだから、喧嘩なんて吹っかけなきゃいいのに。


「チッ。俺はお前が美香ちゃんに振られて心の底から良かったと思ってるからな!」


 美香。不意打ちの単語に、俺は息を呑んだ。隣の田嶋が、微かに此方に視線を寄越した。


「うーん。藤村さんと僕じゃ、やっぱり釣り合わなかったのかな」


 わざとらしく唇を尖らせて、田嶋は苦笑する。けっ、と面白くなさそうに悠太がポテトを口に詰め込んだ。


「でもね、藤村さんのことは僕なんかよりずっと素敵な男の子が狙ってるから」


 田嶋の発言に、もくもくと口を動かしていた俊也ですら、動きを止めた。悠太が口を開く。


「はあ? 誰だよそれ」

「うんと。僕なんかよりずっとかっこよくて、ずっとモテて……ずっと、藤村さんの近くにいるような」


 咄嗟に、田嶋の胸倉を掴んでいた。思いきり睨んでやっても、田嶋はきょとんと、知らないふりを貫き通していた。

 悠太に、俊也に、俺の感情を知らしめようと言うのか。

 この男は、本当にどこまでも俺の神経を逆撫でする。俺の反応を楽しんでるのが見え見えで、憎らしくて仕方ない。どうやったら、どうやったらこいつを、黙らせることができる?


「お、おい陸。どうした?」


 固まっていた俺たちに、悠太が恐る恐るといったように声をかけてきた。ハッと我に返って、俺はそっと田嶋を解放する。奴は笑って、なんにも気にしてないみたいに烏龍茶を飲んだ。


「あ、広井くん。小峰くんが凄い量食べてるけど」

「うげっ、おい俊也。お前陸より食ってるじゃねえか!」

「だってお前が、好きなだけ食えって言ったから」


 結局、俊也の食欲に恐れをなした悠太によって早めの解散となった。田嶋と別れ、三人で最寄の駅にて電車を待つ。


「あー財布が痛えー」

「御愁傷様」

「ざけんな俊也っ、てめーのせーだろうが!」


 悠太の怒鳴り声を、俊也は耳を塞いで聞き流していた。いつも思うが、俊也はその細い体のどこに食った物を入れてるんだろう。

 何気なく腕時計を確認すると、午後六時を過ぎたところだった。このままだとかなり早い帰宅になる。

 最近は、夕食すら美香とともにしていない。バイトを無理矢理遅くに入れて、海斗より後に帰ることも多くなった。外食して手をつけない日もあるのに、食卓には必ず俺のぶんの夕食が残されている。

 同じ家の中にいるのに、顔すら合わせていない。勝手に怒鳴りつけて、勝手に気まずくなるなんて、馬鹿みたいだ。


「――なあ、どこか寄ってかねえ?」

「はあ? なんでだよ陸」

「別になんでってことねえけど」


 美香と一緒にいたくないから、なんて言えるわけがない。


「つーかお前、真っ直ぐ帰れよなあ」

「は?」

「今日は早く帰ってきてほしいって美香ちゃんから伝言。自分が言っても駄目だろうから俺から言ってほしいって頼まれた」


 舌打ちをしかけて、思い止まった。

 確かに、ここ最近の美香からのメールを、俺は無視し続けていた。だけどまさか、美香が俺に直接接触することを避けるなんて想定外だった。不意に介入した悠太という男の存在が、美香と俺との距離をさらに離していく気がした。


「お前さ、なに意地張ってんの? 美香ちゃん困ってるぞ。一言謝れば済む話じゃねえか」

「……なんでお前にそんなこと言われなきゃなんねんだよ」

「なっ。美香ちゃんが俺にまで相談してきたんだぞ。心配して当然だろうが」


 悠太が俺を睨んだ。俊也は俺たちの間で、ただ黙っていた。


「美香がお前に相談しようが、部外者は部外者だろ」

「部外者? お前、そういうこと言う奴だったのかよ」

「悠太は黙ってろって言ってんだよ」


 悠太は何も悪くない。何もかも、俺が悪い。分かってるのに、舌が回り続けた。


「黙ってられるかっ。今日お前の誕生日だろ。美香ちゃん何か用意して待っててくれてんじゃねえのかよ!」

「おい悠太、」

「俊也は黙ってろ! ……今日はお前の特別な日だから、だから美香ちゃん俺に頼んでまでお前に帰ってきてほしかったんだろ。少しは考えてやれよ!」


 俺の、特別な日。

 美香は去年、俺の好物を作って、ケーキを買って、待っていてくれた。それ以前にも俺の誕生日ケーキを選んだのは大体、美香だったらしい。だからたぶん今年も、俺に避けられてる今年も、あいつは待ってる。悠太の言う通りだろう。

 でも。そんな風に素直になれるなら始めから、こんなことにはなってない。


「んだよお前、随分美香の肩持つじゃん。そんなにあいつが好きなわけ?」

「はあ⁉︎ もう知らねえ、勝手にしろっ」


 そう言って悠太は、踵を返して駅から出ていこうとした。一度俺に振り返って、真っ直ぐ帰れよ、と忠告すると改札をすり抜けていってしまった。

 ホームには俺と俊也だけが残された。俊也が、溜息を吐く。


「悪い陸、俺悠太追いかける。あいつ、迷子になりかねねえし」

「……ああ。分かった」

「まあ、早く仲直りした方がいいってのは確かだな。あ、悠太のことは安心しろ。そのうちケロっとしてまた突っかかってくるから」

「ごめん、俊也」

「別に。じゃあな」


 俺に手を振って俊也も去っていく。田舎の寂れた駅には、俺一人が残された。朽ち始めている柱に寄りかかり、電車を待つ。


「……どうしろって言うんだよ」


 避けていることを謝ったって事態は変わらない。俺が美香への恋愛感情を捨てない限りは。

 そばにいたいけど、いたくない。優しくしたいけど、出来ない。好きだと言いたいけど、言えない。

 兄妹なんて関係、ぶち壊れちまえばいいのに。


 *


 家のドアの前に立つ。

 結局寄り道のあてもなく、真っ直ぐ帰ってきてしまった。中では、美香が俺を待っている。

 目を強く閉じ、それから開けて、玄関に入った。ゆっくりと廊下を歩き、リビングの扉を開ける。食卓の椅子に座っていた美香は、俺の姿を見ると立ち上がった。心底安堵したような表情を浮かべ、肩の力を抜いている。美香はきっと、俺が帰ってこないことも覚悟していたんだろう。


「お誕生日、おめでとう」


 美香が微笑む。それすら直視できなくて、目を背けた。

 テーブルに並んでいるのは予想通り、俺の好物ばかりだった。エビフライもある。どれにもラップがかけられていて、温め直すね、と言って美香が椅子を離れた。忙しなく動くたびに、部屋着のスカートが揺れる。


「海斗も、今日は早めに帰ってこれるらしいの」


 小皿を出しながら、美香が言った。


「今日だけでもいいから、全部忘れて楽しく過ごしたいな。……ね?」


 美香は本当に、変わりなく振る舞おうとしてくれている。それが嬉しくもあり、腹立たしくもあった。

 俺に向かって椅子に座るよう促してから、美香は冷蔵庫を開けた。取り出されたのはチョコレートケーキだった。包装されていない、ホール型のもの。


「これね、今年は作ってみたの。こういうケーキ作るの初めてだから、上手くいってるといいんだけど」


 結構時間がかかったんだよ、と言いながら、美香はケーキにナイフを入れた。髪を耳にかけたその横顔に、たまらない思いがした。

 手作りの誕生日ケーキなんて、今まで作ったことなかったくせに。今美香から与えられる優しさなんて、邪魔なだけなのに。


「陸? 座らないの?」


 美香はきょとんと俺を見て、再度促した。俺は足が竦んでしまっていて、一歩も動けずにいた。


「今年も陸のことちゃんとお祝い出来て凄く嬉しいな。本当におめでとう、陸」


 美香は、カットしたケーキを食卓での俺の定位置に並べて、微笑んだ。嘘が吐けない美香の心からの言葉とともに、それは俺を攻撃した。お前は汚い、そう突きつけられてる気がした。

 笑うなよ、と思う。俺なんかのために笑顔を作って、手間かけてこんな準備して、それで美香が得るものなんて何一つない。俺は美香を傷つけることしかできないんだから。


「……なんでだよ」


 どうにか腹から振り絞り、言った。ようやく俺が口を開いた、と思ったのか、美香は黙って俺を見つめた。


「なんでだよ。なんで、ここまでするんだよ」


 美香のくれる優しさを、俺は返せない。俺には美香に思われる資格などない。

 美香は、少し困ったように首を傾げた。


「理由なんて、必要かな。陸と一緒にいれることが嬉しいし、陸に喜んでもらいたかったから……そう、家族だからじゃ、駄目かな」


 頭の中で、何かがばちんと弾ける音がした。

 そう、家族だ。俺たちは兄妹だ。美香にとっては、俺は、兄貴だ。当たり前の事実だ。

 どんなに汚れても俺は美香の兄貴だし、それはこの先も変わらない。


「……バッカじゃねえの。んなことしてなんになるんだよ」


 そう言った瞬間、美香が目を伏せた。俺は拳を握り締め、一歩前に出た。

 もうこれ以上、俺の心に入ってくるな。こんなに汚くて醜い心を、お前にだけは知られたくない。


「そうやっていつも良い子ちゃんぶって疲れねえのかよ。ほんと、ウゼえ」


 違う。良い子を演じるとか、美香はそんなことはしていない。本心でやっている。そんなことは俺が一番、理解しているけど。


「そ、んな――」


 美香は呆然として、そう呟いた。


「陸に喜んでほしいって思うのは、いけないこと? 陸が好きだから、陸のためだって思えたから頑張れたのに」

「だからそれがウゼんだよ! 俺のためってなんだよ。そんなの頼んでねえだろうが!」


 好きだ、なんて簡単に言うな。俺にとってその言葉は、気楽に口にできるような安い代物じゃない。恥ずかしがり屋の美香がなんの臆面もなく発するなんて、そんな言葉にどんな特別な意味も籠っていないこと、明白だ。そんなもの、見せつけんなよ。

 嫌な静寂がリビングを支配する間、俺は顔を俯けていた。


「……ねえ、陸。私が何か、しちゃったのかな」


 細く消え入りそうに、美香は言った。顔を上げると、美香の表情は泣きそうに歪んでいた。


「ねえ、教えて。私に原因があるなら、言っていいんだよ」


 美香のせいだったなら、きっとここまでこじれることはなかった。全部俺のせいで、それなのに俺の力ではどうにもならないから、もがいて足掻いて、美香を傷つける。今も。


「理由も分からないままじゃ、その方が辛いから」


 語尾が震えていた。今にも涙を零してしまいそうな顔をしているのに、美香の瞳に涙は見えない。


「私たち、兄妹でしょう……?」


 兄妹。

 お前のその言葉には、もう、頷いてやれない。


 その時、エナメルバッグを背負った海斗がご機嫌な様子で帰ってきた。ただいま、と意気揚々とリビングに顔を出した海斗だったが、俺たちの様子を見て何かを察したらしい。扉を開けた、その場で立ち尽くしていた。


「ど、どうした?」


 動揺した海斗の言葉に、俺も美香も答えられなかった。俺は海斗から美香へ、視線を戻した。


「俺は、」


 海斗。最悪のタイミングだよ、お前は。


「俺はお前を、兄妹だなんて思ってない」


 はじめに反応したのは、美香ではなく海斗だった。海斗はエナメルバッグを足元に投げ捨てると、俺の胸倉を思いきり掴んだ。


「兄貴、それどういうことだよ!」

「いいの海斗っ」


 美香が、海斗を制した。テーブルの上の拳に強く力を込め、美香は俺たちを見ていた。


「いいって、そんなはずないだろ!」

「もういいの! 私が、教えてって言ったの。陸の気持ち分かったから。だからもう、いいの」


 美香は、言葉とは正反対の表情をしていた。

 でも、美香を傷つけてでも俺は兄妹であることを否定したい。認めたくない。美香に、俺は兄妹じゃないんだと思わせることで、俺をもっと別の、特別な存在にさせたい。無駄だと分かっていても、そうなる可能性が少しでもあるなら、賭けたい。


「そんなのっ。そんなの俺は、納得いかねえよ!」


 海斗は一度俺を解放すると、今度は肩を揺さぶった。


「兄妹じゃねえってなんだよ! 今までの、今までのことは全部嘘だったって言うのか!?」

「海斗っ」


 美香は俺たちに走り寄ってきて、海斗を俺から離そうとした。海斗はそれに従わず、俺をじっと睨み上げていた。


「兄貴を思ってこんな風に準備してくれた姉貴の気持ちを踏みにじって、楽しいのかよ!」

「海斗! もう、いいから――」

「もう黙ってらんねんだよっ。兄貴は、一体誰のせいで姉貴が苦しんでると思ってんだ!?」


 苦しんでる……?

 苦しんでるのは美香だけじゃない。俺だって、美香のせいで。

 消えてくれない。自分を追いつめるだけなのに、俺は美香を想うことをやめられない。


「全部っ、全部兄貴のせいだ!」


 誰にも理解されない。こんな感情、どうしろって言うんだよ。


「黙ってねえでなんとか言えよっ」


 美香は何も言わずに、海斗の背中に隠れて俺を直視することを避けていた。好きだと思う人間に、俺はそうさせることしかできない。


「お前には、分かんねえよ。俺の気持ちなんて」

「……分からない?」


 海斗は俺の肩を放し、再び俺の制服の襟を鷲掴みにして引き寄せた。海斗を止めようとしていた美香の手は、その勢いで海斗の体から振り払われた。


「当たり前だろ! 分かるわけねえだろ? 兄貴も……姉貴だって、俺に何も言ってくれねえんだからな」


 海斗がこんな風に感情を剥き出しにして怒る姿を、俺は初めて見た。


「なんでっ、なんで言ってくれねえんだよ。そんな気の使われ方しても、嬉しくねえんだよっ」


 先程までの怒号とは対照的な、弱々しい声だった。海斗は俺の襟元にあるその拳を、ぐっと握り締めた。


「俺たち、家族だろ……」


 家族なのに、俺は美香を手に入れたくて仕方ない。美香が俺を見ていないことなんて痛いほど理解できているのに、もしかしたら、なんて一縷の望みに託して兄妹としての美香を突き放そうとしている。そんなことをしても何も生まれないどころか、海斗まで苦しめているのに。

 ごめん美香。ごめん、海斗。


 俺は海斗を引き剥がして、玄関を飛び出した。マンションを出て、すっかり静まった夜の道をがむしゃらに走る。途中、すれ違った年配の男と衝突しかけ悪態を吐かれると、走る気力すらなくなって、そばの電柱に凭れた。

 俺は美香を何度も傷つけてきた。でも、今回はこれまでと訳が違う。美香は、俺や海斗とは比べ物にならないほど家族や兄妹の繋がりを大切にしていた。そんな美香に俺は、兄妹であることを拒絶する言葉をぶつけてしまったのだ。

 ――私たち、兄妹でしょう……?

 俺は、お前を裏切ることしかできない。


 *


 バイト先に意味もなく居座って時間を潰してから、重い足取りを家へと向けた。俺の行く場所は、他にどこにもなかった。

 時刻は、午前二時を回っていた。

 もう美香たちはとっくに眠っているだろう。そう思いながら鍵を挿したのに、予想に反して玄関は開いていた。驚いて、恐る恐るドアを開けると、廊下の先のリビングから明かりが漏れていた。

 まだどちらかが起きているのか。そう警戒しながらもリビングの扉を開け、そっと中に入った。一見、もぬけの殻であり、消灯を忘れただけだったのかと拍子抜けしかけたものの、そうじゃなかった。

 食卓に背を向けて配置されているソファに、眠った美香が座っていた。

 膝の上には、一冊の本があった。読書の途中で眠ってしまったのかもしれないと納得しかけてから、別の疑問が湧いてくる。美香は普段、自室で読書をするはずだ。どうしてリビングで、居眠りしてしまうほど長い時間、本を読んでいたんだろう。

 ……まさか俺の帰りを、待っていたのか。

 図々しくて自分にばかり都合のいいその仮定を、でも捨てることができなかった。美香なら、やりかねないと思った。馬鹿みたいに優しい美香は、どんなに俺に傷つけられても、きっと。

 途端に押し寄せてくる、愛おしいと思う衝動。


「……こんなところで寝るな。風邪引くぞ」


 声をかけてみても、美香は熟睡しているようで、起きる気配は全くなかった。家を出る前とは対照的な、目元も口元も柔らかい、幸せそうな表情をしていた。


「おい、起きろって」


 少し肩を揺さぶったが、反応はなかった。美香の黒髪が少し揺れる。同時に、シャンプーの甘い香りが俺の鼻腔をくすぐった。それに誘導されるようにして、俺は美香の白く柔らかい頰に手を伸ばし、そっと触れた。

 綺麗、だった。それこそ、俺なんかが触れるなんて許されないくらいに。

 それでも、美香を感じたいという欲求が収まらない。

 今度は、髪に指を通した。美香の、肩より少し長く伸びた艶めいた黒髪が、俺の指を受け入れてさらさらと流れた。美香の香りが一気に流れ込んでくる。

 これ以上は駄目だ。そう、直感した。自分を抑えられる自信が、ない。


「――起きろよっ」


 俺の目は美香の唇を強く捉えていた。俺に怯えて震えていたその唇には、田嶋を含め、美香に近付いた男の誰も触れていない。まだ誰にも侵されておらず、誰にも染められていない。

 触れたい。

 駄目だ。許されない。

 それでも、触れたい。

 頼む、目を覚ましてくれ。俺を、止めてくれ。今ならまだ、戻れるから。お前のこと、諦められるかもしれないから。

 俺はもう一度、今度は両手で、美香の頰を包み込んだ。


「……好きだ」


 この先、絶対にこんなことしないから。だから今だけ、許してほしい。

 俺の唇が、美香のそれにふわりと重なった。

 それはほんの一瞬の出来事で、すぐに温もりは離れてしまう。顔を遠ざけず至近距離で美香を見ると、何も知らないその優しい寝顔に、泣きそうになった。美香は「家族」の何もかも、信じきっている。

 ありえねえよ、妹なんて。

 俺は美香を見下ろす態勢に戻ると、自分の髪を一束、くしゃりと掻き毟った。


「ごめん、美香」


 傷付けて、ごめん。


「……ごめん」


 好きになって、ごめん。

 俺は着ていたブレザーを、美香の体にかけた。そしてそのままそっと、美香のいるリビングを後にした。

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