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僕が君を求めても  作者: 麻柚
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穏やかな夜

 その夜。美香と、二人きりの夕食。

 最近の夕食は海斗が部活でいつも九時頃に帰宅するようになったため、二人きりになる。近頃の俺たちが、唯一きちんと顔を合わせる時間。


「陸、田嶋くんと仲いいの?」


 美香が不意に、そう尋ねた。昼間見た光景を踏まえて言っているのだと、すぐに分かった。


「別に」

「……そっか」


 そしてまた長く、沈黙が広がる。

 いつも、こうだ。美香はなんとかこの空気を破ろうとしてくれるのに、俺がそれに応じきれない。目を真っ直ぐに見ることができなくて、かちゃ、と皿と箸がぶつかり合う音だけが響く。夕食はコロッケだった。


「美香」

「陸」


 ほとんど同時に、お互いの名前を呼んでいた。驚いて、顔を見合わせる。


「どうしたの?」

「お前こそ。なんだよ」

「陸から言っていいよ」

「お前から言え」


 譲り合うようなやり取りを交わしたあと、先に負けたのは美香で、少し笑ってから話し出した。


「広井くんって面白いね」

「は? あいつ、何かやらかしたのかよ」

「ううん。そうじゃないけど、なんとなく」


 なんとなく面白いって、褒めてるうちに入るんだろうか。よく分からない。


「それに凄く一生懸命で。同じクラスになって、もっと広井くんのこと知れてよかった」

「……ふうん」


 悠太が聞いたら、飛び上がって喜ぶだろうな。美香ちゃんは天使だ、とか言って。大好き、とも言うだろうか。

 胸が痛む。今までずっとなんだかんだ悠太を見守ってきたのに、俺はもう悠太にも、誰にも、美香を渡したくない。


「陸は何を話そうとしてくれたの?」

「忘れた」

「ええっ?」


 美香がくすくすと笑う。

 本当は忘れたんではなく、そもそも何を話そうか考えていなかったのだ。ただ気付いたら、美香の名前を呼んでいた。自分でも意味分かんねえけど。


「お前はどうなんだよ」


 笑われているのがなんだか気恥ずかしく、俺はふと思い付いた話題を提示した。


「新しいクラスで上手くやれてんのか」


 そう言うと、美香は少し苦笑して俺から視線をそらした。


「うん。一年生の頃からの友達で一緒になれた子もいるし、大丈夫。心配かけてごめんね」


 高一に成り立ての頃、美香はクラスの女子に上手く馴染めていなかったらしい。でも美香は決して、俺に相談したり弱音を吐いたりはしなかった。らしい、というのも、噂で聞いただけだったからだ。

 敵を作りやすいくせに、なんでも一人で抱え込もうとする。そんな力ないくせに、自分だけで解決しようとする。だから俺も、なんだか目を離せないでいた。


「別に。ごちそうさん」


 立ち上がり食卓を離れれば、俺たちの会話はそこで終わる。また、明日のこの時間まで言葉を交わすことはない。

 食器を洗う俺の横顔を、美香が毎回目を細めて見つめていることにも、以前から気付いていた。それでも俺はそっちを向けない。気付かないふりを続けるのだ。


「風呂入る」

「うん。おやすみ」


 リビングを出ていく俺を、美香はいつも何か言いたげに見送る。俺はそれにも、気付かないふりをしていた。

 何故自分を避けるのか。目を合わせないのか。美香は、俺にそう問いかけたいに違いない。でもあの時――俺が美香を部屋の外に突き飛ばしたあの時みたいになるのが怖いから、突き放されるのが怖いから、美香は問うことができないのだ。

 分かってる。あいつの考えることは何もかも。美香のことは俺が一番、分かってるから。

 俺は美香のことをずっと見てきた。この先もずっと、見ていく、きっと。


「陸」


 薄暗い廊下にふっと光の線が走った。振り返ると、美香がリビングのドアを開けて此方を見ていた。


「お風呂場に新しい石鹸、出しておいてくれる?」

「……分かった」

「ありがとう」


 美香はそう微笑んで、またリビングの奥へと消えていった。ドアが閉じられる瞬間の音が耳に強く響く。美香へと続く道を、完全に隔てられてしまったかのような感覚がした。

 きっと、報われることはない。それでも、新井を傷付けてまで選んだこの道は、正しかったんだろうか。

 分からない。ただただ俺は、美香が愛しいと感じている。それだけは、確かなのだ。


 *


「兄貴、ちょっといいか?」


 部屋で悠太と意味のないメールのやり取りをしていた時、海斗の声が聞こえた。ノックをしながらそう問いかけてきた海斗だったが、俺が返答する前に部屋へと入ってきた。


「どうした?」

「いや、単刀直入に言うけどさ」


 立ったままで、海斗は言う。


「いい加減姉貴と仲直りしろよ」


 まだスマホに目を落としていた俺は、その言葉でやっと顔を上げて海斗を見た。


「いや、どんな喧嘩したかなんて知んねえけどさ。姉貴も教えてくんねえし。でも今回はちょっと長すぎね?」


 普段の俺たちの喧嘩(といっても、大体俺が一方的にキレてるだけ)は、続いても一週間くらいだ。それが、今回はもうかれこれ数週間は続いている。海斗が不思議に思うのも無理なかった。


「それに、最近の兄貴なんかおかしいし」

「おかしい?」

「姉貴のこと避けてるだろ?」


 反論したいが、言葉が見つからない。避けているのは確かな事実だからだ。

 でも、避ける以外に美香との接し方が分からない。自分から異性を好きになるなんて随分久し振りだし、その上、それが妹だなんて。


「とにかく仲直りしてくんねえとさ、俺もやり辛いし」

「……分かったよ」

「分かったならいい。じゃっ」


 そう言って海斗は、ニヤと笑って座り込んだ。俺が眉をひそめると、海斗はポケットからゲーム機を取り出す。


「やろうぜ!」

「はあ?」

「受験でこの一年全然出来てなかっただろ? 久々に燃えるっ」


 海斗は俺に有無を言わさずゲーム機を放った。溜息を吐いて、仕方なく電源を入れる。

 海斗はゲームが好きで、中でも対戦型のものを好んでいる。普段は友達を連れてやっているようだが、たまにこうして俺も付き合わされるのだ。


「あ、お前! 変な妨害仕掛けてくんなっ」

「ぶは、兄貴引っかかりすぎだろ!」


 海斗の仕掛けたトラップにかかり、思わずボタンを何度も乱暴に押してしまう。これだからゲームは好きじゃないんだ。本当にイライラさせられる。

 カーレース形式のそのゲームは、単純なレース勝負だけでなく様々にトラップなどを仕掛けることができる。海斗はそれを繰り出すタイミングが巧みで、俺のテクニックでは到底避けられない。俺を遥か後方に置き去りにしたまま、海斗はゴールを決めた。


「ほんっと兄貴ってゲーム下手くそだよなあ」

「うるせ、お前みたいにゲーマーじゃねえんだよ」

「だからって下手くそすぎ!」

「……だったらやめるぞ」

「ああもう、すぐすねる」

「すねてねえ!」


 もう一度やるか、という海斗の提案を断り、ゲーム機を押し返した。不満そうに唇を尖らせ、海斗は一人でプレイを始める。俺がベッドに横たわるのに見向きもしないで、海斗は夢中だ。

 携帯を操作していると、海斗がゲーム画面から目を離さず此方まで歩いてきた。ベッドに寄りかかりプレイを続けていたが、よし、と言って俺に画面を見せつけてくる。


「最短クリア」

「……だからなんだよ」

「兄貴にはできねえだろ?」

「うるせえ、自慢すんなっ」


 ケラケラと笑う海斗を睨んでやるが、当の本人は全く動じていない。


「なあ兄貴、肩揉んで肩。最近肩が重くてさ」

「はあ? なんで俺が」

「さっき負けただろ。罰ゲームってことで」


 仕方なく、ベッドに座ったまま海斗の肩に手をかけて揉んでやる。超進学校と部活の両立は確かにヘビーなことだろう、と思って。力を込めてやると、海斗は小さく唸っていた。


「お前部活で上手くやれてんの?」

「おう。友達もできたし、先輩もコーチも優しいぜ。ま、練習中は厳しいけど」

「今度試合でも観に行くか」

「……マジ?」


 どこか嫌そうに海斗が俺を見上げる。俺はその頭を軽く叩いてやった。


「なんだよその目」

「だって兄貴、絶対文句言うだろ。あれが駄目だこれが駄目だって」

「文句じゃねえよ。アドバイスだ」

「いや、あれはただの文句だからマジで」


 そう言って海斗が語り出したのは、俺たちが中学の頃の話だった。

 当時海斗が所属していたサッカー部の練習試合を観に行った時。俺は失点を繰り返す海斗たちをやきもきしながら見守っていたものの、結局海斗たちが負けてしまった。その後で問題点を指摘しアドバイスしてやったのだが、海斗に言わせればそれが文句に聞こえたらしい。


「はは、でもあの時は楽しかったな。母さんたちに許可取って兄貴と姉貴と、帰りにファミレス寄ってさ」

「そういや、そうだったな」

「あ、また姉貴と来るならいいぜ。兄貴だけでは来るな」

「なんだよそれ」

「姉貴がいねえと兄貴のなだめ役がいなくなるからさ」

「俺は幼児かよ」

「似たようなもんじゃね?」


 自分で言って大笑いする海斗の頭に、今度は拳を一発入れてやった。それでも海斗は反省したそぶりを見せず、俺に振り向いて笑う。


「でもさっ、姉貴と仲直りしたら本当に来いよ」


 邪気のない笑顔に圧倒され、俺は目をそらして、曖昧に頷いた。仲直り。そんなの、できそうにない。自分の抱える感情が怒りとか憎しみとかじゃないからこそ、発散させようがなくてイライラして、また美香を困らせる。


「部活で姉貴のこと話したら友達も先輩も食いついてきてさ、一回会わせろってうるさいんだよなあ」

「……なんで話すんだよ」

「え? いや、弁当は姉貴が作ってるんだって友達に言ったらいつの間にか先輩にまで広まってて。女子高生の手作り弁当羨ましいーって」

「それだけなら別に会わせる必要ねえだろ」

 俺の知らないところで、俺の知らない男と美香が繋がりを持つのは、やっぱり穏やかじゃない。美香にその気がなくても、相手がどう思うかは分からないんだから。

「なになに、兄貴嫉妬してんの?」

「はっ⁉︎」


 突如飛び出した嫉妬という単語に、図らずも反応してしまう。


「別に強がらなくていいんだぜ? 兄貴が姉貴を大好きなのは知ってるし」

「大好きじゃねーよ!」

「姉貴に彼氏できたら相手方に殴り込みに行きそうだし」

「……俺は頑固親父か」


 海斗は何もかも冗談で言ってるんだと、分かってはいる。それでも、「大好き」なんて言葉には反応してしまうんだから情けない。


「でもさ、マジで姉貴に彼氏できたらどうする?」


 思いがけず挑戦的な海斗の口調と目に、動揺した。

 美香に彼氏ができたらそれを応援する、と言いきれるほど、俺は大人じゃない。


「ムカつく」


 きっと海斗の言ったように、嫉妬、してしまうだろうし、我慢ならずに告白して美香を惑わせてしまうかもしれない。本当のところはその時にならないと分からない、というのが実際だ。


「……へ?」


 海斗が、ポカンとして俺を見つめた。その表情にハッとして、俺は初めて自分が口走ってしまった言葉を意識する。


「じょ、冗談だぜ?」

「ばっ、お、俺だって冗談だっつの!」

「なんだよびっくりしたな。兄貴のシスコン極まりすぎだろって思っちまったよ」


 シスコン。この感情はそんなものから来るんじゃない。海斗には、口が滑っても言えないけど。


「さて、そろそろ寝るか。明日も朝練だし」


 ゲーム機を回収してから海斗は立ち上がる。


「んじゃ」

「……おやすみ」

「ムカつくくらい好きなら早く仲直りしろよな!」

「うるせえよ!」

「おやすみ」


 海斗が出ていくと、火照った頰を鎮めるため枕に顔を埋めた。

 今のように、からかわれるだけならまだいい。でも、海斗は鈍感じゃない。変な発言をすればそれだけで俺の気持ちを感づかれてしまうことだって、ないとは言えないのだ。

 気を付けなければ。海斗を苦しめるわけにはいかない。


「彼氏なんか、作るなよ」


 美香は、どんな男を好きになるのだろうか。いっそのこと俺が敵わないと思ってしまうくらい完璧な人間だったらいいのかもしれない。むしろそれぐらいでないと、潔く身を引くことなんてできない気がする。

 こんなことになるなら、もっともっと、美香のことを知っておくべきだった。


「……好きだ」


 好きだ、本当に。でも俺は、兄貴で。妹に手を出す、なんてこと、できない。

 だったらこの感情は、どうすりゃいいっていうんだ。

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