1 現在平穏に生活中
初めての投稿です。
よろしくお願いします。
異世界トリップ、という設定があることは知っていた。
友達が貸してくれたライトノベルのいくつかにも、その設定が使われてたから。
「こういう非現実的な話っていいよねー」とか話して、『異世界に行っちゃうやつ』って言った時に、『異世界トリップ』って単語を教えてもらったんだ。
まあとにかく、普通に暮らしてた人が、ある日突然全く知らない世界へ弾き飛ばされて、そこで重大な使命を負う『設定』を、私は知っていた。
知ってはいたが、しかし。
「……私は手違いなんじゃないだろうか」
あの日から何度呟いたかも知れない言葉を呟きつつ、私は水桶を見下ろした。
ついさっきくみ上げた井戸水が中に入っていて、ゆらゆらと揺れている。
手を入れたら冷たくて気持ちいいことは知ってるけど、これは飲み水になるから、そんな汚いことはしない。
「よいしょっと」
手を伸ばして桶の取っ手を掴み、そのまま持ち上げる。
両手でどうにか持てる程度の重さのそれを揺らしながら、私は本日二度目になる帰路を歩いた。
長いスカートが足に纏わり付くのを、蹴り飛ばすようにしながら歩く。
本当はパンツルックになりたいんだけど、そういう服は男性のものだから、私はもらえていない。
ゆっくりと歩きながら、私は周囲を見やった。
牛を引いて歩いていく人、果物を並べて客を呼び込む人、行き交う行商人、きゃあきゃあ騒ぐ子供たち。
何処にでもある、のどかな風景だ。
ここが日本ではないという前提を置けば。
「…………はぁ……」
溜息をこぼし、私は桶の取っ手を握る手に力を込めた。
この大陸は、レニアと呼ばれているらしい。
そんな地名、私は日本で生きてきて一度も聞いたことがない。
普通の女子高生だった私は、いつものように駅へ向かって歩いていた。
いつもと同じビルの側を歩いて、今何時だっけと携帯に触れようと鞄に手をやったそのとき、急にぐらぐらと世界が揺れた。
それは大きな地震で、地震だ! って叫ぶ男の人の声とか、女の人の悲鳴も聞こえた。
立っていられないほどの横揺れに転んで、更にそのまま体が横に滑るような感覚があって。
あれは確実に震度4とかそんなものじゃないと思う。
それからふと物音を感じて上を見やった私は、ビルのガラスが割れて、自分のところへ降り注いでくるのを見た。
ゆっくり落ちてくるように見えたガラスはとてもいっぱいで、大きくて、鋭そうで、絶対死んだと思った。
なのに死なないまま、気付けば私は野原に落ちていたのだ。
倒れて気絶していたらしい私を起こしてくれたのは、ちょうど通りかかったという行商人のおじさんで、私は生まれて初めて馬車に乗ってこの村まで送ってもらった。
茶髪で青い目の、明らかに外国人っぽいおじさんだったけど言葉は通じたから、私はそのとき感じた質問を全部ぶつけた。この大陸がレニアって名前だと教えてもらえたのもそのときだ。
おじさんにとってはおかしな質問をしていた私のことを、おじさんは魔物に襲われて記憶を失ってしまったかわいそうな子、だと思ってくれたらしい。
そのままおじさんの知り合いに預けられて、今に至っている。
「ミツ、どこへいくんだい?」
ぼんやりと歩いていたらどうやらいつもの戸口を通り過ぎていたらしく、そう声が掛けられた。
慌てて振り向けば、茶色の髪で青い瞳をしたおばさんが、私のほうを見て小さく笑っている。
行商人のおじさんから私を預かってくれた、ティアルダさんだ。
「あ、ごめんなさい」
慌てて踵を返して、私は彼女が佇んでいる戸口へと近付いた。
身を引いてくれたティアルダさんの横を通って、戸口から中へと入る。
そこは台所で、今の戸口はよくいう勝手口というやつだ。
さっきと同じように台所の角にある水瓶へ近付いて、それから両手で持ち上げた水桶をその上で傾ける。
じゃばあああ、と音を立てて、綺麗な水が中へと転がり込んでいった。
「ご苦労様。今日はこれで大丈夫よ」
私の横から水瓶を覗き込んで、ティアルダさんがそう言った。
「はい、わかりました」
そう答えてから桶を下ろして、いつもの場所へと片付ける。
それから振り返って、私はティアルダさんを見た。
「次は何をしますか?」
「アンタはそればっかりだね」
訊ねた私に、ティアルダさんが苦笑する。
今のところはもう用事は無いよ、と寄越された言葉に、そうですか、と肩を落とした。
この家に引き取られてから、もう三ヶ月が経つ。
得体も知れない人間を引き取ってくれたんだから、できるだけ役にたちたいと思っていた。
だって、私が居るだけでエンゲル係数も上がったろうし、私が今着ている服はティアルダさんがくれたものだ。
どうやら私が着ていた学生服はこの世界では破廉恥らしく、一度取り上げられてしまって、もう着ないことを条件に返してもらった。
ティアルダさんが用事は無いというのなら、何か自分で仕事を探したほうがいいんだろうか。
そんなことを考えていたら顔に出ていたのか、目の前のティアルダさんが溜息を吐いた。
「いい、ミツ。私は女中を雇ったわけじゃないんだから、そうかしこまらなくていいんだよ?」
言い放たれて、それは分かってます、と頷く。
そうしてティアルダさんを見つめると、私の目を見返した彼女が、仕方無さそうに笑った。
「それじゃ、これから昼食まで、アンタは部屋で文字の勉強をしていなさい。まだ思い出していないんだろう?」
「……はい」
言われた言葉に頷いて、私はティアルダさんの前から足を動かした。
ありがたいことにもらえた部屋へと移動して、中に入ってから小さなテーブルへ向かう。
そこにおいてあるのは付けペンと長い紙と一冊の本で、昨日と同じ椅子に座ってからそれを見下ろし、うーん、と小さく唸った。
「…………まさか、この年になって文字を覚えなおすなんて……」
やれやれと息を吐きつつ、本を手に取る。
言葉は通じたというのに、私は文字が読めなかった。
それはティアルダさんからお使いを頼まれたときに発覚したことで、メモを渡されても読めなかった私がそう申告したとき、ティアルダさんは変な顔をした。
それでも、すぐに何かを思い出したように顔を曇らせて、そっと頭を撫でてくれた。
多分、おじさんが言っていた『記憶喪失』っていうのを思い出したんだろう。
騙してるようで気が引けるけど、それ以外にちゃんとした理由を話せないから、まだ否定したことはない。
だって、異世界から来ましたなんて、うさんくさいにも程がある。
怪しい奴だって分かったら、いくら優しいティアルダさんだって私を追い出すだろう。
卑怯者な私は、自己保身の為に彼女に嘘をついて、その代わり尽くすことを選んだのだ。
なんて、胸のうちで呟いてから、私はぱらりと本を捲った。
中身は文字を習う小さな子供向けのもので、分かりやすいイラストの横に、それが何であるかを示すものが書かれている。
まずは単語を覚えなくちゃいけないから、私はそれを見つめ、そしてペンを掴んで紙の上に滑らせた。
言葉は通じるから、その絵が何であるかは初日にティアルダさんに聞いてある。
「りーんーご、っと」
さらさらと書いてみる。
一応そっくりに書き写してから、隣に何回も同じようにその文字を書いた。
どう見ても四文字なんだけど、これを発音すると『りんご』になるのだ。
成績は悪かったけど、せめて英語だったら良かったのにな、なんて思いながら、同じ作業を二ページ分続けると、長かった紙は殆どが埋まってしまった。
「んー……っ」
軽く伸びをしながら、インクが乾くのを待つために紙を机の上に大きく広げる。
帰る方法が分からない以上、私はこの世界で生きていかなくちゃいけない。
そのためには生活に必要なことを覚えていかなくてはならないのだと分かっているけど、文字の勉強は一行に進んでいなかった。
絵と一緒に見ればそれが何かは分かるけど、文字だけ見てもすぐには分からない。
これじゃ文法なんてまだまだだ、と思うとちょっと絶望的な気分になる。
「……いやいや……私はやれば出来る子……やれば出来る子だ……!」
ちょっと自分を奮起させてから、私は教科書代わりの幼い本を両手で持った。
とりあえずインクが乾くまでの間も本を読んでおこうと、何度も捲ったページをぱらぱらと捲る。
描かれている絵が何のことなのかは殆ど分かる。
りんごも馬も卵も、私が知っているものと違わない。
時々王様とか城とかお姫様とか王子様が出てくるけど、この辺は許容範囲。
魔法って単語も、まあいいかなと思う。
しかし、これはどうだろうか。
「……まもの」
奇怪な生きもののイラストを見つめて、ぽつりと呟く。
その横にはおどろおどろしい黒い影のイラストがあって、それは『まおう』だった。
詳しくは知らないけど、この世界には魔王が居て、そいつが操る魔物があちこちを歩いているらしい。
行商人のおじさんは私のことを魔物に襲われた人間だと疑っていなかったし、ティアルダさんもそうらしかった。
それから、この村からかなり離れたところには王都があって、そこにはお城があって王様が居て、魔王を倒す勇者が現れるのを待っているらしい。
「……とてつもなくベタだよね」
まるで、ゲームとか絵本とか小説とか漫画とかアニメとか、そういう類の世界だ。
だとすれば異世界人な私こそその勇者なんじゃないかと思ったけど、勇者と言うのは金髪の男であることが確定しているらしいので、私は該当しない。いや、該当したくはないけど。魔王と戦うとか怖すぎる。
けれど、ならばどうして私はこの世界に居るんだろうか。
夢なんじゃないかと思って頬を摘んでみても、痛いだけで目は覚めない。
おなかはすくしご飯は美味しいし、お風呂も入るしトイレも入る。ここ三ヶ月のことはしっかり覚えているし、手には水桶を運ぶようになって出来た豆だってある。
夢だというのなら、もう覚めたっていいのに。
けれど目が覚めないということは、きっとここは現実なのだ。
「…………私は何かの手違いなんじゃないだろうか」
ぼんやりといつもの言葉を呟きながら、私はそっと本を閉じた。
もしかしたらあの時、私のすぐ近くに勇者になるべき人がいて、その人が連れてこられる場所に私は連れてこられたんじゃないだろうか。
そこまで考えてみるけど、確証をもてないものだからなんとも言えない。
とにかく私に出来ることは、帰る方法が見つかるまで、この世界で生きていくことだけだ。
本当は、今すぐにでも帰りたい。
帰って、お父さんやお母さんに会いたいし、友達とも話がしたい。
本当に、この世界が夢だったらどんなに良いだろう。
はぁ、ともう一度溜息を吐いてから、私はちらりと窓を見やった。
窓の外は青空で、いつものように眩しく太陽が輝いている。
そっと手を伸ばして紙に触れて、インクが乾いているのを確認してから、私はそれをくるりと裏返した。
そして、雑念を払うべく写経するお坊さんみたいに、本から単語を書き写していく。
ご飯だよとティアルダさんに呼ばれるまで、私はその作業に没頭した。
そうやって、私は平穏に、異世界で生きていた。