夢?それとも・・・。
扉を開け中に入ってしまった明人は、自分の迂闊さを責める暇もなく凍りついた。
その空間には何もなかった家具などがなく、閑散としているという意味ではない。
物質も色もなければ、先ほどまで聞こえていた街の喧騒すらも消失していた。
静寂ではなく無音。漆黒ではなく闇。ただそれだけが空間を支配していた。
喉元にせりあがってくる悲鳴を何とか噛み殺し、後ろ手に自分が開けた扉を探す。
「!?」
しかしそこには何も存在していなかった。
「嘘だろ!俺が今開けたんだぞ?・・・嘘だろ。俺が今開けたんだぞ。」
パニックになり叫んでしまった明人に、後方から鋭い声が降ってきた。
「当たり前でしょ。違う空間なんだから。」
弾かれたように振り返った明人は目を疑った。
闇の中にぽっかりと現れた少女は、白いワンピースに裸足。胸元の赤いリボンが印象的で、漆黒の髪にオリエントブルーの瞳。その眼が真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。
***
「浮いてる・・・。」
呟く声に被せるように、ヒステリックな少女の声が明人の声をかき消す。
「あんた当たり前みたいに入ってきて何言ってんの!?どこに地面があるのよ?そもそもどうやって入ってきたの?・・・てゆうかさっき同じこと2回言ったわよ。」
「!!」
慌てて足で地面を擦ろうとしたが何もない。
驚愕、困惑、懇願を器用に眼で表現して、少女の視線を受け止める。この空間に足を踏み入れたときに自分で(何もない空間だ。)と思ったことなど、とうに忘れていた。
少女が酷薄な微笑を浮かべたとき、一切の予備動作なくいきなり消えた。
「あなた何も知らないで来たの?だとしたら可哀想ね。」
闇に木霊する美声とともに、明人を殺気が包み込む。まるで四方八方から剣先を押し当てられているような感覚。
痺れる思考に渇を入れ、指一本動かせないまま言葉を搾り出す。
「お前は何だ?」
震える唇を上手く隠せただろうか?いや、無理だっただろう。
ハハハ・・・という笑い声とともに紡がれる美声。
「何者と訊かないところが素敵ね。でも質問は私がするわ。あなたはただ答えればいいの。」
この空間の支配者は質問されるのが嫌いらしい。素直にこくりとうなずくと、すぐさま直球の質問が投下された。
「あなたの目的は何?」
ごくりと唾を飲み込む音がやけに響いた気がした。
その問いに言葉を詰まらせる・・・が、本当のことを告げることにした。
「お前を誘拐することだ。」
辺りに笑い声が木霊する。相変わらずの美声だ。
「ロリコンなの?」
予想外の言葉に少しむっとしながらも、おくびにも態度には出さずに簡潔に答える。
「仕事だ。」
急速に周りの温度が下がる―ように感じた―。
「誰に頼まれたの?」
醜悪な魔女に耳を舐められたようなイメージが、明人の頭と精神を揺さぶる。今までの美声が嘘のように、狂気を含んだ声に早変わる。
「知らない。」
そっけなく答える。
「もう一度訊く依頼人は誰?答えないとあなたの首・・・ねじ切るわよ。」
肌が粟立つ。見えざる何かが、明人の頭を乱暴に掴む。
明人はすでに死を覚悟している。しかし、死にたいわけでは断じてない。むしろ、死にたくないと強く願っている。
駆け引きではなく本当に知らないのだ。
依頼は電子メールですむ。
金は完全前払い。信用の賜物だ。故にお互いの素性は一切知らない。
確かに依頼人に興味はあった。しかし依頼人を探るにしろ、それは仕事を終えた後の話だ。
少女にそう告げると-声が震えないよう細心の注意を払いながら-意外な言葉が返ってきた。
「あなたのお名前は?」
先ほどまでの狂気と殺気を引っ込ませ、元の美声で唄うように紡がれる言葉。
内心眉を顰めながら、少しぶっきらぼうに答える。
「北田明人。」
「私の名前は紫音。よろしくね、あ・き・と。」
声色の変化もさらっと受け流し、からかうように投げかけられる言葉。
さすがの明人も、顔が目に見えて歪む。殺気が消えたことで少し気が緩んだのもあったのだろう。
「何がよろしくだ?俺を殺すまでよろしくってか!?小娘が笑わせる。」
吐き捨てるように・・・諦めるように怒鳴る。
「何を怒っているの?この状況はあんたの自業自得でしょ!?スイーパーが聞いて呆れるわ。」
矢継ぎ早に放たれる言葉に肝を冷やしながら、ある違和感に思い至る。
「だいたいね、小娘ですって?失礼ね。こっちはあんたより年上なのよ!年長者を敬いなさい。この糞ガキが!」
相変わらずの美声だが言葉づかいが・・・うん。
そんな思考にはかまわず、先ほどからの違和感を口にする。
「ちょっとまて!?俺スイーパーって言ったか?お前の方が年上!?お前15歳だろ?そもそも俺の年を・・・。」
「うるさい。」
無慈悲な言葉が被せられ、見えざる何かに引っ叩かれる。
「質問が多いし、そもそも質問を許可してない。調子にのるな糞ガキ。」
「どうせ殺すんだろ・・・。」
小声でささやかな抵抗を試みる。・・・痛む頭をおさえながら。
「生かしてあげるから私に従いなさい。」
驚愕のまなざしを叩きつけながら叫ぶ。
「何故だ!!?俺はお前を拐かそうとしたんだぞ!?俺を生かす意味などないはずだ!」
少女はカラカラと笑った。
「あるから言ってるの。」