2 騙されました
ごうごう、と炎が村を舐めていく。
何が起こったのか分からなくて、私はそれを見やった。
私がこの世界にきて、もうかなりの時間が経つ。
夕闇に包まれた村には今、赤い炎が燃え盛っていた。
魔物だ、と誰かが叫んで、ばたばたと走って逃げていく。
女の人の悲鳴も聞こえるし、助けて助けてと叫ぶ人も居る。
村のずっと向こうに、羽を広げる爬虫類が炎を吐き出すのが見えた。
目の色までは見えないけど、真っ赤なうろこをしている。
あれって、ドラゴンだろうか。
あまりにも現実感がなくて、私は眉を寄せた。
けれど、炎の音は本物だ。熱いし、風が焦げ臭い。
「ミツ! ほら、おいで!」
声を掛けてきたティアルダさんが、そうして私の手を引いた。
ぐいぐいと引かれるままに駆け出したところで、視界の端に泣いている子供が映る。
それを見たとたんに足が止まって、そのままティアルダさんの手を振り払った。
「ミツ!?」
「先に行ってください、すぐに追いかけますから!」
驚いたようにこちらを見たティアルダさんに言い放って、先ほどの子供のところへと足を向ける。
小さなその子は女の子で、人形を抱えたまま顔を伏せて、物陰で泣いていた。
「ねえ、大丈夫!?」
すぐさま近付いて、きょろりと周囲を見回す。
周りに親らしい人の姿は見えない。
もしかして、こんなにも小さな子供を置いて逃げたんだろうか。
それだったら避難所へ連れて行けばいいだろうけど、もしこの子を探して火の中に飛び込んでいたりなんかしたら、と思うと胸が痛くなる。
とりあえず屈みこんで、私は女の子の顔を覗き込んだ。
「ね、泣かないで? ほら、お姉ちゃんがだっこしてあげるから」
とりあえずこの子を先に避難させようと、そう思って子供に触れる。
その手を、がし、と子供が掴んだ。
女の子の泣き声は消えていて、え、と声が漏れる。
子供の力とは思えないくらいに強く手を握られて、引き剥がせない。
「ちょっと……」
「賭けは俺の勝ちだぜぇ、アルフォルトぉ」
ニタリ、と女の子が笑った。
そしてその口から漏れたのはひび割れたような男性のもので、驚いて眼を見開いた私の前で、女の子が髪をざわめかせる。
「なんだ、いまどき奇特な奴がいるもんだな」
真上から声が落ちて、振り仰げば、ずっと遠くに居た筈のドラゴンっぽい魔物が、建物の上から私達を見下ろしていた。
息を吐くたびに、その口元から小さく炎が吹き出ていく。
「女なんてのは単純だし、庇護欲が強ぇえからなぁ。とりあえず賭けた通りぃ、捕まえた連中を先に喰うのは俺だぜぇ」
「まあ、五匹は捕まえたからな。好きにしろよ、ベルティルデ」
そんな会話を聞きながら、自分がどういう事態に陥っているかをようやく把握して、私は正面に視線を戻した。
目の前の女の子が、ばきばきと音を鳴らして背を伸ばし、その体を異形へと変えていく。
つりあがった金色の目が私を見下ろして、その口が裂けたような笑みを浮かべる。
「じゃあなぁ、諦めろよ、お人よしぃ」
つまり……私は、騙されたのだ。
+++
化け物みたいな奴とドラゴンっぽい奴に捕まった私は、そのまま村から連れ去られた。
場所はよく分からないけれど、連れてこられたのは洞窟の奥地で、檻の中には私以外にも何人かの人が居た。
それぞれが絶望的な顔をしていて、怯えたように端に縮こまっている。
「美味しく頂いてやるぜぇ」
ニタニタと笑った化け物が私を突き飛ばして、そのままゆっくりと歩みを進め、奥でがたがたと震えている女性に向かった。村で見たことがある人だ。名前は知らない。
「ほら、こいよぉ」
「いや、やめ……っ!」
「大丈夫、痛いことはしねえよぉ? ちょーっと齧って、舐めて、啜って、食べつくすだけだぁ」
小さな子を唆すような言葉に、いやぜんぜん大丈夫じゃないだろう、と思った。
けれど、それを止めることなんて出来ない私は、そのまま化け物が女の人を引き摺っていくのを見送ることしか出来ない。
先ほど私が入ってくるときに開かれた檻の扉が、ぱたんと閉ざされる。
「いや……いやぁああああああああ!」
女の人の悲鳴が響いて、そして消えていった。
しん、としたその場所で、改めて私は周囲を見回す。
暗いけど周りが見えるのは、洞窟の壁に生えているコケの所為だろうか。
私を除く四人は、全員男性だった。
怪我をしている人もいるし、服がこげている人もいる。
見たことがある顔もあるけど、名前は分からない。
それぞれが絶望的な顔をしているのを見てから、私はそっと端へ移動して、そこで膝を抱えた。
さっきの化け物は、多分『魔物』だ。
ドラゴンっぽい『魔物』に呼ばれていた名前は、確かベルティルデ……ベルティルデ、さん。
ドラゴンっぽい奴はなんだっけ。アルフォンス……じゃなかった。確か後ろにはトが付いてた。
とりあえず、ベルティルデさんの言うことからすると、私達は彼らに食べられてしまうんだろうか。
ぞく、と背中を走った冷たさに、そっと眉を寄せる。
手を振り払ってしまった、ティアルダさんを思い出した。
優しい人だから、きっと私のことを心配しているだろう。
「……」
こんな、家族も居ない世界で、私は死ぬんだろうか。
そう思うと、怖くてたまらない。
心臓が痛い。
泣きそうだけど、何に対して涙が出そうなのかも分からなくて、ぎゅっと拳を握ってそれに耐えた。
きっと、他の人も私と同じ感情を抱いているんだろう。誰も何も言わないまま、しんとした部屋の中に、ぴちょんぴちょん、と何処かで水が落ちる音がした。
そうして押し黙ったまま、十分も過ぎた頃だろうか。
ふと気付いて、私は檻の扉を見やる。
扉には、鍵が付いていない。
なら、出られるんじゃないだろうか?
ここがどこかは分からないけど、ここで座っていても食べられるだけなら、檻から出て逃げるほうが得策だ。
そっと立ち上がって、扉へ近付く。
「……おい、何してるんだ」
私の動きに気付いたのか、隅に座っている男性の一人が、私へそう声を掛けた。
立ち止まって見やれば、私のほうを見ている男の人が、軽く首を横に振る。
「その扉には術が掛かっている。開けられないよ」
無駄なことは止めなさいと諭すように言われて、だからこの人たちもここに残っているのか、と私は納得した。
それから、その、術が掛かっているらしい扉を見る。
でも、今いちそう見えない。
そうっと手を伸ばして、扉を掴んだ。
そのまま、ぐい、と押しやる。
すると、扉はなんの抵抗も無く開いて、きぃい、と少しさび付いた音を立てた。
「…………あれ?」
言われたことと違うぞと首を傾げてから、私は後ろを見やる。
そこには、あっけに取られたような顔をした男の人たちが居て、ぱちりと瞬きをした。
「えっと……もしかして、さっき、術っていうの掛けていくの、忘れたんですかね?」
鍵の掛け忘れみたいなものだろうか、と思いながら訊ねる私を見ていた男の人たちが、ふらふらと立ち上がる。
「……開いた……」
「出られる……」
「出られるぞ!」
「急げ!」
そうして全員で声を上げて、四名が私の居るほうめがけて駆け出してきた。
「わ、ちょ、」
「退け!」
先頭の男の人にどん、と突き飛ばされて、背中を壁にぶつける。
「いたっ!」
悲鳴を上げて思わず閉じた眼を開いたときには、もうそこには誰もいなかった。
ばたばたと掛けていく足音が、どんどん遠くなる。
慌てて体勢を戻して、私も彼らの後を追いかけた。
ものすごい勢いで走っているらしく、足音はどんどん遠ざかって、やがて聞こえなくなる。
「うっわ……ひどい……」
駆けても追いつけないと分かって、息を弾ませながら足を止めた私は、そのまま少しだけ深呼吸をした。
かび臭い空気に眉を寄せるけど、息を整えないとどうにもならないから我慢する。
すう、はあ、と数回の深呼吸の後で、止まっていた足をゆっくりと動かした。
なだらかな坂になっている道を辿っていくと、なぜか道は二つに分かれている。
「……こんな道、あったっけ?」
連れてこられたときに見た覚えが無い道に、私は首を傾げた。
耳を澄ましても男の人達の足音は聞こえないから、どっちが正しいのかも分からない。
目を凝らせば足跡が見えるかと思ったけど、人か魔物の出入りが激しいらしい洞窟の足元にはコケなんて生えていなくて、それで確認するのは難しいかった。
とりあえず、上から下へ来たことだけはわかるんだけど、どっちも上にしか繋がっていないようだ。
道の選択に失敗すると、下手をすれば魔物に出会いかねない。
どうしようかな、なんて考えて、ううん、と小さく唸る。
「……驚いたな」
そして後ろから声をかけられて、私はびくりと体を震わせた。
こんな場所で声をかけられるなんて、怖い以外の何者でもない。
恐る恐ると振り向いて、そこに居る相手を見やる。
驚いた、という言葉の通り目を丸くしているその人は、人間の姿をしていた。
赤くて長い髪がウェーブを描いて肩から零れていて、顔立ちも結構格好いい。
けど、素敵ですねなんていえるような状況じゃなかった。
こんな洞窟で遭遇する人が普通の人間なわけが無いし、何よりその人の頬に、私の掌分くらいの範囲で、びっしりと赤いうろこが張り付いている。
明らかに、人間じゃない。
「どうやって檻から出た?」
ゆっくりと近付いてくる相手に、一歩後ずさった。
「ひ……開き、まし、た」
とにかく答えないと何をされるか分からないと思って、私はそう言葉を返した。
私の言葉に、目の前の彼が少しだけ目を細めたのが分かる。背がすごく高い。私より頭二つ以上は上だ。
開いた? と不思議に呟いてから、彼は首を傾ける。
「あの檻には術が掛けてあった。それを、開いただと?」
問いかけられたって、実際そうなんだから、私には頷くことしか出来ない。
私の顔を見ていたその人は、それからすぅ、と息を吸い込み、そして口を開いた。
きぃん、と耳鳴りがして、私はただ眉を寄せる。
人間の喉から超音波なんて出せるだろうか。
いや出せない。
やっぱり明らかに人間ではない男の人が、数秒を置いて口を閉じる。
それから、ふむ、と頷いた。
「確かに、檻が開いているな。術も消えている。お前が消したのか?」
「そんなこと、してません。押したら、開きました」
首を横に振って答えて、私はもう一歩後ろへ下がる。
できれば今すぐ一目散に逃げ出したいんだけど、どっちが正しい道だろうか。
ふむふむ、とまたもや頷いてから、目の前の男の人は私を見て、それから、私の後ろを見た。
「どう思う、ベルティルデ」
「どうもこうも、突然大声出すから何かと思ったらよぉ」
後ろから落ちた声にびくびくっと肩を跳ねさせて、私は後ろをちらりと窺った。
そこに立っていたのは、先ほどあの檻から女の人を引き摺っていった、私を騙した魔物だった。
いつの間にか私は通路の片方に背中を向けていて、そこから彼が出てきたらしい。
息をつめて体をずらそうとしたところで、近付いてきたベルティルデさんが私の両肩を掴む。魔物らしくその力は強くて、私の体をそこに固定した。
逃げらない状況に、背中がひんやりと冷えていくのが分かる。
怖い。
怖い怖い怖い怖い。
「とりあえず、こいつは魔王様のところへ持っていこうぜぇ、アルフォルトぉ」
そう言い放った後ろからの声と、そうだなと頷く目の前の魔物に、それってあのドラゴンっぽい魔物の名前だった気がする、とかそんなずれた事しか考えられないくらいには、怖かった。