5 ペットは枕ではありません
ひらひらした服を着せられた私は、そのまままたも魔王に小わきに抱えられて、とある部屋へと連れてこられた。
そこは壁際すべてに本棚が並べられた円形の一部屋で、私が居た檻の吊られていた塔と同じか、それ以上の高さに天井がある。
「今日はこれにするか」
私を抱えたままで本棚から本を選んだ魔王が、それを持ったままで部屋の中央に移動した。
部屋の中央には丸くて大きなクッションみたいなものがあって、それの上にぽんと放られて落ちる。
柔らかかったから痛くはなかったけど、明らかに荷物扱いだ。
ちょっと抗議べきなんだろうかと視線を向ければ、魔王もクッションの上に座ったところだった。
魔王が座っても大きく見えるんだから、このクッションっぽい物体の大きさはかなりのものだ。
「……魔王様?」
それにしてもどうしてこんなところまでつれてきたのだろうか、と思って名前を呼ぶと、本を開いた魔王がちらりとこちらを見た。
その赤い瞳が、光の加減でゆらりと揺れて見える。
「この部屋から出ない限り、お前の好きにしていろ」
そう言い放って、魔王の視線は本へと向けられた。
読書をするんなら、私を連れてくる必要はなかったのではないだろうか。
少しだけそんなことを考えて、私は眉を寄せた。
けれど、ベッドとトイレと絨毯以外には何も無いあの檻へ戻して欲しいわけではなかったから、分かりました、とだけ頷いてから本棚の方へと近付く。
本は、とてもたくさんあった。
図書館みたいな、紙のにおいがする。
本の一つに手を伸ばして、ぱらりと中を捲った。
しかし、そこにあったのは私には理解できない文字の群れで、少しだけ眉を寄せてからそれを閉じる。
単語をどうにか少し覚えることしか出来なかった私には、この本は読むことが出来ない。
せめて絵が付いてる本はないだろうか、と考えながら、本を開いては戻す作業を繰り返しつつ、部屋をくるりと回っていく。
そうしていくつも本を見ては戻して言った私は、ふと目の前の本棚の高い場所に、ぴょこんと飛び出ている本があることに気が付いた。
背表紙がこちらを向いていないから、それがどんな本かは分からない。いや、向いていたとしても読めるとは思わないけど。
少し飛び出しているその様子に、ちょっと中身を見てみたい気になって手を伸ばす。
けれど、この本棚は魔王に合わせて作られたらしく、上段にあるその本には指先も触れられない。
ならば踏み台などはないかと、私は室内を見回した。
けれど、魔王なら届くのだろうから、もちろん部屋の中に踏み台らしきものは見当たらない。
強いて言うなら部屋の中央のあのクッションだけど、現在魔王が使用中だ。
ならばどうするか。
少し考えてから、私は目の前の本棚からごっそりと本を抜いた。
ぱたりと倒れるそれは放っておいて、手が届く範囲の本を抜いて、本棚に足場を作る。
与えられていた靴を脱いで、そっと本棚に足を乗せた。
「ん……っ」
上の本棚に捕まりながら、上へ上へと移動してみる。
本を抜いた棚の一番上までくると、どうにかぴょこんと飛び出した本へ手が届きそうな高さに移動することが出来た。
勝利を確信して、私は本へと手を伸ばす。
それと同時に、ぐら、と本棚が揺れた。
「え」
声を漏らしたところで、どうにもならない。
私が捕まったままの本棚が、ゆっくりと傾いでいく。
このままでは本棚の下敷きだ。
ひんやりと背中が冷えたけど、今本棚から離れてもどうにもならないだろうことは分かったから、私はぎゅっと眼を閉じて、そのまま歯を食いしばった。
「……何をしている」
呆れたような声が掛けられて、本棚の動きが止まる。
斜めに本棚に捕まっていた私の背中にも何かが触れていて、恐る恐る目を開いた私は、それから声の主を見やった。
ついさっきまでクッションに座って読書に勤しんでいたはずの魔王が、どうしてか私の後ろに立っていた。
その片手は本棚をぐいと押しやって元に戻していて、それからその片手が私を本棚から引き剥がす。
「……すみません」
本棚を倒すところだったのでそう謝ると、魔王が溜息を吐いた。
その目が私の持っている本を見て、少しだけ眇められる。
「それが読みたかったのか?」
「あ、や、その……」
どんな本か気になっただけ、なんてちょっと言えない。
問いかけに曖昧な声を漏らした私を見下ろしてから、魔王の手が私から本を取った。
「さっさと他の本を片付けろ」
「あ、はい」
言われて、私は慌てて屈み込んだ。
どれがどの段かは覚えているから、ちゃんと元通りに本棚へと押し込んでいく。
もしかしたら並びはばらばらかもしれないけど、魔王は何も言わないから大丈夫だろう、ということにした。
そうして全部を片付け終えた私の頭に魔王の手が触れて、そのままずい、っと引っ張り歩き出す。
「わ、わ、わわ、わ!」
お風呂に連れて行かれたときと同様に、転びそうになった私は慌てて魔王の後を追いかけた。
辿り着いたのは先ほどのクッションで、魔王がどかりとそこへ座り、私をクッションへ引き倒した。
「うぷっ」
思い切り顔から倒れてしまって、間抜けな声が口から漏れる。
けれど魔王には気にした様子もなく、顔を上げた私の前に、ぽいと先ほどの本が放られた。
「お前はもう、そこで大人しくしていろ」
言い放ちながら、魔王の手がクッションの上に落ちていた大きな本を拾い上げ、さっき私が離れるときと同じように、その本を開く。
うろうろした結果本棚を倒しかけたことは事実なので、私は魔王の言葉通り、大人しくそこに座り直した。
渡された本を手にとって、じっと表紙を見つめる。
やっぱり、なんと書いてあるかは分からない。
よく分からない本を眺め続けなくちゃいけないのは苦痛だけど、自業自得だ。
せめて絵が描いてあるといいな、と思いながらぱらりと本を開く。
そして、そこにあった文字に、私は目を見開いた。
『目次』
そこにあったのは、ただの目次だった。
多分この本は短編集で、だからこそ必要なページだ。
けれど問題はそこではなくて。
目次だ、と私がわかったことが問題だった。
字が読めるのだ。
「これ……」
そこにあったのは、どう見ても日本語だった。
懐かしすぎるそれに泣きそうになって、慌てて本を閉じる。
すう、はあ、と深呼吸をしながらちらりと見やると、魔王はすでに私など眼中に無い様子で読書にいそしんでいた。
それを確認してから、ばくばくと跳ねている心臓を落ち着けて、もう一度本を開く。
見覚えのある童話の名前が並んでいる目次のページを、じっと見つめる。
懐かしすぎるそれが、胸を痛くするくらいに嬉しかった。
+++
本の中身は、童話集だった。
アヒルの子から人魚姫、果ては桃太郎の話まである辺り、国柄は関係ないらしい。
それでもとにかく、日本語を見ることが出来たのが嬉しくて、ページを捲りながら私の目は潤みっぱなしだった。
「……おい」
ぐす、と鼻を啜ってから本の中ほどまで来たとき、声と共に影が落ちてくる。
顔を上げれば、少し離れて座り読書をしていたはずの魔王が、私の方へと近付いてきていた。
赤い目がこちらを見下ろしていて、どうしたのかと思っていれば、その手が私の顔へと伸びてくる。
がしりと右側を掴まれて、親指がごしごしと私の右目の辺りを擦った。
思わず目を閉じたのだが、遅かったらその長い爪が眼球に当たっていたんじゃないかと、瞼に感じるちくんとした感触に思う。
とりあえず抵抗せずにその攻撃を受けていると、指の動きを止めた魔王が私の手元の本を覗きこんだ。
「……そんなに泣ける話なのか?」
訊ねながら、私が持っている本がひょいと奪われる。
「あ……」
思わず追いすがるように手を伸ばした私の前で、少しだけ高い位置に本を持ち上げて中身を見た魔王が、その眉間の間に皺を寄せた。
それはそうだ。ただの童話を読んで泣いているなんて、おかしいにも程があるだろう。
なんて答えようか、と考えをめぐらせようとしたその時に、本を見ていた魔王の視線がこちらへ向けられる。
「……お前は、これが読めるのか?」
「え?」
「読めるのか、と聞いている」
淡々とした問いかけだった。
はい、とそれに対して頷けば、角を二本生やした魔物である魔王が、そうか、とよく分からない表情で呟く。
その手が、未だ本を取り返したくて伸ばされていた私の手へと本を押し付け、ずっと人の顔を掴んでいた左手がようやく離れて、右目をあけることが出来るようになった。
「読んでみろ」
言い放ち、魔王がばふんとクッションに倒れ込む。
腕を腹の辺りで組んだ魔王の言葉に、私はぱちりと瞬きをした。
けれど、どうして、と訊ねる前に魔王がじろりとこっちを見たので、慌てて本を捲る。
ご不興を買わなけりゃ、と言っていた、サンディルタさんの言葉を思い出した。
最初のページは、みにくいアヒルの子の話だった。
それから、人魚姫に白雪姫、シンデレラを読んで、さるかに合戦や浦島太郎。
魔王は角が生えているので、鬼が出る話は必死に避けた。
あんまりにも必死だったので、日本語の懐かしさに浸る余裕もない。
魔王は眼を閉じているから、私が余分にページを捲ったことに気付いた様子は無った。
「……えっと、おわり……です」
そうして最後のページまで捲ってから、彼へ向かって言葉を零す。
奥付らしいページには見たことの無い文字が並んでいて、それから目を逸らすように本を閉じた。
私の言葉を聞いた魔王が、ゆっくりと目を開いて、その視線をこちらへ向ける。
「……何処が泣けたんだ?」
とても不思議そうな声だった。
え、と声を漏らした私の前で起き上がって、魔王の手がまたも私から日本語で書かれた本を奪う。
「あ、あの……」
「ふん」
そのままぽいと放られて、私は思わず本の行方を見送った。
クッションが無い場所へ落ちた本は、ずるずるとその場で回転しながら少し滑っていって、クッションと本棚の中間辺りでその動きを止める。
あんな風に乱暴に扱うくらいなら、あれを私にくれないだろうか。
そう思って見つめた私の顔を、がし、と何かが掴む。
何かというのはもちろん魔王の手で、ぐいと引っ張られて顔をそちらへ向けさせられて、私は正面から覗き込んでくる魔王の顔をじっと見上げる形になった。
赤い瞳は炎のように光を弾いていて、燃え滾るような色合いを銀色の睫が縁取っている。
髪も眉毛も銀色一色で、その頭からは立派な角が一対生えている。角の形はまっすぐじゃなくて、波打つような形をした太いものだ。
かなりの美形に見えるんだけど、見つめられてもときめくんじゃなくて、食べられるんじゃないかというような恐怖を感じて、心臓がばくばくと揺れる。
私の目に怯えを見つけたのか、魔王が少しだけその目を細めた。
「俺が怖いか」
低い声が、そう訊ねてくる。
それを受けて、私はこくこくと思い切り頷いた。
魔物を統べる魔王が、怖くないはずが無い。
目の前のこの魔物は、私の命を握っているも同然なのだ。
私の答えを見た魔王は、ふん、と鼻を鳴らしてから、私の顔を掴んでいた手を滑らせて、そのままするりと人の首元まで辿っていく。
くっと掴まれて、私の首はその掌に収まってしまった。
どく、どく、どく、と心臓が波打つのを耳の奥に聞きながら、私は目の前の魔王の様子をじっと見つめる。
私の顔を見ていた魔王は、それからゆっくりと口元に笑みを浮かべて、そのまま私の体をクッションに押し付けた。
「わっ」
ぽすんと倒れこまされて、驚いた声を上げたところで、首に触れていた手が離れる。
驚き起き上がろうとしたところで、何か重たいものが腹部に落ちてきた。
「ぐふっ」
思わず変な声を漏らしてしまってから、私は恐る恐るそこを見る。
倒れさせた私の腹部に、仰向けになった魔王の頭が乗っていた。角が宙へ向かって突き出されている。
「……ま、魔王、様?」
そっと呼びかけるけれど、魔王は気にした様子もなく、その手で自分が読んでいた本を持ち上げて、仰向けのままでぱらりと捲る。
「静かにしていろ」
どうやら人のことを枕にしようと考えたらしい魔王の下で、私は胸のうちでだけ溜息を吐いた。
しかし、まさか重いとその頭を放り出すわけにもいかない。そんなことをしたら、今度こそ食べられてしまうかもしれない。
仕方なく体の力を抜いて、真上を見上げる。
高い高い天井があって、明り取り用の窓が壁上部の両端にあり、そこから入り込んだ明るさがここまでを照らしている。
早く私に飽きて、食べようとは思わずに逃がしてくれないだろうか。
そんなことを考えながら、私は魔王が本を一冊読み終えるまで、その枕にされ続けたのだった。