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僕が君を求めても  作者: 麻柚
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別れ、再出発

 次の日も、そのまた次の日も、俺の心が晴れることはなかった。

 俺は、以前にも増して美香を避けるようになった。朝、美香より早く家を出て、夕方はバイトだと理由をつけ遅くに帰宅する。なるべく美香を見ないで済むように、一緒にいないで済むように。美香は、もう俺に理由を問い質そうとしてはこなかった。

 昼休みは専ら食堂へ行くことが多くなった。弁当を持って来なくなった俺に俊也は不満げだが、喧嘩中だからと言って無理矢理納得させている。


「ぶぇくしっ! うえ、やべえな花粉」


 母親の弁当を突きながら、悠太は鼻を擦った。

 悠太とはまだ昼飯をともにすることが多い。断じて新しいクラスに友達がいないわけじゃねえかんな、と悠太は言い張っている。


「悠太、くしゃみすんなら口くらい押さえろ。食事中だぞ」

「へいへい、俊也は俺の母ちゃんかよ」


 溜息を吐く俊也など気にも留めないで、悠太はもくもくと弁当を食べていた。


「花粉症持ちじゃねえやつにな、花粉症持ちの苦しみは分かんねんだよ」

「そうだよね、広井くん」


 悠太がぴたりと箸を止める。そして、心底嫌そうな目で先程の発言主を睨んだ。


「つーかなんで田嶋がここにいんだよ!」

「やだな、君たちと友達になりたいからに決まってるじゃない」

「俺はなりたくねえ!」


 机を叩く悠太だが、田嶋は素知らぬ顔だ。鯖の味噌煮定食を小綺麗に食べている。和食が好きなのだろうか、田嶋は毎回中々に渋いメニューを選んでいるのだった。


「花粉症持ち仲間としてよろしく、広井くん」

「嬉しくねえし。どんな仲間だよ」


 口論(というかじゃれ合いというか)を繰り広げる二人を無視して、俊也はカキフライ定食を、俺はカレーをもくもくと口に運んでいた。


「最近田嶋が一緒にいるせいで以前にも増して女の子の視線を感じるんだけど」

「まあそれは仕方ないよ。僕も藤村くんも、そのつもりはないのに注目を浴びちゃうんだから」

「……お前、ほんとムッカつくな」


 げんなりとした様子の悠太は、食欲なくしたと言って弁当箱の蓋を閉めた。それを俊也が、残さず食べろと注意している。

 悠太ではないが、確かに視線を感じることが多くなったと思う。どこへ行くにしたって、田嶋がやたらと俺たちについてくるのだ。友達になりたいらしいが、その言葉にどんな真意があるのかは不明だ。


「安心しろ悠太。誰もお前には注目してねえから」

「俊也ァ! それを言うならお前もだからな、くそっ」

「前から思ってたけど君たち面白いよね。お笑いコンビでも組んだら?」


 入口に近い席を確保してしまったせいが、足元を流れていく空気が少し冷たい。俺はカレーの、最後の一口を飲み下した。


「ところで藤村くん。最近口数が少ないけど、何かあったの?」


 唐突に、田嶋が俺に振ってきた。俺は飲みかけた水を置いて、言う。


「別になんもねえよ」

「なんでもないことないだろう。お前が早く藤村と和解してくれないと、俺が飯食えないんだけど」


 田嶋でなく俊也に、自分本意な指摘を入れられた。藤村、という単語を聞いた瞬間、僅かだが田嶋の目つきが変わった気がした。


「どうせ陸が悪いんだろ。早く美香ちゃんに謝れよ」

「うるせえな、決めつけんな」


 俺が悪い。正にその通りなのが、余計にムカつく。

 俺が悪いのだ。美香に――妹に、変な感情を持ち合わせた俺が。


「藤村さんてさ、また告白されてたらしいね」


 俺を横目で見ながら、田嶋が言った。


「は、マジかよ! 今度は誰だ?」

「三年生。野球部の副部長らしいよ」

「先輩かよ! ……つうか田嶋、お前詳しいな」

「バスケ部のみんなはそういう噂話が好きでね。僕もよく餌食になってるよ」


 野球部、副部長、先輩。そんなやつが、美香と一度でも話したことがあったのか?

 美香のことを何も知らないくせに、美香を見るな。簡単に想いを伝えようとするな。美香は、お前なんて選ばない。


「なあ、ぶっちゃけ田嶋と陸ってどっちがモテんの?」

「さあどうだろうね。藤村くんはどう思う?」

「知らねえしどうでもいい」


 イライラする。顔も見たことない野球部副部長にも、分かりやすく傷ついたような顔を見せつける美香にも、何より、自分に。


「……なーんか、最近の陸ノリ悪ィよな」

「とにかく早く藤村と仲直りしろ。陸の精神安定のためにも、俺の弁当のためにも」

「小峰くんて意外と自分勝手だよね」

「あ、田嶋も分かるか? やっぱそうだよな、そう思うよな」


 俺を置いたまま、悠太たちは三人で盛り上がっている。俺は断りもせずに立ち上がって、食器を返却し食堂を出た。北校舎から南校舎に戻って階段を上り、二年の教室が並ぶ二階を歩く。

 昼休みは教室や食堂に籠るやつ、部活の自主練をするやつ、図書室に行くやつなど様々で、廊下をうろついているやつは案外少ない。どこからか響いてくるきゃあきゃあという悲鳴が、耳の奥で鳴る。

 ふと、前方から此方へ歩いてくる影が見える。美香、だった。

 俺に気付いた美香が、その場で足を止めた。黒い髪に、窓から昼の陽光が射す。俺は目を合わせられなくて、顔を背けてすれ違おうとした。一歩一歩、進むたびに美香に近付いていく。鼓動が強烈に打つ。

 やめろ、やめろ。俺を見るな。


「――陸」


 すれ違った瞬間、美香は俺の名前を呼んだ。でも俺が美香に振り向くことはなかった。振り向いたら、何か話したら、きっとまた心ない言葉で美香を傷付けてしまうだろうと、分かっていたから。


「あ、藤村さん。久しぶりだね」


 だが思いがけずそんな声が聞こえて、俺は振り返ってしまった。落ち着いた様子の田嶋は美香に笑顔を振りまいて、やたら近しく「元気だった?」なんて尋ねている。


「田嶋!」


 叫ぶと、田嶋は軽く手を上げて美香から離れ、此方へ歩いてきた。美香は俺を一瞥して、自分の教室へと消えていった。


「なに、藤村くん」

「美香に近付くなって言ってんだろ」

「なんで? 藤村さんは別に嫌がってないし、いいじゃない」


 田嶋の発言は、間違っていなかった。確かに美香は田嶋を拒んでいないどころか、むしろ受け入れている。それに一々目くじらを立てる俺の方がおかしいのだ。

 俺は唇を噛みしめた。そんなこと、頭では分かってる。でも感情が、許せない。


「……藤村くん。ちょっと余裕ないんじゃない?」


 返す言葉を見つけられずにいた俺に放った田嶋の言葉に、俺はカッとなってやつの襟首に掴みかかっていた。廊下の真ん中で、白昼堂々。


「うるせえ!」


 余裕がない、なんて、わざわざお前に言われなくても自覚している。自分が滑稽に思えるくらい必死になってしまうんだ。美香を誰かに盗られるかもしれない、と考えるだけで。


「お、おいどうした?」


 遅れてやって来て俺たちの姿を見つけた悠太と俊也が駆け寄ってくる。俺はハッとして、突き放すように田嶋を解放した。


「なんでもないよ。藤村くんに、陸くんって呼んでもいいかって聞いたらちょっと怒られちゃっただけだ」

「田嶋お前それはキモいわ」

「あはは。広井くんにだけはキモいなんて言われたくないよね」

「……おいなんだそれ。どーゆー意味だよ!」


 今日何度目かの悠太と田嶋の応酬が始まり、俺は頭を掻いてその場を離れた。俊也がついてくる。


「大丈夫か、陸?」


 何が、と思ったけど口には出さない。色んなことに対して、だろう。俺は俊也の気遣いに小さく礼を言って、教室へ入った。


 *


 新井の部屋の中。

 俺たちはベッドの上にいて、俺は新井を脚の間に置いて後ろから抱きしめている。その状態で、陸、と呼びながら、新井は俺の心音を聞くように耳をべったりと胸に付けていた。


「寂しいなあ、陸とクラス離れちゃったし。陸は寂しくない?」


 どんな風に答えれば新井が喜ぶか、俺は分かるからその通りにして言う。それが嘘か本当かは別として。


「寂しいに決まってんじゃん」

「やっぱり? 嬉しい!」


 そう言って心底嬉しそうに笑う新井を見て、後ろめたさが募った。やっぱり俺の言葉は、嘘だったのかもしれない。


「ねえねえ陸、藤村さんが野球部の先輩に告られた話知ってる?」


 一瞬、間を置いて頷いた。


「その先輩ね、噂では断られても諦め悪くて、藤村さんの肩掴んだり手握ったりして迫ったらしいよ。もう超キモくなあい?」


 肩を、手を。俺の知らない男が、美香に触れたというのか。

 自然に、歯を噛んでいた。美香に触れることが許されるのは俺だけだ。その権利を他の人間に渡すつもりは毛頭ない。


「そんなやつに好かれるくらいならそこまでモテなくてもいいよねえ、って、陸はモテるけど」

「…………」

「まあ陸はあたしの彼氏だけどさ」


 触れる権利?

 俺にそんなものはない。俺は美香の兄貴なのだ。兄貴が「妹に触れたい」と考えるのは自然なことじゃない。分かってる、分かってんだよそんなこと。

 相反する二つの思いが胸の中で互いに膨らみ、張り裂けそうになる。息をすることすらままならないほどに。

 もう、嫌だ。


「あ。あたしシャワー浴びてくるね」


 立ち上がろうとした新井の腕を無意識に強く引き、そのまま口付けた。


「――りっ……」


 何か口にしようとする新井の唇を頑なに塞ぐ。中腰になっていた新井を、そのままベッドに押し倒した。舌を絡ませながら指先で胸に触れる。

 なあ新井。新井は、美香を忘れさせてくれるか?


「どしたの、激しっ――」

「黙って」


 キスを落としながらパーマのかかった茶髪に指を通すと、香水が匂う。甘ったるい、薔薇の香り。美香とは、違う香りだ。

 ――今は陸がいるから。

 ――それだけで十分幸せだよ。

 いつかの美香の言葉。いつかの、美香の笑顔。

 泣きそうになった。そんな俺の顔を、新井はきょとんとして見つめる。


「……ごめん」


 分かってしまった。

 悠太たちと馬鹿みたいな話をしたって、新井に触れたって。どうしたって、どんな相手とどんなことをしたって、忘れられない。美香のことを忘れられないんだ。もう、認めるしかない。

 俺は、美香のことが。


「別れてくれ」

「へ、」

「別れて、くれないか」


 新井は呆然と俺を見上げていたけど、やがて俺の体を押し退けて起き上がった。


「……はは。待って、意味分かんない」

「ごめん」

「謝ってなんてほしくない!」


 そう叫んで、新井は俺の胸を叩く。そのまま俯いてしまった新井を抱きしめるわけにもいかず、俺はただ見つめていた。新井の体は、震えていた。


「あたし馬鹿だけどさ、鈍感じゃないよ。だから陸があたしのこと好きじゃないのなんて分かってたし」

「…………」


 これまでの彼女と全く同じ台詞を、新井は口にした。俺は眉を寄せて目を閉じて、静かに深く息を吐く。


「だって陸、全然好きだって言ってくんないし。自分から触ってくんないしっ。そんなんで愛されてるなんて思えるわけないじゃん」


 その言葉に、ハッとした。俺はずっと彼女に言われたことをこなすだけで、俺から何かをしてやるなんてほとんどなかった。言いなりになってれば波風を立てなくて済むから、面倒なことにならないから。そう思うばかりで、俺は彼女に何をしてやれるんだろうなんて、考えたこともなかったのだ。


「別にあたしだって最初は、陸のこと顔で選んだし。陸と付き合ったら、それだけでステータスになるから」


 新井はシーツをぐしゃぐしゃに握りしめて、下を向いていた。


「でも、でもさ」


 ふっと顔を上げた新井の瞳は、涙に濡れていた。


「軽い女だと思われてるかもしんないけどっ。いくらなんでも顔だけの相手とキスしたりとか、その先だって……したいなんて思わないよ」


 はたはたと俺の膝に新井の涙が落ちる。俺には、その様子から目を離さずにいることしかできなかった。


「ねえ、なんか言いなよ」

「新井。……ごめん」


 新井を泣かせたいわけじゃない。傷付けたいわけでもない。だけどこんな状態で、新井と付き合っているわけにはいかなくて。


「馬鹿、謝らないでって言ってんのにっ。どうせ最後なら、こっぴどくフってよ」


 涙を拭う新井の頭に恐る恐る手を伸ばして、そっと撫でた。


「ごめん」


 新井は俺の手をどけ、少し距離を置いてベッドの縁に座り直した。


「いいもん。あたしこの前幼馴染に告白されたし。それでちょっと揺らいでたからちょうどいいもん」


 コメントが思いつかなくて、俺はただ「うん」と言った。


「他に好きな人でもいんの?」


 俺の方に向き直ってから、新井はそう問いかけた。完全に肯定することはためらわれて、曖昧に笑う。


「……いるんだ。陸が好きになるってどんな人だろ」


 そんな大袈裟な存在じゃない。いつもそばにいた一番身近な人間で、どんなときもアホみたいにへらへら笑ってて、馬鹿で、でも時節少しだけ、可愛いと感じてしまうような。……妹。


「いいじゃん。陸が告れば誰だってオッケーしてくれるよ」

「告らねえよ。告るつもりもない」

「は、なんで? 彼氏でもいんの?」


 彼氏がいる。ただそれだけだったならどんなによかったか、と思った。もしそうだったとしたら、なりふり構わず奪いにいけただろう。

 でも、そんなことを考えていても現実は変わらない。美香が妹である、という現実は。


「……まあ、そんなとこ」

「はあ? 意味分かんないんだけど。奪っちゃえばいいじゃん」

「そう簡単な話じゃねえんだよ」

「陸ってそんなヘタレだったの? マジ見損なった!」

「見損なったって、」

「だってあたしの彼氏がヘタレだったなんて認めたくないし!」


 そう言って新井は、口の端と端を指で引っ張り俺に歯を見せてくる。やがてその表情は、ゆっくりと柔らかいものへと変化した。


「頑張ってよね」


 一応、俺は頷く。でも心の中では、何をどう頑張ればいいのか分からなくて、苛立っている。今の俺には、とにかくこの歪んだ感情を美香と海斗に、周りの人間に悟らせないようにする。ただそれだけしかやりようがない。


「はいお終い。さ、とっとと帰って。もう他人でしょ」


 言いながら、新井は俺の背中をぐいぐい押して玄関まで導いていった。


「じゃあね」

「……ごめん」

「なに言ってんの? あたし別に振られてないしっ。もっと良い男に乗り換えるだけ」


 新井の笑顔を見て、傷つけてしまったことをもう一度後悔する。俺を好いてくれた人間に対して、俺は本当に何もできないどころか踏みにじるばかりだった。


「あ、待って」


 玄関を出ようとした俺を、不意に新井が引き止めた。振り返ると、少し照れたような顔の新井がそこにいる。


「あたし、まだ陸に名前呼んでもらってないんだけどなあ」

「新井の名前? なんだっけか」

「え、まさかあたしの名前知らなかったわけ!? 最っ低!」


 勝手に出てって、と言い踵を返してしまった新井の後ろ姿。それに微笑みながら、そっと呟いた。


「……綾芽(あやめ)


 足を止めて再び俺に顔を向けた新井は、先程より更に頰を赤くしていた。


「なにやっすいドラマみたいなことしてんの? キモいから! 馬っ鹿じゃないのおっ」


 階段を駆け上がってしまった新井に小さく頭を下げてから、俺は新井の家を出た。

 これで俺はもう、逃げられない。

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