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散華

作者: 浅色

艶桜

今宵も憂う

舞い夜と



「……はぁ」


 思わず溜息が洩れる。

 自分の文才の無さか、見事なまでの大樹の安心感か。

 きっとどちらもだろうと思い、見上げた。

 澄み切ったまでの青。

 雲一つ無い晴天の内側に、桃色に色づいた遮蔽物が視界に入る。

 か細い腕を幾重にも伸ばし、その頭を垂れていた。

 伸ばした先には五枚もの花の装いを実らせ、仄かに鼻孔をくすぐる甘い香りが漂う。

 遠目にみた艶やかな姿とは想像できないほど、背を預けた幹は逞しく、そして暖かかった。

 戦乱の世に赦された憂鬱。

 それがこの僅かな句だったとしても、思った以上に言葉を紡げないもどかしさに苛立ちを覚える。

 太陽の光を遮るかのように、顔の前に手をかざした。

 陽光に照らされた漆黒の髪を後ろで束ねている。

 白を基調とした麻の野袴を右衽うじんに合わせ、浅緑色の帯を締めている。広袖からはやや頼りない細腕が覗く。

 少し大きめの袴を穿いた少年は、十四年の歳を迎えた頃にしては柔らかな女性のような面影を移していた。

 母親似だとよくいわれるが、年頃の男の子にはあまり愉快な話ではない。

 毎日かかさず稽古もつけているのだが、筋肉の付きにくい自分の身体を疎んだこともある。

 周りの大人から言わせれば、文学の才はあるようだった。

 だがどうしても、情緒豊かな詩を紡ぐ事が出来ずにいる。

 背と共に頭もごつごつとした木に預ける。

 すこし痛いと感じたが、それも穏やかな心地よさとなっていく。

 ずるずると背を引きずって地面に座り込む。

 目を瞑り、独り言を呟いた。


「父上のようには上手くいかないな……」


 また一つ、深い溜息をつく。


「あら、私は好きよ?」


 突然聞こえた声に驚き、声のした方へ振り向いた。

 さらさらと流れる艶やかな黒髪に透けて、陽光は幻想的に光を反射した。

 次いで大きな椿の刺繍が目に飛び込んでくる。

 白地着物の中に、大きく赤く施された椿の模様。

 金糸の装飾が成されていることから、それなりに身分のある人間なのだろう。

 視線を上げていくと細くもたおやかな黒髪が視界に入る。

 揺れる小川の行き着く先には、まだあどけない笑顔の大きな瞳が、こちらを真っ直ぐに見つめていた。


「その歌、とっても分かりやすいもの」


 少女、というにはもう少し幼いだろうか。

 にっこりと微笑み、屈託もなく笑いかけてくる。

 はっとして自分に気付く。

 一人だと思って耽っていたが、聞かれていたのだ。

 急に自分の歌を人に聞かれてたと思うと、頭から湯気がでそうなほど羞恥がこみ上げてきた。

 それが年端も行かない子供だったとしても。

 動揺を隠すかのように彼女の目線から少しずらした。


「き、君は?どうしてここに?」


 その言葉が意外というように、彼女の大きな目はより大きく見開かれた。


「人にものを尋ねるときは、まず自分から名乗るものではなくって?」


 確かにその通りだが、一体どこでそんな言葉を覚えたのだろうか思い、改めてその少女を見た。

 眉根を寄せ、左手を腰に当てる体勢をとっている。まるで説教をする先生のように。

 そんな彼女を見、複雑な笑みを浮かべる。


「そう、だな……」


 やや気は重かったが、立ち上がり彼女の礼儀に従うようにした。

 立ち上がって改めて思ったが、自分の背丈の半分ほどの少女は、やはり幼く感じる。

 尊大な少女の前に膝を付き、名乗る。


「俺は竹地実久、今年で十四になる。こんな感じでいかがかな、お姫様?」


 やや苦笑混じりに少し首を傾げる。

 面食らった様子の彼女は少し惚けていた。

 何故だか顔が少し赤いようだったので熱でもあるのかと心配したが、コホンッと一つ咳をすると今度は自分の名前を告げた。


「わ、私は月姫よ。歳は九つだわ!」


 そんな様子を見ると、やはり年頃の娘のように感じた。

 無意識に頭を撫でていると、初対面なのに失礼だわ!と振り払われた。


「私がここにいる理由、だったわね。そう、ね……」


 月姫という少女は、大きな目を細めて晴天の空を眺めた。

 言葉遣いといい、こんな顔をするところといい、妙に大人びている。

 それとも女の子はみんな成熟なんだろうか、と変に納得しそうになった。

 月姫は空を見上げたまま話し始めた。


「掛居というあざながあるわ。私の元の字。でもそれも無くなるの。明日でね」


 その言葉の意味が良く分からずに繰り返して尋ねた。


「字が無くなる……?」

「言葉通りの意味よ。私、結婚するの」

「なんだって!?」

「きゃっ」


 衝撃のあまりに思わず立ち上がった。

 驚いた月姫は芝生の上に尻餅をついていた。


「ご、ごめん。大丈夫か?」


 うぅ、と唸りながらも月姫は差し出した手を掴んで立ち上がった。

 腰をさすりながら眉根を寄せて噛みついてくる。


「いきなりびっくりするじゃない!」

「びっくりしたのはこっちの方だよ……」


 この戦の絶えない世にあっては子供同士の結婚--もとい親同士で取り決められる政略結婚--も珍しい話ではない。

 結婚、というのはただの口実で、事実上は『人質』なのだ。

 互いの家が婚姻を結ぶことで財産や権利、そして軍事的にもお互いを有益にするためのものだった。

 書面上での友好関係を築く事でもいいのだが、それでは紙を破られたり同盟国が寝返った場合に対する保障がない。

 そのため、婚姻を決めた『人質』を贈ることが最近での習慣でもあった。

 だが結婚できるのは年齢上大人と認められる十四歳からである、というのが暗黙の了解なのだが、この少女はまだ九歳だ。

 年端もゆかないそんな子が結婚するなど、あっていいのだろうか。

 そんな実久の様子を察した月姫は、むすっと唇を尖らせて抗議する。


「あら、私が子供だからって侮ってるの?それこそ女性に対して失礼よ!」

「い、いや……それでも……、君はそれで納得してるのか?」

「君じゃなくて月姫よ、ツ、キ、ヒ、メ!」

「あ、あぁ分かったよ」


 5つも年下なのだが、たじたじになりながらも頷く。

 顔を離した月姫は表情をくるりと変え、先ほどと同じ憂いを帯びた表情で微笑む。


「お父様ともたくさん喧嘩したわ。どうして知らない男のお嫁さんにならなきゃいけないのって。……でも最後には私が折れたわ。誰も私に話てくれないけど、わかるもの。国や民がとても苦しい時で、どこかの助けが必要だってことも」


 そう話す彼女の悲しそうな笑顔は、とても9歳の子供のものには見えなかった。


「私は一国の御姫様なの。といっても、そんなに豊かな国ではないけれど。貴方、一発で見抜いたでしょ?」

「え?あ、あれは、いやぁ…」

「………口から出任せ?」


 バツの悪そうに頬をかく実久を見て、大姫が盛大に笑い出した。


「ぷっ、あはははは!貴方、面白いわ! 綺麗な顔してても、どこか抜けてるもの!あはははははは」

「ぬ、抜けてるとは失礼な…」


 実際そうなのだから何も言い返せずもごもごしていたら、笑い終えた月姫は目尻に涙を貯めてぼそりと呟いた。


「……貴方みたいな人が夫だったら良かったのに」


 ざわざわと一層枝葉を強くこすりつける音がする。

 その言葉は突如吹いた風に連れ去られてよく聞こえなかった。

 何かを呟いた月姫の横顔が妙に寂しそうで、つい聞き返してしまう。


「え?」

「なんでもないわ!」


 見間違えだろうか、そういった少女の顔は清々しかった。

 どこか吹っ切れたような、年相応の月姫の笑顔を見たらふいに安心してもいいのだと思えてきた。

 彼女は強い、きっと大丈夫だろう。


「楽しかったわ、これでさよならだけれど」

「あぁ、元気でな」


 また会うことを約束しない二つの手は、意外なほど固く交差した。

 あまりに小さなその手が離れると、ふっと自分の胃の奥がちくりと痛む。

 それは意識するよりも早く、するり網の目をくぐるように消滅してしまった。

 小さな背中に長い黒髪を揺らしながら歩く月姫。

 きっと大きくなったら美人になるだろうなと思いながら、その姿が見えなくなるまで見送っていた。

 青く澄み切った空の下、不思議な邂逅を体験した。

 そろそろ表一郎も探しにくる時間だろう、実久も屋敷に戻ることにした。




 帰ってくるなり開口一番、


「実久様!今まで何処にいらっしゃってたんですか!」


 予想していた反応だ。とはいえ、やはり内心辟易してしまう。

 ややばつの悪そうに表一郎に答えを返す。


「あ、あぁいや、まぁ……少々羽を伸ばしに」


 実久は頬をかいて視線は合わせなかった。

 表一郎は実久の親友とも言える付き人だった。

 年の頃も変わらず、幼少の頃より遊び相手兼世話役を務めている。

 今回も色々と大事な予定が詰まっていたのだが、「ちょっとの間頼む!」と書き置きだけして屋敷の外へ出てしまっていた。

 その間、親分連中もとい実久の父親実朝やら老中共の尋問にあってた事だろう。

 そう思うとやはり多少の良心の呵責を感じないでもない。


「さ、ね、ひ、さ、さ、ま!」


 いつも以上に気が立っているのか、ものすごい形相で鬼気迫る表一郎。

 今回はやはり、相当分が悪いようだった。


「表一郎悪かった!すまん!この通りだ」


 最終手段は土下座で平謝りである。

 普段なら身分の上である実久はしないのだが、この際なりふり構っていられない。

 ここで表一郎の許しを得なければ末代まで呪われかねない。

 そんな主のみっともない様子を見かねた表一郎は、仕方ないという感じで実久に応じた。


「はぁ……、実久様、顔を上げてください」


 膝をつき、目線を実久に合わせる。家臣として染みついた「クセ」だった。


「表一郎、俺が我が侭だというのなら何度でも責めてくれて構わない。だが今回ばかりは、父上の決定には………………納得、できてないんだ」

「実久様……」


 事情を知っている表一郎は、それ以上何も言わなかった。

 実久の父、竹地実朝の決定。

 それは明日の誕生日を迎える実久に結婚をさせるというものだった。

 法律では十四になれば成人と見なされる。

 もちろん結婚も出来るし、働く事だってできる。

 だがそれも法によるもので、世間一般、下流階級の人々の解釈とはまた違う。

 結婚は二十歳前後まで待つのが通例で、それまでは親の了解なども必要とされる。

 働く事にしたって十四になるより前から働いている子供もざらにいる。そうしなければ家計が苦しいのだ。

 普通は二十歳くらいで結婚するもの。それが普通の認識だった。

 実久の家は武家の家柄だ。

 元はここいらの大地主だったが、武芸の達つことで有名だったために戦場に駆り出されるようになった。

 それから代々武功を上げていき、父実朝の代では玉那の地を制して、一国の長となった。現在配下は一千を越える。

 増改築を繰り返した屋敷は、貴族のものと見紛うほど立派なものにもなった。

 いわゆる上流階級の竹地家。

 二十歳という一般の縛りには囚われないものの、十四で婚姻を執り行うという実朝の決定には納得しえなかった。

 表一郎からは、ここ最近の動向はよろしくない、という話も耳にする。

 去年から東部の九裏氏が勢いを増し、こちらも拮抗する状況にある。

 いざというときのために味方は多い方がいいし、お互いに利益が出るのであればそれが長の決定なのだろう。

 そして単純に結婚相手の父親同士が宴の席で意気投合し、仲の良いからという話もある。

 その証拠に実朝は婚姻を決めた1ヶ月前、酒臭い息をまき散らしながらも最上級というほど上機嫌に、それも唐突に告げたのだった。


「実久、お前、来月で十四になるよな。……ヒック。ちょうどいい、結婚しろ」

「ちょ、ちょっと待って下さい!いきなり結婚って」

「お前も知っておるだろう、八千代郷三郎のとこの、お嬢様だ。手はずはもう儂が整えてあるでな。んっく……っぷはぁ!」


 そう言って銘酒微少年を呷る。

 普段中々飲めない最上級の酒に実に上機嫌のようだった。


「いやぁ、実にめでたいな!しかもお相手はかーなーりーの美人だぞ?器量もいい、何よりトコ上手だ」

「ば、ばかじゃねぇの!」

「おーっと、トコっつってもオチョコの事、だからな。彼女の注いだ酒は実に旨い!……んん?お前、何を期待しとったんだ?ぶあっはっはっは」

「…………酔いすぎです、父上」


 あの頭の痛い出来事を思い出すだけでも胃が逆流しそうになった。

 その日は酔いの出任せかと思ったが、こともあろうことか翌日には「日取りはお前が十四になるその日とする」と涼しい顔で告げられた。

 それから屋敷中が準備にと騒がしくなっていたのだ。

 あまり乗り気ではない、その理由は二つある。

 一つは自分がまだ十四の子供であること。成人とはいえ、大人にはやはりまだ力も及ばないし知恵も見聞も足りない。

 理想の女性とまではいかないにしても、結婚する相手は自分で決めたかった。

 二つめはその女性というのが年上であろう、ということ。

 実朝に酒の席で接待するくらいなのだから、軽く見ても自分より五、六は上だろう。

 年上の女性といえば、お守りや乳母、家政婦達が思い当たるが、いずれも三十は越えている。

 恐らくそこまで年は離れてないだろうが、そんな相手に「妻」と呼ぶのはやはり抵抗があった。

 歳の同じ表一郎にお前ならどうする、と尋ねた時は「それは実久様が決めることですので……」とはぐらかされてしまった。

 それからいくら考えても「いやだ」の三文字しか浮かばなかった。

 今日は衣装合わせの調整だったのだが、それを表一郎に押しつけてすっぽかしてきた。

 体格もほぼ似たようなものなので--やや表一郎の方が背が高いが--きっと彼がしっかりと代役を勤めたことだろう。

 そのまま相手と会う予定も入っていたのだが、本人がどこにもいないということで無しとなった。

 明日、結婚する相手とは式の日に初めて会う事となる。


「はぁ……、やはり気が進まないな」


 縁側にあぐらをかいて座り、右手で頬杖をつく。

 むすっとした顔には迷いの表情が色濃く出ていた。

 卵大の白く丸い砂利が敷き詰められた庭園。いくつか盆栽のように見事な草木が植えられている。

 右奥の隅にやや古い、大きめの桜が首をもたげていた。

 この庭の中で母が最も愛しているしだれ桜。

 不思議とあの木を見ると、心は落ち着くようだった。


「そういえば、あの子も明日結婚するんだったな」


 先ほど桜の元で出会った少女の顔を思い出す。

 よく言えば早熟しており、悪く言えば生意気。だがとても愛嬌のある魅力的な大きな目をしていた。

 九歳にしては大人顔負けの彼女を思い出して苦笑する。

 自分と同じ境遇でありながら、きっと彼女は上手いことやっていくんだろう。

 不思議とそういう心の強さを感じた。


「まだ悶々と悩んでいる自分とは違って、な」


 再び苦い笑みを浮かべ、しだれ桜の前まで歩いた。

 自分の体格の幅くらいはあろうか、木の幹に手を触れる。

 ざらっとした第一感触があり、木独特の堅さと柔らかさ。空気とは違う温度を感じると、木もやはり生きているのだと思えてくる。

 太くどっしりと一本で根を張って、押しても微動だにしないだろう。

 一歩も動かず、そこに生き続けるとはどういうことだろうか。

 ふとそんなことを考えて上を見上げる。

 今にも落ちてきそうな様子の桜の枝。

 郷愁にもにた思いが過ぎり、目を閉じる。

 あの丘であった少女の笑顔が過ぎる。

 機会があればまた会いたい、そう思った。

 その頃にはきっと、お互い大人になっているはずだ。

 どんな顔をして、どんな言葉を交わすのだろう。

 叶わぬであろう思いを胸に焼きながら、静かに言葉を紡いだ。



満開の

一人佇み

逢い桜


散る姿とも

潔きものなり



「ぐ、字余り……だめだな」

「あら、私は好きですよ」


 それは実久の背後から聞こえた。

 聞き覚えのある声に驚き、心臓が飛び出そうになる。

 一瞬で全身の穴から汗が噴き出し、身体が硬直した。


「しだれ桜。私は好きです」


 穏やかだが高く幼い声。間違いなくあの時耳にした声だった。

 振り向き、最大まで見開かれた目はか細く小さな姿を捉えた。

 どうしてここに、と言ったつもりだったが乾きすぎた口は動いてくれなかった。


「初めまして、妻の月姫です。不束者ですが、これからよろしくお願い致しますね?実久様」


 にっこりと微笑む少女は、二度目の挨拶を実久に告げた。





 翌日、婚姻の儀は滞りなく行われた。

 幼すぎる月姫を見る親戚一同の目は最初は冷たかったが、淑女然とした彼女の振る舞いに不満を口にする者は居なかった。

 白い花嫁衣装に身を包む月姫は、予想していたよりもずっと綺麗だった。

 今朝初めて花嫁姿の月姫を見たときはしばらく凝視してしまった。

 背丈や容姿は年相応だとしても、とても九歳の女の子とは思えなかった。

 なのだが……。


「ちょっと、何惚けてるのよ!早く帯を解いてちょうだい!」


 寝室に入るなり、第一声がそれだった。

 まさかとは思ったが、去り際に親たちが「後は若い者に任せて退散しましょ、むふふ」などと意味の分からないことを言っていたことが頭を過ぎる。


「い、いやそれはさすがにマズいというかなんというか……」


 両手をブンブンと振る実久を、月姫は怪訝そうに眉根を寄せて見ていた。


「私は早く休みたいの!これ意外と窮屈なのよ。着付けしてくれた人もいないし、自分じゃどうやっても解けないもの……」


 最後のあたりはなんだかシュンとなっていた。

 頭から邪推を振り払い、そういうことか、と納得して花嫁装束の脱衣を手伝う。

 するりと衣擦れの音がして白い衣服が零れ落ちる。

 白く珠のような肌が覗く。

 体の線は細く、歳相応に小さい。

 先ほど少し触れてしまったが、絹の衣服よりも滑らかな感触だった。

 彼女の背後、左上から剥き出しのうなじが視界に入る。

 その身体は艶めかしく、異様なほどに実久の神経を撫で回す。

 相手はまだ九つの子供だぞ……と自分の獣を抑え込む。

 ごくり、と生唾を飲み下し、意識しないように換えの衣装を肩に掛けた。

 そんな実久の葛藤など露知らず、月姫は帯をきゅっと締める。

 薄紅色の絹の衣装。

 薄手なのか、やや透けてるようにも見える。

 おまけにぴったりと四肢に張り付いて、身体の線がよくわかった。

 恐らく年頃の女性が男を誘うときに着る衣装の類だろう。

 複雑な胸中を抱きつつも、敷かれた布団の上に座る。

 着付けを終えた月姫は、薄地の寝間着を見せびらかすように実久の前に来た。


「似合うかしら?」


 それがどんな意図の服なのか知らないであろう当人は、覗き込むようにして笑いかけた。

 胸の奥が妙に熱く、締め付けられるような感覚が襲う。

 醜い自分を悟られないよう、顔を背けて返事をする。


「そう、だな。似合うと、思うよ」

「……なんだか煮え切らない答えね」


 月姫は不服そうに口を尖らせるが、すぐに機嫌を直して顔をゆるめた。

 実久の隣にぴったりと寄り添って座る。

 やや大きめの袖に頬を寄せ、夢見心地に微笑む。


「そっか、似合う、か……へへ」


 浮かれた様子の月姫にふとした疑問を尋ねてみた。


「なぁ、俺は八千代家の人間が結婚相手だと聞いていたんだけど」


 その言葉が意外だというように、小首を傾げて答えた。


「あら、私は八千代家の人間よ?」

「へ?でも昨日は掛居って……」


 あぁ、と合点がいったというように小さな両手を軽く合わせる。


「私は母方の姓を名乗っていたの。だから掛居」

「母方の姓?」


 頷き、続ける。


「お父様はいくつも愛人を囲っていたわ。蓄えも少ないのに呑気なものよね。で、そのうちの妾の一人が私のお母様ってわけ」

「そうなのか……」

「でも、もうどちらでもないわ。私は竹地家の人間だもの。気にすることはないわよ」


 にこっと笑った月姫の顔には後悔や失念といった残響は見受けられない。

 家のしがらみから抜け出せたから良かった、と受け取ればいいのだろうか。

 そういった悩みを持たない実久には推し量る術はない。

 だが、ここにいる少女は間違いなく自分を慕ってくれている。

 その気持ちには最大限の誠意を持って、これから共に時間を過ごそうと密かに心に決めた。

 不意に大きな手が月姫の頭に乗っかる。

 そのまま雑に頭を撫でられた。


「実久、さま?」


 見ると真っ直ぐに月姫の顔を見つめていた。

 その瞳からは意志の強さと穏やかな優しさが感じられた。


「今日はお疲れ様」

「……うん」


 頭を実久に預け、微睡むように目を閉じる。

 確かに今日は少し疲れた。


「式だけじゃなくてそのまま挨拶回りに色々と……。正直驚いたよ」

「私も、結婚したの初めてだからびっくりしたわ」

「いや、驚いたのは君の方にさ」

「……私?」


 大きな瞳できょとんと見つめる。一体自分が何をしたのだろうかと。


「式典の最中だけじゃなく、親戚への挨拶もきちんとしてたし、何よりしっかりしすぎて俺が助かったくらいだよ。一体何処で学んだんだ?」

「淑女の嗜みよ」


 自慢げに唇の端を上げる。

 本当なら胸を張り、鼻を鳴らしたいところではあるが、さすがに今日は疲れが溜まっていた。

 代わりに夫への皮肉を込めて言葉を贈る。


「夫が抜けてるから、妻の私が、しっかり、……しなきゃ」


 こくこくと船をこぎ始める月姫を見て、ゆっくりと布団に横たわらせた。

 その小さな体はとても軽かった。

 言動や立ち居振る舞いが大人びていても、やはり九歳の子供なのだ。

 あともう少し、小さな妻と会話を楽しんでいたいとも思ったが、これからいつでも出来るのだ。

 幼い身体に布団を掛けてやると、月姫はまどろむようにこちらを見てきた。



「実久様……」

「なんだい」

「私、ずっと不安だったの。昨日までは嫁ぐなんて、一瞬たりとも考えたく、なかったわ。もしかしたら、実朝様みたいなおじさまかもしれないでしょう?……でも、ね」

「うん?」


 必死に語りかける少女の瞼は開閉を繰り返す。

 より強い微睡みが彼女を誘っていた。

 それでも何かを求めるように、細い左手が実久の頬に触れる。


「昨日、あの木の下で出会って、こんな人が、私の夫、だったらいいなって、思ったの。」


 少しずつ言葉の勢いが薄れていく。睡魔が強くなってきてるのだろう。

 懸命に伝えようとする月姫を、実久は優しく、しっかりと見ていた。


「神様って、本当にいるのかしら。お屋敷に入ってから聞いたの。それで私の旦那様が、実久様だって知った時は、すごく驚いたわ」

「俺もだよ、すごくびっくりした」


 ゆっくりと実久の顔を見てにこりと微笑み、ふるふると首を横に振った。

 細い手でぎゅっと実久の裾をつかみ、じっと見つめてきた。


「うんん、違うの。すごく嬉しくて、嬉しくて。また、会えるんだって、思ったから。それを聞いたら、一番にご挨拶しようって」

「そっか、そうだったんだ」


 頬に触れる少女の手に大きな手を重ね、しっかりとその温もりを確かめる。

 疲れも限界だろうに、どうしてこの少女はここまで頑張れるのだろうか。

 艶美な装いを見たときとは違う、郷愁にも似た感傷が胸の奥を柔綿で圧迫した。

 月姫は右手も伸ばし、頬に添えた反対側の頬に手を置いた。

 手に気を取られて気付かなかったが、ふと彼女の顔が息が掛かるほど近くまで来てる事に驚く。

 咄嗟に目を瞑り、柔らかく、瑞々しい感触が額に浮かんだ。

 その行為に内心激しく高鳴らせながらも目を開けると、ぽふっと枕に身体を預けた月姫が映る。

 不意打ちばかりの少女に感情が付いていけず、どっと身体が熱くなる。

 額に口づけを交わしたその小さな唇から、振り絞るように声が紡がれた。


「私の旦那様が、ね、実久様で、よか、った……」


 弱々しくなっていく呟きを最後まで聞き取ると、小さな淑女は規則正しい寝息を立てた。

 その気持ちを必死に伝えようとした月姫。

 昼間は凛とした面持ちで立派な淑女である月姫。

 そのどちらもが、今は愛おしく思えた。

 歳9つで見知らぬ人ばかりの土地に単身嫁いできたのだ。

 その不安は実久の考える比ではないだろう。

 まだ出会ったばかりの伴侶だが、妻として、大切な人として、守っていこうと心に誓った。

 まるで天使のような月姫の寝顔に、お返しとばかりに額に優しく唇を重ねた。




 手を擦り合わせて、はーっと白い息を吐く。

 一瞬の温もりを与えてくれるが、やがてまた痺れるような寒さに両手を擦り合わせる。

 いよいよ寒さも極まるところとなった。


「寒いな」


 胡座をかいた実久は誰ともなしにぽつりと呟いた。

 同じように手を擦り合わせ、少女も白い息を吐いた。

 こちらも一瞬の暖かさの後、冷えていく手の感触を感じていた。


「寒いね」


 縁から足を投げ出した月姫が同じ言葉を繰り返す。

 縁側に並んだ二つの影は、薄鈍色の空を見ていた。

 今にも雨の降ってきそうな空だが、今日はどこか朧気な空気を孕んでいる。


「こうすれば暖かいぞ、姫」

「ひゃっ!」


 頬を僅かに桃色に染め、身体全体を預ける。


「本当ね……暖かい」


 目を閉じて

 白く小さなものが、ゆっくりと落ちてきた。

 最初の一粒が月姫の鼻の頭に落ちると、その小さなものは溶けてなくなってしまった。


「あ、雪!」


 実久の腕の中から、空を指す。

 よりぎゅっと羽織を縮こまらせた。


「ねぇ実久様、覚えてる?」

「何を?」

「初めて会った日のこと」

「あぁ、覚えてるよ」

「あの日の桜も、こんな雪のようにゆっくりと落ちてきていたの」

「そう、だっけ?」

「もうっ!」


 月姫は頬を膨らませて怒るも、どこか楽しそうにもみえた。

 そんな彼女を抱く腕に自然と力が入る。

 優しくだが、確かにその心地は伝わる。

 月姫は実久の右腕の方へ頭を預けた。

 冷えた木枯らしの風と、ゆったりと胸の内を締める暖かな時間が過ぎていった。


「今年は本格的に積もるな」


 ひとつ、ふたつとその数を増していく雪を見て実久は言った。


「寒いのは苦手だ。姫は寒いの平気か?」

「私は平気よ。冬の生まれだもの」

「そっか」

「だらしないわね、実久様は」


 まったくだ、と苦笑いを浮かべる実久を、言葉とは裏腹な気持ちで見つめていた。

 どうしてこんなにも心が安らぐのだろう、と。

 ほんの数ヶ月も前には全く赤の他人だった。

 そしてお互い顔も、名も知らず婚姻の話が進み、お互い顔を合わせたのは式の前日の事だ。

 その日から幼い夫婦となり、毎日を共に過ごしてきた。

 笑い、泣き、悩み、振り返ればあっという間に時が過ぎてしまった感じがする。

 思い出はいつでも蘇るが、幸せをもっと咀嚼していたいという思いだけが少し残念に思えた。

 冬は嫌いではない。

 月姫も寒いのは好きではなかったのだが、こうして実久と触れあって暖めあえるのなら悪くないなと思っていた。


「冬が明ければまた春になる。そうしたら、あの桜の木に会いに行こう」

「実久様……」

「今度は見知らぬ二人でなく、夫婦として、な」

「うん」


 冬が明ければ春が来る。

 そして毎年のように桜が咲き誇るだろう。

 目を奪われるような大樹の下で出会ったあの頃の記憶は、今でも鮮明にある。

 出会ったときから惹かれていたのだ。きっと。

 あの時の陰鬱な気持ちではなく、今度は夫婦としてあの大樹に挨拶しにいくのだ。

 桜の舞い踊るあの景色も、違った風景のように見えるのだろうか。

 ぽつりぽつりと降っていた雪も、視界を埋め尽くすほどの数になっていた。

 今夜あたりは積もるだろう。

 やがて雪の絨毯となり、いくつもの足跡でいっぱいになる。

 月姫と、実久の足跡で。

 そうなったらいいなと、月姫は勢いを増す雪の雫達を眺めていた。




「やはり夜は冷えるな」


 昼間より寒さが増して、身震いをする。

 先ほど厠で用を足したばかりだというのに、また逆戻りしそうになる。

 もう皆寝静まっている頃だろう。極力足音を抑えながら廊下を歩いていた。

 まだ明かりのついている部屋があった。

 何やら話し声も聞こえる。


「……だから、早々に……なければ」

「父上……?」


 押し殺した様子で言い合う声が聞こえる。

 老中二人と、実朝のようだった。

 こういうとき、見て見ぬふりをするものなのだが、何故だか今日は気になった。


「実朝様、今この機会を逃してはなりませんぞ」

「いやしかし!」

「分かっておらぬわけでもありますまい。朝廷に反旗を翻してはもう命は助からぬ」


 一体何の話をしているんだ……?


「だが、……あれは、月姫はもう、儂の娘なのだぞ……」


 月、姫……?


「……このまま沈黙を続けようものなら我らも謀反の疑いをかけられまする。月姫様をご処分せねばなりませぬ。どうかご決断を」


 その時、勢いよくはないが、引き戸は強く開け放たれた。

 実朝と泡を食ったかのような顔をしている老中二人を目視すると、その目は真っ直ぐに父実朝へと向けられた。


「……父上、姫を処分するとは何事ですか」

「実久、聞いておったのか」


 目線はあくまで実朝から外さず、しかと見据えて首を横に振った。


「いいえ、途中からですので」

「そうか、ならば聞かなかったことにしておけ」

「父上!」

「諄いぞ実久」


 ぎらりと睨まれた実久に鋭く刺すような威圧感が襲う。

 彼もまた、錬磨の猛者なのだ。

 普通なら竦むようなその眼光だが、今はそんなことに構っている暇はない。

 僅かに震える拳と汗を握りしめ、乾いた口を開く。


「父上、私はもう十四です。見ぬフリ、聞かぬフリをするわけには参りません。それが、私の妻の事ならなおのことです」

「よいのだな?お前も煉獄に足を突っ込むことになるぞ」

「構いません」


 強い意志をもってはっきりと答えた。

 数秒、数十秒かもしれない。

 両者の間に強く激しい意志の疎通があったのだろう。

 一室の広さはさほど広くはないが、鉛が全身に取り付けられたかのように室内の空気は重たかった。

 実朝にも伝わったのだろうか。ようやく重い口を開いた。


「実はな、月姫の父親である、八千代郷三郎が謀反を起こした」

「な……!?」

「理由までは分からん。だがいくらかの組織だったものだということだった。唆されたやもしれん。彼奴は根は悪い人間ではないのだが、少々強欲であるのと、心の弱さが目立つ人間だった」


 何と愚かなことを、と衝撃に思考が停止しそうになる。

 淡々と話す実朝。言葉の端々に力や熱が籠もっているのを隠し切れてないのを、実久は気付いていた。

 実久と同じ事を考えているのだろう、本当になんと愚かな事を……と。


「だが謀反は謀反、その首は討ち取られたそうだ。……そして一族を根絶やしにせよとの命も下っておる。今やあの子が血族最後の子なのだ」

「そんな、まさか」

「のう、実久。…………儂は娘を、月姫を殺そうと思う」


 その言葉でかっと頭に血が上った。

 目の前が白黒とし、意識は何か恐ろしく強大なものに押し上げられる。

 だん、っという音と共に少しだけ我に帰る。

 拳を強く握りしめ、一歩踏み出した足を強く畳に押しつけていた。

 老中二人はひぃっという情けない声と共に怯えていたが、実朝はそれを冷静に見据えていた。


「実久よ、その拳で儂を殴るか?それもよかろう。だがそれでも儂は月姫を殺すだろう」

「……分かって、おります」

「なら儂を殺してでも止めるか?だがその瞬間に貴様と貴様の妻は断罪を免れられなくなるぞ」

「……分かって……おります!」

「ならどうする?どうもできまい。それほどまでに、お前は無力なのだから。……もう月姫の死は確定しておる」


 最後の方は諭すような口調で言った。

 実朝の言葉は正しい。

 どうにかするには自分はあまりにも無力だ。

 どうにかできないのか、どうすることもできないのか、何か方法が、何か……。

 ぐしゃぐしゃになる思考の渦のなか、はっとして一つの抜け道を見つける。

 結論から言えば絶望的なものだが、同時に最後の希望ともいえるものだった。

 月姫を助けるためなら何でもしよう。何のための夫なのだ、妻一人守れなくて何が男だと。

 顔を上げ、まっすぐに実朝を見て言った。


「父上、私はこれより八千代の息子となります」

「なんだと?!」

「私が八千代の息子として処分されれば、姫は、月姫の無事は守れるでしょう。父上も言ったでしょう、一族最後の子だと。……それに郷三郎氏は女癖の悪かったと伺っております。系図に載らない子の一人や二人、隠し通せると思います。そして一族最後の人間が死ねば八千代狩りも静まる」

「痴れ者が!」


 実久の頬を力任せに張り倒した。

 殴られた実久の身体は勢い余って障子に激突する。


「儂がそんなこと許すわけがなかろうがぁ!!」

「俺が姫を死なせる事を許すわけがないでしょう!!」

「お前は儂の息子なのだぞ……血を分けたたった一人の息子なのだぞ」


 震えた声は、押し殺した声は、そしてこの痛みは実朝の深い想いだった。


「姫は、違うというのですか?」

「…………あれは八千代の娘だ」

「今までの愛情は嘘だったと?」

「そうだ、儂は人質に情をうつしておらぬ」


 それは嘘だ。この半月で月姫を見る実朝の目は、娘を愛でるそのものだった。


「姫の優しさは、貴方を慕う愛情に何一つ嘘偽りはありません」

「…………」


 奥歯をぎりっと噛む音が聞こえた。

 分かっているのだ。彼が娘を想っている事も、自分を想っている事も。


「姫はまだ十になったばかりです。ああ見えてもまだ、子供なのですよ」

「お前だって、まだまだ子供じゃないか」

「……そうですね、父上からしたらまだまだなのかもしれません。ですが父上、私はもう十四の大人なのです」


 言うとおり、まだまだ子供だ。

 でも自分にはやらなきゃいけないことがある。夫として、一人の男として。


「父上、正直、姫と会うまでは結婚を勝手に決めた貴方を恨んでおりました。どうして急に俺が、まだ十四なのに……と。ですが、今ではとても姫の事を愛おしく思えるのです。毎日過ぎるのが勿体ないくらいに。そして夫として、何があっても守り抜くと。妻一人守れないで何が夫と呼べましょうか。…………何をするにも億劫だった私がこう思えるようになったのは父上、貴方が姫と出会わせてくれたお陰です」

「実久……」

「私が姫の身代わりに出頭します。私の首は父上、貴方にお預けしたい」


 もう実朝は何も言わなかった。

 ただ、初めてみる父親の僅かな涙に、とてつもない罪悪感を感じずにいられなかった。


「遺言だと思って聞いて下さい。姫を恨んではいけません。紛うことなき、貴方の娘です」

「あぁ」

「私の代わりに、たくさんの愛情を注いであげて下さい。きっと、たくさん辛い目にあってきたはずですから」

「知って、おったのか……?」

「彼女の歳に似つかわしくない言動を見ればおおよそ推測はつきます。子供うちでそれが身に付くわけがない、だとすれば親を見て自然とそのような振る舞いができるようになったのだと」


 時折見せる姫の哀愁にも似た表情はどこか引っかかるものがあった。

 故郷が恋しくなったかと意地悪気味に聞いてみたことがあったが、彼女はさほど意に介さなかった。

 悪いとは思ったが、表一郎に姫の身辺のことを調べて貰った。そうしたら案の定、婚儀の夜に姫が「妾の子」と言った言葉と繋がった。

 だからといって同情で彼女と居たわけではない。

 小さな笑顔の一つ一つ、実久への気遣いや照れ隠しの突き放した表情。新しく着物を仕立てた時の喜んだ時の仕草。

 その全てを愛しいと思えた。その全てに支えられた。

 彼女を想う気持ちに嘘偽りは一遍もない。


「そしてもう一つ、決して誰も恨まないでいただきたい」

「なん、じゃと?」

「姫も、私も、郷三郎殿も、朝廷も、誰も、です」

「お前はそのような苦痛を儂に強いるのか!儂は、儂はな……お前を切ったとしたら、どうなるか分からん。抑えきれないその獣のままに、誰かを切り伏せることもまかり成らん!儂はな、たとえその場で気持ちを抑えることができようとも、この先永遠という時間の中でお前を殺めた咎に狂い、再び誰かをめちゃくちゃに切り刻んでしまうやもしれんのだ!そんな儂に、誰も恨まず生きていけなど……儂は、お前を手放す事にまだ納得しとらんぞ!!そんな永遠の未来を誰も恨まず、誰も憎まず、その心の怒りの矛先はどこへ向ければいいのだ!!…………誰を恨み、何を、何を支えに生きていけばいいのだ」

「父上」


 自分の息子を身代わりに差し出し、あまつさえその手で最期を委ねらた。

 そのうえ誰も恨まず、誰も憎まずに居て欲しいと。

 気が狂いそうな負担を強いてることは分かっている。

 分かっているが故に、どのような時でも誇り高い背中であってほしい。


「父上、私は父上の子です。誇りに思っております。そして姫を娘と呼んで下さった事に、感謝しております」


 実朝に向かって、頭を深く垂れた。

 嗚咽を漏らす実朝を背に、実久は部屋を後にした。

 冷静一徹だった実朝が、感情を剥き出しにした顔を見たのは初めてだった。

 それに落胆した様子はなく、むしろ嬉しく思う。

 廊下の突き当たりを曲がったくらいで、ぐいっと身体を引き寄せられた。

 懐かしく、柔らかい感触。そして母の香りがした。


「実久……」

「母上……」


 京の抱きしめる腕にはいつもより強く感じられた。

 聞いていたのだ、一部始終を。


「貴方は、私の、私達の息子です。息子なのですからね。」

「申し訳ありません……私は」

「いいのよ、貴方が決めた事だもの」


 なおも抱きしめる両腕に力を込める。

 苦しくはなかったが、腕に比例して心が絞めつけられる。


「無茶ばかりするところは、父親譲りかしら」

「母上……」


 京の愛情を深く感じた。

 実朝と同じように、強く悩み苦しんでいるのだろう。

 それでも京はただ、背中を押してくれた。


「妻を、姫をどうかよろしくお願いします」

「大丈夫よ、あの子も私達の娘なのだから」


 そう微笑んだ京は、やはり母親なのだと思った。

 実久はそれだけで、全てを安心することができた。

 月姫を二人に任せて逝くことができる。

 ただ、一つだけ心残りがあるとするなら--。


「死ぬことは、不思議と恐くないのです」

「実久……」

「私が未来に姫と会えないのだけが、心残りで……母上?」

「どうか泣かないで下さい、母上」

「貴方も、泣いてるじゃないの」

「え……?」


 そう言われて初めて気付いた。自分が涙を流していることに。

 意識すればするほど、溢れる濁流のように気持ちが込み上げてくる。

 つい先ほどまで、死を覚悟したときは、こんなにも清々しいものなのかと思っていた。

 それが今は、溢れ出る涙を止める事が出来ない。


「死ぬ……のが、こわ……い?私は竹地の子です。そんな、はずは……」


 ぐっと京の胸の中に押さえ込まれた。


「いいのよ、いいの。泣いても、泣いてもいいの」

「母上……う、ぐ、あぁぁ、うっくっ……」


 母の胸の中で押し殺したように泣き続けた。

 雪はなおも深々と降り積もる。

 朝にはきっと膝が埋まるくらいまで積もっているだろう。

 雪の中、自らの声をかき消してほしいとおもった。



 明くる日の午後、実朝に連行された実久は八千代の最後の生き残りとして捕らわれた。

 関所の一つで刑は粛々と執り行われる。

 八千代に親交のあった竹地に、その裁きの刃は渡される。

 竹地実久、享年14歳。

 八千代家謀反の罪で一族死罪となる。

 その頃竹地の家では--



「今日は、一層冷えるわね」


 重ね着の衣を纏い、京は窓から外の様子を見ていた。

 恐らく今頃は実久の処刑が執行されているころだろう。

 考えるとやはり心が引き裂かれそうになる。

 頭を軽く振って、ふと背後の人の気配に気付く。


「実久様……」

「あら、月姫。どうしたの?」


 ふすまの陰から怯えた様子で見ている

 柱をぎゅっとつかみ、その手は微かに震えていた。

 まさか、知っているのだろうか。


「実久様、どこ……?」

「どうしたの?」

「実久様が、どこにもいないの……」

「あのね、実久は」


 そこまで言って口をつぐんだ。

 とても彼女に真実を告げることはできない。


「不安なの、とても、不安なの……」


 京の言葉は怯えた月姫の、掠れそうな声に消されてしまった。

 ふいにごぉっと強く風が吹き抜けた。

 京と月姫の長い黒髪を一気に持って行く。月姫の目は大きく見開かれ、ぷつりと糸の切れた音がした気がした。


「実久さ、……ま?」


 ゆっくりとした動作で一歩、足を前に出す。

 また一歩、一歩と一点だけを見つめて走り始めた。


「実久様!!」

「月姫!」


 部屋から外へ向かって取り憑かれたように走りだした月姫の身体を抱き留める。

 ただならぬ様子の月姫を見て、まさかと思った。

 なおも前へ、虚空へ、手を、足を伸ばす。


「実久様!実久さま!」


 叫びながら外に手を伸ばす。

 何かを掴もうと必死に。

 後ろを振り返るが何もないではないか。あるいは月姫には何か見えているのか。

 狂ったように愛しい人の名を呼び続ける。


「実久さま!実久さま!さねひささまぁぁぁああ!!」


 呼び声は虚しくも空へと消えていく。

 まるでそこにあるものを掻き抱くかのように、小さな両手を伸ばして。

 深々と降りゆく雪の雨。

 その一粒一粒の結晶が、月姫の悲痛な叫びを地面へと振り落としていく。








 書斎で一つの書物を手に、長い黒髪の女性はぽつりと呟いた。


「実久様………やはり亡くなられていたのですね」


 その表情は影で読み取ることはできなかったが、瞳には強い意志を宿していた。

 同日夜--。


「実朝様、お話があります。」

「なんだ?」


 襖を開け、実朝の部屋に膝まで伸びる豊かな黒髪の女性が入ってきた。

 顔の色素はやや白く、頬もあまり食事を摂らないせいで少し痩せて見える。

 白い寝間着の上に軽く羽織った牡丹の羽織だけが妙に浮いて見えた。

 彼女の凛とした顔は、普段床に伏せている姿からは別人のようにも思える。


「どうした、月姫」

「お父様は、今どちらに?」

「何度も申しておるであろう、郷三郎には蝦夷まで出ていってもらっとる。早々簡単には」

「亡くなっておられますね」

「……なんじゃと?」


 月姫の言葉に一瞬耳を疑ったが、はっきりと亡くなっていると言った。

 常ならざる気配を察し、眉根を寄せ次の言葉を待つ。


「実久様は今どちらに?」

「実久か、……彼奴は今頃信州まで遠征に」

「亡くなっておられますね」

「…………」


 じっとこちらを見つめる月姫の目には、強い光を帯びている。

 まるで微動だにしない月姫。

 その様子から実朝は全てを察した。


「実朝様」


 ふっと口元を緩めると、眉間に刻んだ皺も解く。

 いつか、こんな時がくるのではないかと恐れた時もあった。それが今なら、受け入れるしかないのではないか。

 数秒の長い間の後、実朝から口を開いた。


「彼奴はな、彼奴は……儂が殺した」

「存じております」

「なに?」


 さすがに目を丸くした。

 一体この娘はどこまで知っているのだろう。


「事の顛末全て、存じております。」

「そうか、……くっくっく。そうかそうか。」

「実朝様?」

「そうか!わずか十の時にお前から夫を奪った儂を、彼奴の仇を討ちにきたというわけか!」


 何も言わず、実朝の前に歩いてくる。

 京が動こうとするのを腕で制した。

 全てを知っている彼女もきっと、複雑な心境にあるに違いない。

 だが妻には見届けてもらねばならぬ。息子をこの手で殺めたその末路を。


「よい、よいぞ。儂ももう疲れた……あぁ、娘の手で殺されるというのなら本望だ」


 虚ろな笑みを浮かべて虚空を眺める。

 実朝には救いの仏がやってくるかのようにも見えた。


「あぁ、いよいよもって死ねるのだな。息子をこの手で殺めたことから解放されるのだな……」


 目を閉じてじっと最期の瞬間を待った。だが……。

 ぱーん!

 平手が盛大な音を立てて実朝の横面を張り叩いた。

 状況が飲み込めず目を泳がせる実朝。


「愚かな事を仰らないで下さい。私は貴方を殺しにきたのではありません」

「……では、なんとする」

「当時の私はあまりにも幼く、そして無知でした」


 月姫は俯き、声を曇らせる。

 唇を噛んでいるのか、わずかに血が垂れていた。


「私には守るものがありません。その力もありません」


 月姫は淡々と述べる。

 長い漆黒の髪に隠れたその顔から表情を読み取ることは出来なかった。


「そんな私を、実久様は10年間も護り続けてくれました。そして実朝様」


 顔を上げた月姫の目には、憎しみや恨み、怒りといった感情は一切感じられない。

 優しく微笑み、涙を必死に堪えている。


「息子を殺めた咎を忘れず、日夜耐え、憎いはずである私さえも育ててくれました。後悔することはあれども、決して恨むようなことはありません。それに」


 言葉を続けるまでに少し時間を要した。

 その間、実朝も月姫も溢れる嗚咽と涙は止まらずにいた。


「貴方は最期を決めた瞬間にまで、私を娘と呼んで下さいました」


 にこりと微笑むその顔は、御仏の使いと見紛うくらいに柔らかく、暖かかった。


「ここまで育てて下さった事に感謝しています。おとうさま」

「つき……ひめ……」


 もうそれ以上は言葉にならなかった。

 最愛の夫を奪い、実の父親を殺した、そんな自分に感謝していると。

 この娘は強い。実久の言ってたとおりの、そしてとても愛しい自分の娘であると。

 大人になってから涙は涸れたものだと思っていた。

 人の上に立ち、人を殺め、朝廷の命令だとしてもかつての友や息子すらも手に掛けた。

 自らの心を固く律し、戒め続けてきた。

 だから実久が死んだ時も、泣けなかったのだ。

 そう、もう涙などというものは流す価値もない人間なのだと。

 だというのに瞳から溢れ続けるものを、止める事は出来なかった。

 月姫という最愛の娘、京という最愛の妻。

 二人を強く腕に抱き、実朝は何があってもこの家は守りきると固く誓った。




 春の香りが一面に広がる丘で、一人おぼつかない足取りの女性が大きなしだれ桜を目指して歩いていた。

 ざぁっと風が吹く度に、その見事な花弁をいくつも攫い、散らしてゆく。

 木の根本に辿り着き、背中をその巨木の元に預ける。

 思わず溜息が洩れる。

 自分の体力の無さか、見事なまでの大樹の安心感か。

 きっとどちらもだろうと思い、見上げた。


「貴方の居ない時間を、貴方の生きた二倍、生きてみました」


 澄み切ったまでの青、にかかる僅かな白く薄い雲。

 桃色に色づいた遮蔽物が視界に入る。

 か細い腕を幾重にも伸ばし、その頭を垂れていた。


「多くのものを貴方は残して下さいました。とても幸せな日々でした」


 枝が伸ばした先には五枚もの花の装いを実らせ、仄かに鼻孔をくすぐる甘い香りが漂う。

 遠目にみた艶やかな姿とは想像できないほど、背を預けた幹は逞しく、そして暖かかった。

 その暖かさに一人のとても大きな温もりを思い出す。


「ですが、やはり、心に開いた大きな穴を埋めることは出来ませんでした」


 瞳からは透明な雫が流れる。

 それでもその表情は、どこか満ち足りたように微笑んでいた。

 色素の薄いその唇から、ガラスの風鈴のような声が響いた。



満開の

一人佇み

逢う桜


散る姿とも

恋い焦がれしかな


 背と共に頭もごつごつとした木に預ける。

 すこし痛いと感じたが、それも穏やかな心地よさとなっていく。

 ずるずると背を引きずって地面に座り込む。

 目を瞑り、独り言を呟いた。


「上手に、詠えたかしら?実久………さ、ま」


 ざぁっと一層強い風が吹いて、桃色の花弁を散らす。

 視界を埋め尽くすほどに花々は散る。

 その木の殆どの花が散り、ヒラヒラと舞う様は形容し難い程に美しく、甘美なものだった。

 花びらは月姫の着物の上に降り注ぎ、桜に埋もれるかのようだった。

 永遠に閉じた瞳でとても穏やかに、微笑んでいた。


ある時代劇のリスペクトです。

実久と月姫のいちゃらぶシーンが少なかった……!

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