転機
新学期が始まってからしばらく経ち、ゴールデンウィークが近付いてきている。新しいクラスにも授業にも、慣れてきた頃だ。
俺と美香の関係は相変わらずだった。夕食の時に、言葉を交わすだけ。海斗には悪いけど、でも海斗の方も部活がますます忙しくなって家にいる時間は減っていた。
「藤村くん、ちょっと図書室に付き合ってくれない?」
四限の授業が終わると、隣の田嶋がそう言ってきた。俺は消しゴムのカスを床に落としながら、田嶋へ視線を移す。
「なんでだよ。一人で行け」
「そんなこと言わないでよ。委員会で使う資料を集めたいんだ。すぐ終わるから」
田嶋のウザったい笑顔と言葉にはどこか突っぱねづらいものがある。俺は、仕方なく立ち上がった。上手く利用されてる気がするが、今は目を瞑っておく。
「小峰くんはどうする?」
廊下側二列目、一番前に座る俊也に、田嶋が声をかけた。俊也が首を振ると、田嶋はあっさりと身を引いて歩き出す。それについていこうとする俺を、俊也が憐れそうな目で見上げた。俺は肩を竦めてみせる。
裏口から図書室に入ると、田嶋は真っ直ぐに目的のコーナーと思われる場所へと足を向けた。立ち止まり、本を手に取っている。
「分かんないや。先生にでも聞いてみる」
踵を返してカウンターへ向かった田嶋は、不意に足を止めた。田嶋の視線を辿れば、そこには本棚の前で男と話している美香の姿があった。内容までは聞こえない。
男が何か伝えると美香は頷き、一冊の本を選び手渡す。頭を下げる男に、微笑む美香。
「……あらあら」
呆れた風に、でもどこか面白がっているように田嶋は言った。ちらと俺に目を向けてくる。
美香の隣にいた男は、俺たちの方へと歩いてきた。すれ違う瞬間に垣間見た男の頰は、ほのかに赤く染まっていた。もう一度美香を見ると、既に別の男と話し始めている。
「こんなところでもモテモテなんだね、藤村さんは」
こういう光景が広がっていると知っていて、田嶋は俺を連れてきたんだろうか。
いや、と俺は首を振る。田嶋は俺の気持ちを知ってるわけじゃない。ただ俺が、気付かれているのではと一方的な疑惑を抱いているだけだ。
「藤村くん?」
美香は、俺や田嶋に気付いた様子もなく、自分に声をかけてくる男と接していた。男の方がきっと持っている下心に気付きもしないで、笑顔を、俺の知らない男に振りまいていた。俺に向けるものとなんら変わりない、笑顔を。
美香のあの笑顔は俺だけのものじゃない。俺は美香にとって、特別な存在じゃない。特別な笑顔を見せたくなるような特別な男ではないのだ。どんなに美香のそばにいたとしても。
俺は、ただの兄貴。分かっていたのに、改めて思い知らされた。俺の中で淀んだ感情が生まれては沈んでいく。
「……先戻る」
田嶋の返答も聞かないで、俺は引き返して裏口から外へ出た。とにかく図書室から離れたくて、早足で教室を目指す。
見たくない、いや見ないようにしていた現実を、見せつけられてしまった。
美香が特定の奴と噂になってるとか、告白されたとか。そんなこともう何十回と聞いてきた。今までは大抵、どうでもいいとすぐに忘れて、気にかけたとしてもからかいのネタとしてだった。それなのに今更、動揺するなんて。
教室に悠太と俊也の姿はなかった。恐らく食堂にでも行ったのだろうが、もう時間もないので一人で食べることにする。朝、適当に買ってきたメロンパンを取り出して、口に運んだ。
「ぼっち飯ですか、藤村くん」
スマホを操作しつつパンを貪っていると、金山が笑って俺の前の席に腰掛けた。金山とは今年も同じクラスだ。
「ほっとけ」
「まあまあ。最近お前元気ねえからさ、俺が慰めてやろうと思ったんだよ」
金山は持っていたパックの牛乳をすすると、足を組んだ。
「で、どうしたんだよ。また彼女にフラれたか?」
「違えよ!」
「はは、だよな。フラれようがお前にはいくらでも代わりがいるしなあ」
代わり。
確かに俺を好きだと言ってくれる奴は、まあ困らない程度にはいる。でも美香の代わりになんて誰もなってくれないし、しちゃいけない。
黙り込んだ俺の顔を、金山は覗き込んできた。
「なに、神妙な顔して。まさかほんとに恋のお悩み?」
「うるせー」
「え、マジ? 本命でもできちゃったとか?」
答えないでいると、金山はふっと息を吐き出して牛乳パックのストローを咥えた。ずずっと豪快に飲み干し、指でパックの腹を押し潰している。
「告りゃいいじゃん」
顔を上げると、正面の金山は俺をからかうでもなく馬鹿にするでもなく、窓際の方を見ていた。俺は食べ終えたパン袋の口を縛る。
「どんな女か知んねえけどさ、陸が相手なら十人中十人その気になんだろ。彼氏持ちとかでも」
俺の歯切れの悪さの原因を、金山は金山なりに解釈してくれたらしい。いつもふざけたことしか言わない金山が割りかし真剣な表現をしていたので、ちょっと笑えた。
「お前案外いい奴だな」
「案外いらねえから。合コン参加で礼返せよ」
チャイムが鳴ると、金山は「後でまた聞かせろよ」と言って自分の席へ戻っていった。入れ違いで、田嶋が帰ってくる。
「藤村さん、図書委員なんだって」
教科書を出して次の授業の用意をしながら、田嶋は言った。机の角に教科書とノートを積み上げ、頬杖をつく。田嶋の仏頂面からは、何を考えてるのかまるで読み取れない。
「なんで先に戻ってきちゃったの?」
前を向いたまま、田嶋が俺に問う。俺はなんでもない風を装って、ぐいっとペットボトルの紅茶を呷った。
「腹が減ってたからだよ」
「本当に?」
田嶋の目が、俺に向く。その視線は、俺の奥底まで捕らえている気がした。言い訳も何もかも、田嶋にはきっと通用しない。
「ねえ藤村くん」
いつの間にか表情を取り戻した田嶋は、俺に笑顔を見せた。
「放課後、ちょっと時間もらっていいかな? 僕も部活があるし、手短に終わらせるから」
「……今言えよ」
「それはできない。いいこと教えてあげるから、待っててよ」
微笑む田嶋の言う「いいこと」とやらが、本当に俺にとって有益なものだとは思えなかった。少し、寒気がする。
「逃げないでね」
そんな不穏な台詞を口にしながら、田嶋はやっぱり笑っていた。
*
放課後、田嶋は言葉通り俺を連れ出した。因縁深い、屋上近くの階段へと。今日は踊り場ではなく、そのさらに上にある、屋上の扉の前まで連れられた。
微笑むだけで、もったいぶって口を開こうとしない田嶋に苛立ち、急かす。扉のすりガラスから陽光が射してるせいか、ここは少し暑い。
「さっさとしろよ。帰りてえ」
「うん。あ、でもこれから言うこと、藤村くんはもう知ってるかもしれない。もしそうだったらごめんね」
田嶋はのらりくらりとするばかりで、中々次の言葉を吐こうとしない。探るように俺を見るその目つきが、気味悪かった。
「……血の繋がらない兄妹ってさ」
田嶋の発言。兄妹、の部分で、俺は息を止める。
「血の繋がらない兄妹って、君が思ってるほど難しくはないよ」
全身が強張って、神経が研ぎ澄まされる。埃くささや外から聞こえてくるヘリコプターの音や何やらが、一気にどんと俺に押し寄せた。
「結婚だって、法律で許されてる。兄妹だけど、禁断の関係なんかじゃない」
心臓が何かに掴まれて、握り潰されてしまうんじゃないかと思うくらい強く鈍く痛んだ。思わず、胸の辺りを押さえてしまう。
「な、に言ってんだよ、お前」
「あれ、意味分からなかった? だったらもう一度、」
「言わなくていい!」
俺が叫ぶと、田嶋は口角を吊り上げた。俺の反応を楽しんでいるのだと、直感的に悟った。
「それを俺に言ってどうするつもりだ」
「どうするって、僕は別にどうもしないよ。君の問題でしょ? 君の、さ」
そう言って、田嶋はふっと腕を組み、俺を見据えた。
「君、藤村さんのこと好きなんでしょ。妹じゃなくて、女の子として」
血の気が引くとはこういうことなのか、と。目の前が真っ暗になるとはこういうことなのだ、と、思い知らされた。脚が震えているのが分かって、そんな自分の不気味さに肌が粟立つ。
とにかく何か言い返さねばと、声に動揺が表れないように一度つばを呑み込んでから、口を開いた。
「そんなわけ、ねえだろ。ふざけんのも大概にしろよ」
「別にふざけてるつもりないんだけど」
険のある声で否定され、言葉につまる。下を向いていると、田嶋がこれみよがしな溜息を吐いた。
「君、分かりやすすぎだよ。あんなあからさまな嫉妬見せつけられて、気付かない人間がいると思ってる?」
「…………」
「ま、でもいいじゃない。君ならイケるよ。藤村さんだって君のことが大好きなんだから」
田嶋は、声に出してふふっと笑った。頭の中が白くノイズを立てて、沸騰する。拳が震えて、背中が寒い。
「はっきり言っちゃいなよ。女として好きだって。愛してるって」
気が付くと俺は、田嶋の襟元を掴んで壁に押しつけていた。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ!」
田嶋はすぐに笑みを消して、ただじっと俺を見つめた。うろたえた様子もなく抵抗も見せない田嶋に対して、怒りは込み上げるばかりだった。
「ふざけたこと? 心外だな。僕は君の力になろうとしてるだけじゃないか」
「いらねんだよそんなもの、」
「それとも君はなに、告白する勇気もないの?」
俺を見下したような目線と声色。田嶋の態度は、どこまでも俺の神経を逆撫でした。
「てめえに何が分かんだよ」
「うん、何も分からないよ。だって僕は妹を好きになったことないし」
そう言ったと田嶋は、俺の手を振り放した。支えを失って一瞬間宙を彷徨った腕は、だらりと下ろされるしかなかった。
「さっきも言ったけど、血の繋がらない兄妹の恋愛は許されてる。怖気づく必要がどこにあるの?」
怖気づいてるわけじゃない。美香を思えばこんな気持ち、打ち明けられるはずがない。困らせ、傷付けるだけなことは分かりきっているのだから。
「許されてるとか許されてねえとか、そんなの関係ねえんだよ」
「じゃあなんで、」
「言えるわけねえだろ!?」
田嶋は、意味が分からない、とでも言いたげに眉をひそめていた。
「法律がどうとかなんてどうでもいい。そんなこと関係ねえ。許されてるからって、ほいほい告白できるわけねえだろ」
ついこの間まで普通の、兄妹だった。それなのに突然、好きだなんて言われたら、どうする? 美香はどう思う?
本当の兄妹じゃないから、許されてるから気兼ねを捨てて迫るなんて、そんなことができんのは本やドラマの世界でだけだ。現実は、違う。もっともっと考えなくちゃいけないことがある。拒絶された時どうするかとか、受け入れられたとしても他の家族にはどう伝えればいいのかとか。
……いや、受け入れられる可能性なんて万に一つもない。兄妹が想い合うなんてそんなの、奇跡に近い確率だ。
「そうは言っても、伝えなきゃ何も始まらないじゃないか。もしかしたら両想いになれるかもしれないのに」
「なれるわけねえだろ」
「なんで言いきれるの」
「分かんだよ! 俺があいつと何年一緒にいると思ってんだ!」
美香は、なんの躊躇いもなく俺に触れる。なんの疑問も持たず俺の部屋に入って、他の奴らに向けるような笑顔を、俺に向ける。
一番近くて一番遠い、なんて使い古された言葉があるが、あれはきっと、真理だ。
「……気持ちすら伝えられない意気地なしでも、立派に嫉妬はするんだね」
「てめっ、」
「言っとくけどさ!」
突然田嶋に肩を掴まれて、壁に押さえつけられた。田嶋は鋭い目つきで、俺を見下ろす。
「藤村美香はあんたが思ってる以上の存在だからね」
声遣いを変えて、田嶋はそう言い放った。感情的になる田嶋の姿は終業式のあの日を彷彿とさせて、図らずも怯んでしまう。
「日の当たる場所に生きるあんたには分からないだろうけど、世の中にはあんたとはまるで正反対な、日陰を生きる人間だっているんだよ」
「…………」
突然何を言い出すんだ、なんて抗議の言葉をぶつけられるような状況ではなかった。
「そういう人間はすぐ誰にも相手にされなくなって、世間から淘汰される。そうなるとそんな奴を気にかける人間なんてますますいなくなる」
田嶋が俺の肩を掴む指先に、ぐっと力を加えた。
「……でも、藤村美香は違った。そんな下らない奴らにも声をかけてた。返答がなくても無理強いはしないで、笑いかけてた」
田嶋はそこで俯いて、俺を解放した。痛みが離れ、俺は息を吐き出す。
「いつだって光を浴びてるような人間なのに。一々気にしなきゃいいのにさ、本当に変わった人間だと思ったよ」
田嶋は美香の、何を見てきたんだろう。俺の知らない部分でさえ、田嶋は理解しているのかもしれない。そう思ったら、怖くなった。俺が一番に美香を理解しているんだという自信を、突き崩されそうだった。
「だからさ、当然勘違いする馬鹿な男も多いんだよ。藤村さんに告白した人間、君なら何人も知ってるんだろうけど、むしろ想いを伝えられないまま彼女を好いてる男の方が多いよ。例えば、図書室にいたような奴らとか」
田嶋は眉間をつねって、「ごめん」と小さく呟いた。
「僕は君に、後悔してほしくないんだ」
違う。田嶋は俺に後悔してほしくないんじゃない。自分が、後悔してるんじゃないか。
お前は本当は、美香を好きだったんじゃないか。
問うても、田嶋は否定するだけだろう。だから俺は何も言わず、少し疲れた様子の田嶋を見ていた。
「僕が君の、スイッチを押しちゃった」
「……は?」
田嶋は後退して、壁に体を凭せた。
「僕が君に、本当の気持ちを気付かせちゃったんだ。僕さえいなかったら、君は今だって藤村さんをそんな目で見てなかったかもしれない」
ごめん。もう一度、田嶋が言った。
「君を追いつめたのは、僕だ」
俺は田嶋に何も言わないまま、身を翻して逃げるように階段を駆け下りた。藤村くん、と僕を呼んだ田嶋を無視して、言い知れぬ嫌悪感でもつれそうになる足を、ひたすらに動かす。
田嶋のせいだ。そう思ったことは、ある。でもいざ本人にそれを言及され謝罪されて、間違いだ、と分かった。俺は俺自身で、俺を追いつめた。俺は田嶋がいなくても、美香を好きになっていた。頭の中で何度も何度も裸に剥いて犯すような後ろ暗い欲望を、美香に向けていた。
いつからだ。いつから俺は、美香を穢していたんだ。
自分が恐ろしくて、逃げたくて、ただ走った。
*
「もうすぐゴールデンウィークだね」
夕食の最中、美香が言った。俺の正面にいる美香はいつもと変わらない顔をしていて、テーブルに並ぶ料理はいつもと変わらない、味だ。
「どこか遊びに行きたいなって思ってたけど、海斗は部活があるし難しいよね」
家族で過ごす時間。美香はそれを、とても大事にしている。
「明けたら陸の誕生日だし、楽しみ」
「……そういえば、そうだな」
「ふふ、忘れてたの?」
くすくすと口元を押さえて笑う美香から、目をそらした。こんな邪気のない笑顔を浮かべる奴を、俺は。
「そうだ、何か食べたいものとかある? 私が作れる範囲でになっちゃうけど、何でも言って」
以前までの俺なら「エビフライ」と即答しただろう。でももう、そんなものいらない、と思う。その代わりに俺が願うものは、絶対口にできない。
返答しないでいた俺に、美香は少し寂しそうな顔をした。
「特にない、かな? それなら私が考えておくね」
「…………」
「あ、連休中は誰かと出かけたりするの? 広井くんたちとか、彼女さんとか」
つい、箸が止まってしまった。サラダに伸ばしかけた手を、下ろす。
「彼女なんていねえよ。別れた」
そう告白すると、美香は目をじわじわと見開いた。驚いたように、大きな瞳で俺を見つめている。
お前のせいだ、と思考しかける自分を、必死に律した。違う、俺のせいだ。俺がお前を、間違ったやり方で見ているから。
「……ごめんなさい」
違う。謝らなきゃいけないのは、お前じゃない。
「そ、そうだ。誕生日プレゼントに欲しいものとかあるかな? 色々考えたんだけど、陸に聞くのが一番早いかなって」
場を取り繕うように、美香はわざと話題を変えた。それは全然自然なものではなくて、なんとか俺の機嫌を取ろうとしているのがよく分かる。美香にそんなことをさせている自分が情けなくて、イライラして、唇を噛んだ。
「……黙れ」
ああ、だめだ。頭の端っこで気付いたのに、俺の口は苛立ちに任せて勝手に動いてしまっていた。
「いっつも一人でべらべらしゃべりやがってウゼんだよ。お前からなんて何も欲しくない。いらねえよ」
美香の顔が強張る。口元が少し、震えていた。俯いて、絞り出すように言う。
「そう、だよね。ごめんね、いつもいつも」
「だからそれがウゼえって言ってんだろ!」
なんで謝んだよ。意味分かんねえよ。俺がお前を汚したのが、悪いのに。
叩きつけるように箸と茶碗を置いて、リビングを出た。ほとんど同時に玄関のドアも開いて、海斗が帰ってくる。
「お、兄貴。ただいま」
「…………」
「ん? どうした?」
家に上がってくる海斗の横を通り過ぎて、階段を上る。しばらくすると扉が閉まる音がして、海斗がリビングに入ったのだと気付いた。
今、美香と海斗は二人きりでいる。そう考えると、また湧き上がる嫉妬心のような、どす黒い感情。
血が出るくらい、俺は唇を噛んだ。




