王命での婚約だったはずが、相手は幼い頃に出会った初恋の人でした
「はあ……」
いつもよりも丁寧に飾り立てられた自分を見て、エルシェはため息をつきそうになるのを我慢した。甘い焼き菓子を思い起こさせるビスケットカラーの髪をいつもよりも念入りに巻いてハーフアップにまとめ、耳元に小さな真珠の耳飾りを添えた。小ぶりな唇に髪色に合わせた淡い色の紅を差した自分の姿は少しだけ大人びて見えた。これから向かうのは最近王命により決まった婚約者との初めての顔合わせだ。
エルシェの家——ファンデルメール伯爵家を襲った災害からの復興のため、エルシェは王命によってヴァンリート侯爵家に嫁ぐこととなった。
ファンデルメール領は交易の街で、王都や主要都市に繋がる交易路が通っていたが、先の災害によってその多くが寸断されたため、物流に大きな影響が出ている。これでは国民の生活が脅かされかねないとのことで、整備を急いでいるものの、物資を運ぶルートも限られており復旧が遅れている。そこで、国有数の技術力と潤沢な資産があるヴァンリート侯爵家と王命によって縁付かせ、人手や資材の融通、資金援助により早期の復旧をはかろうとしているのだ。
ヴァンリート家もヴァンリート家で利がないわけではない。ファンデルメール家が保有している交易路を侯爵領の商隊の優先利用権および通行税の一部免除を約束している。
とはいえ、ファンデルメール家の命運を握っているといっても過言でない今回の婚約。たとえ婚約者に愛されなかったとしても絶対に成功させなければならない。エルシェはきゅっと手を握り締めた。
「はじめまして、ユリアン・ヴァンリートです。よろしくお願いいたします」
「エルシェ・ファンデルメールです。よろしくお願いいたします」
ヴァンリート侯爵家のお屋敷は派手さを誇示するような造りではない。けれど、長い年月を経た名家の余裕を感じさせるものだった。
通された部屋も落ち着いた色合いの絵画が飾られ、調度品も品がよく、無駄な装飾はほとんどなかった。
そこで紹介されたのが、佇まいから洗練されたユリアンだ。エルシェだって交易の要であるファンデルメール家出身だ。流行にだって敏感である。しかし、ここ数ヶ月は自分に構う余裕がなかったのもあり、自分では場違いなのではと急速に心が萎んでいくのを感じた。
「特に被害が大きいのは王都につながる街道の橋の陥落だと聞きました」
ユリアンが静かに切り出した。
「場所が場所だけに早く復旧させなければならないのに、道も被害を受けている関係で資材の搬入にも遅れが出ているとか……」
ここまで把握しているとは思わず、エルシェは目を見開いた。
「そうなんです。迂回路を通らねばならずなかなか」
「王都に続く道の復旧が遅れるとなると、領民の生活にも影響が出るのがなによりも苦しいところですね」
案じるような目線に胸の奥が少しだけ熱くなる。これまで復旧に向けて家族一丸となって対処しており、エルシェは常に張り詰めた気持ちでいた。「大変ですね」と声をかけられることはあっても、やはりどこか他人事で。気遣ってもらえただけでありがたいことではあるが、領民のことまで自分と同じ目線で気にかけてもらうだけで、こんなにも肩の力を抜くことができるものなのかと思った。
華やかな紅茶の香りに、穏やかで心地の良い会話のテンポ。ユリアンとの時間は予想外に心安らぐもので、初めは使命感でガチガチだったエルシェの気持ちがやわらかく解けていくのを感じた。
そこからお互いの領地の話や趣味などを少しずつ語り合った。
ふと、ユリアンの表情があの時の少年の面影と重なった。印象的な翠の瞳、光を含むように柔らかな淡い金色の髪。もしかして、とエルシェはこくりと唾を飲み込んだ。
「あの、もしかして、昔エーデルの静養地にいらしたことは……?」
「え……、どうして。君がそのことを?」
驚いたように目を見開く姿に、エルシェの胸が跳ねる。実は……とエルシェが続けようとしたところ、パタパタと軽やかな足音が響いた。
振り返るより先に「お義兄さま!」という声とともに少女が部屋に飛び込んできた。
赤みがかった金色の髪に意志の強そうなガーネットの瞳。愛らしい少女がユリアンの腕にギュッと抱きついた。
「ロッテ、お客様の前だ」
ユリアンは困ったように笑いながら、そっと腕を外す。
「彼女はロッテ・ヴァンリート。わたしの義妹だ」
「ふぅん、貴女がお義兄さまの婚約者?」
「はい、初めましてロッテ様。エルシェ・ファンデルメールと申します」
ロッテは品定めするようにエルシェを見つめたあと、当たり前のようにユリアンの隣に腰掛けた。
「……ロッテ」
ユリアンはロッテを嗜めるように小さく声をかけたが、ロッテはどこ吹く風だ。自分の分のお茶を用意してもらい、当然のようにそこに収まっている。
いささか距離感が気になったものの、こういう関係性の家族もいるのだろう。エルシェは胸に生まれた小さな違和感にそっと蓋をした。
それよりも気になっていたのはエーデルの地名を聞いた時の彼の表情だった。
◇
帰宅途中の馬車に揺られ、エルシェは今日の顔合わせを反芻していた。
エーデルについて尋ねた時のユリアンのあの表情。あれは、心当たりがある顔だった。
もしかして、もしかするのではないだろうか。
エルシェが小さい頃、病弱だった兄の付き添いで数ヶ月間滞在していた療養地エーデル。
当時のエルシェは今よりずっとお転婆で、暇を持て余してはこっそり抜け出して、野原や森を駆け回っていた。
そこで出会ってしまったのだ。森の奥にあるお気に入りの湖。そこに遊びに行ったときに、ひとりの男の子が座り込んでいた。
陽の光を溶かしたような淡い金色の髪に、吸い込まれそうな翠の瞳。
まるで物語の中の王子様みたいだと思った。
「あなたはだあれ? 物語に出てくる王子様?」
「うるさい! あっちに行け!」
ぎゅっと本を抱きしめ、拒絶するように言う彼の瞳は、ぽっかりと穴が空いたように寂しげだった。その瞳を見たエルシェの胸に、切なさが込み上げた。
そんな彼をなんとか元気づけたい一心で、エルシェは思いつくまま自分のことをたくさん喋った。昨日見つけた綺麗な花畑のこと。今日のおやつのアップルタルトが美味しくてほっぺが落ちそうだったこと。それを兄に話したら、「お前は食べ物の話しかしないのか」と呆れられたこと。はじめは鬱陶しそうにしていた彼が、ふと小さく笑ってくれたのがうれしくてうれしくて。そんな顔をもっと見たくてエルシェは色々おしゃべりしてしまった。
ひとしきり自分の話をし終わったあたりで、どうしてこの湖にいたのかと尋ねたところ、滞在先の屋敷から飛び出て森に迷い込んでしまったらしい。
それなら任せて!とエルシェは胸をぽんと叩いた。エルシェにとってこの小さな森は、自分の庭みたいなものだ。
彼の手を引いて森から出ると彼のおばあさまらしき女性が侍女と共に不安げな表情でいるのを見つけた。
「おばあさま!」
男の子が駆け寄ると、女性たちが安心して涙ぐむ様子が見えた。よかったよかったと達成感でエルシェがにんまりしていたら、くるりと振り返って再びエルシェの元にやってきた。
「ありがとう。良かったら、これ」
「わあ……!」
彼が差し出してくれたのは綺麗なお花の栞。とても可愛くてエルシェは思わず目を輝かせてしまった。
「それなら、わたしも!」
エルシェはしゅるりと自身のお気に入りの若葉色のリボンを解き、彼に差し出した。少し驚いた顔をした後、大事そうに受け取ってくれた。
また会えるかな、と何度か森の湖に向かった。しかし、彼に会うことなく日々が過ぎ、ついにエルシェが家に帰る日が来てしまった。
馬車の窓から覗く青空があの日の空を思い起こさせる。
森の湖での出来事はエルシェにとって宝物みたいな思い出だ。いつかまた会いたいと願いながら、もらった栞を大切に持っている。
もし本当にユリアンがあの時の男の子だったら。義務感しかなかったはずの婚約が、少しずつ別のものに変わっている。エルシェは胸の奥が落ち着かず、そっと胸元を押さえた。
◇
次に二人が会ったのはエルシェの屋敷だった。ファンデルメール家への支援に関する打ち合わせにユリアンも付いてきたのだ。
「前回は申し訳ない。義妹が邪魔をしてしまった」
席につくなり、申し訳なさそうにユリアンは眉根を下げた。
「とんでもないです。ご兄妹仲がよろしいのですね」
「そう言ってもらえるとありがたいよ。五年ほど前に父が再婚して、今の母上の連れ子なんだ」
穏やかな口調だった。しかし、そう言った彼の瞳にふと影がよぎったように感じた。
——五年前。エルシェがエーデルの地であの男の子と出会った少し後になる。
「前回、君がエーデルについて聞いてくれただろう?」
ユリアンはそっと目を伏せ、続けた。
「あの頃、私は母を亡くして塞ぎ込んでいてね……。心配した父が少しでも落ち着けるようにと母方の祖母に頼んであの地で静養させてもらっていたんだ」
ああ、だから。あの時の彼は、あんなにも悲しそうだったのか。エルシェは胸がきゅうっと苦しくなり、膝の上で手を握りしめた。
「やはり、君が森の湖で出会った子なんだね」
どこか確かめるような口調でユリアンが尋ねた。
「はい。またお会いできて嬉しいです。ユリアン様」
嬉しさと少しの気恥ずかしさでエルシェの頬がほんのりと色づく。
「あれからエルシェ嬢の兄君のお加減はどうだい?」
「もうすっかり元気で、兄嫁と共に父に教わりながら領地経営の補佐をしています」
まるで会えなかった時間を埋めるように、二人は次から次へと言葉を交わした。気づけば空が茜色に染まり始めていた。
「もうこんな時間か。エルシェ嬢、今度我が家に来られる際は、アップルタルトを準備しておくよ」
「まあ、覚えてらしたのですか」
「ああ、私にとってあの日は大切な思い出なんだ」
少し照れたようにはにかむユリアンに、エルシェの胸が小さく跳ねる。
あんな些細なことまで覚えてくれていただなんて。
ユリアンが帰ってからも、エルシェは彼の表情や言葉が何度も頭の中によぎってそわそわと落ち着かない気持ちになってしまった。
会えない間、ユリアンとエルシェは何度も手紙を交わした。
ユリアンからは、領地の復旧の進捗を気遣う言葉や、エルシェの体調を案じる言葉が丁寧に綴られている。それだけでなく、忙しい父や兄に代わって、現場に訪れて調整役を担っているエルシェが気を抜けるよう、彼は時折自領で起きた他愛もない出来事を添えてくれた。静かな文字から滲み出てくる、押し付けがましくない彼の優しさがじんわりと伝わってきてエルシェの頬は自然と緩んでしまう。
いつしかエルシェはユリアンからの手紙を心待ちにするようになった。
穏やかに、けれど確実に二人が交流を重ねていったある日、ヴァンリート侯爵家主催の親族茶会が開かれた。
「初めまして、ファンデルメール伯爵家の長女、エルシェでございます。みなさま、今後ともよろしく存じます」
ユリアンの親戚たちを前に少し緊張しながら挨拶をする。ちらりとユリアンを見やると、お疲れ様とばかりに優しく微笑んでくれた。
「まあ、なんて可愛らしいお嬢さん」
「二人でヴァンリート家を盛り立ててくれ」
侯爵家に連なる方々からの反応は悪くなさそうだ。第一関門は突破かしらとエルシェはほっと胸を撫で下ろした。
お茶会は和やかな雰囲気で包まれる中、使用人たちによって皿に切り分けられたアップルタルトが配られていった。
「これは……!」
ユリアンの方を見ると、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「約束だったからね。我が家のアップルタルトもお気に召してくれるといいけど」
早速エルシェはサクリとサクリとフォークを入れ、一口食べる。ふわりと広がるシナモンの香り、爽やかなリンゴの甘みと酸味、レーズンの濃厚な甘みがマッチしている。上に添えられているクリームが甘さ控えめなのでいくらでも口に運べそうだ。そして何よりシャキシャキのリンゴの食感がエルシェ好みだ。
感謝を伝えようとエルシェが口を開こうとしたタイミングで、無邪気な声に塞がれた。
「お義兄さま、お義兄さま!」
「どうしたんだロッテ?」
「いつものアップルタルトよりも少し甘さ控えめですのね!とっても美味しいですわ。リンゴの食感もとてもいいです」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。……ロッテ、口の端にクリームが付いているよ」
ユリアンがナプキンを渡そうとするが、ロッテはねだるように首を傾げる。仕方なさそうにサッとナプキンでロッテについたクリームを拭ってやっていた。
「まあ、本当に二人は仲睦まじいわね」
「ユリアンもロッテには甘いんだから」
「ロッテちゃん、お義兄さまに婚約者ができてしまったら寂しくなっちゃうわね」
親戚たちは微笑ましそうに二人に声をかける。
「ふふ、寂しくなんてありませんわ。ロッテは……いえ、わたくしはこれからもずうっとお義兄さまと一緒ですから」
「ロッテ」
ユリアンが嗜めるが、ロッテは意に介さずぱくぱくと美味しそうにアップルタルトを頬張る。拙さが残る所作ではあるが、かえってロッテのあどけない愛らしさが際立つようだ。それを見て親戚たちは可愛らしいと笑う。
婚約のお披露目のお茶会であるはずなのに、自分が異物のように感じてしまい、エルシェの心はどんどん萎んでいってしまった。
エルシェの大好物のアップルタルトなのに次第に味がしなくなっていき、うまく喉を通らない。
「エルシェ嬢、アップルタルトはお気に召してくれたかい?」
エルシェの様子に気づき、心配そうにユリアンが声をかけてくれる。
「ええ、美味しかったです。わざわざありがとうございました」
うまく笑えたかしらとエルシェは心配になった。幼い頃に話したアップルタルトをわざわざ準備してくれたことも、どこが好きなのかまで覚えてくれていたことも、嬉しくて嬉しくて堪らなかったはずなのに。今ではもそもそと口を動かしなんとか飲み込むのに精一杯だ。
早く帰りたいな。エルシェは曖昧に笑みを浮かべたまま、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
お茶会が終わり、各々席を立ち始めた。ユリアンが親戚に呼ばれてしまい、挨拶のタイミングを見失ってしまった。困ったなと端の方に移動して佇んでいると、トテテテとロッテがやって来た。
「エルシェ様、今日はお楽しみいただけたかしら?」
「ええ」
エルシェはなんとなくロッテと顔を合わせたくない気持ちが湧き出ていたが、それを淑女の笑みで誤魔化した。
「わたくし、エルシェ様にお伝えしたいことがありますの」
「……? 何かございましたか?」
「いえね、エルシェ様がこのまま何も知らずにお義兄さまとご結婚なさるのでしたらとても不憫で……」
不憫。その言葉の意味がうまく飲み込めず、エルシェはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「わたくし、お義兄さまと結婚の約束をしておりましたのよ。それなのに王命でエルシェ様と婚約することになってしまって」
ロッテの緋色の瞳が悲しげに伏せられた。
「エルシェ様も不思議に思いませんでした? あんなに素敵なお義兄さまがこれまで誰とも婚約していなかったことに」
一理あるかもしれない。資産家の侯爵家の長男で、本人も穏やかで優しく、極めつけにとても美男である。そんなユリアンがこれまで婚約者が決まっていなかったというのは、確かに首を傾げざるを得ない。
「わたくしが初めてお義兄さまに会った日、一目惚れして思わず告白してしまいましたの。そうしたらお義父さまも賛成してくださって。それからわたくしたちはずっとそうなると思っておりましたのに……」
頬に手を当て悩ましげにため息をつくロッテの姿を見るに、エルシェは嘘をついているようには思えなかった。
この後どのようにしてヴァンリート家を辞したのかエルシェは覚えていなかった。
気づけばぼんやりと馬車の窓から外を眺めていた。薄曇りの空を見ていたら、エルシェの榛色の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちていた。
「ああ、わたくしはユリアン様に恋をしていたのね」
ポツリとそう呟くと、涙が溢れて止まらなくなってしまう。
これまでエルシェとの関係を丁寧に築き上げてくれていたのは、ユリアンの誠実さと優しさから。王命による婚約だからこそ、誠実であろうと頑張ってくれていたのだ。心はロッテにあるのに。つい二人の顔を思い浮かべてしまいギュッと胸が苦しくなる。
彼にとって森の湖での記憶は大切なものではあるかもしれないが、自分とは意味合いが違っていたのだろう。
「わたくし、気づくのが遅すぎますわ」
エルシェはきっと初めて会った時からユリアンに想いを寄せていたのだ。森の湖にいた悲しい瞳を持つ男の子。彼が笑うと自分まで嬉しくなってしまう、そんな存在。また会いたいと願っていたはずなのに。こんな気持ちになるなら再会しないほうが良かったかもしれない。
でも、この婚約を無かったことにはできない。
ファンデルメール領の復興。伯爵家にとっても、エルシェにとっても、今もっとも大切なのはそれだ。自分の感情ひとつで逃げ出すことはできない。
自分の役割は表向きの妻なのかもしれない——ふと、エルシェはそう思い至った。
ゆくゆく担うはずの侯爵夫人の勤めを果たそう。社交に領地同士の橋渡し。必要であれば女主人としての仕事も。
初めからそういうつもりだったではないか。多くを望んではいけなかったのだ。ぎゅっと握りしめた拳に、ぽたりと涙が落ちる。
はらりはらりと止めどなく流れていく涙をそのままに、エルシェは馬車の揺れに身を任せた。
それからというもの、あんなに心待ちにしていたユリアンとの手紙のやり取りは、日々の忙しさを言い訳にして徐々に間隔を開けてしまっている。
ユリアンからの気遣いにどう返せばいいのか、まだ気持ちが整理しきれていないのだ。
おそらくロッテから自身との結婚の約束についてエルシェに話したことをまだ聞いていないのだろう。ユリアンからは定期的にエルシェ宛に手紙が届き続ける。婚約者としての交流のお誘いも添えて。
ヴァンリート家での茶会から3ヶ月後。またヴァンリート家でのお茶会の誘いがあった。エルシェにとって憂鬱で仕方がないが、領地の復興の対応が立て込んでいますのでと一度断った手前、これ以上逃げるわけにはいかず「楽しみにしております」と返事を書いた。
来ないでほしいとそっと願っていたが、当たり前ではあるがそんな希望は叶わず、お茶会の日がやってきてしまった。
大切にしまっていた栞をバッグの中に忍ばせた。これまでつらいとき、悲しいときにこの美しい花の栞を見つめては元気をもらっていた。エルシェにとって湖での思い出の象徴でもある。
しかし、この栞はユリアンへの気持ちが染み付いていて、栞を見るだけで形だけの妻でいることへの決意が鈍ってしまう。ユリアンへ返そう。きっと彼にとっても大切な栞だろうから返してしまおう。エルシェはそう決意した。
ヴァンリート家へ向かう道中、「役目を果たすだけ」と何度も自分に言い聞かせた。そうしないと逃げ出したくなってしまうからだ。
◇
久しぶりに顔を合わせたユリアンはあたたかくエルシェを迎えてくれた。
これも義務からなのかしら、とついついエルシェは悪い方に考えてしまう。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
「久々にエルシェ嬢に会えて嬉しいよ」
にこりと微笑を返すものの、なんと答えたらいいのか迷い、言葉が出てこない。
沈黙を誤魔化すように、エルシェは出された紅茶を飲んだ。初めてヴァンリート家を訪れた時、エルシェの気持ちを柔らかく解いてくれた紅茶も、今日はその役割を果たしてくれない。
「エルシェ嬢、最近忙しかったのかい?手紙の返事が減ってきてしまったのが気になってしまって」
「いえ……あの……」
わざわざそんなことを聞いてくるユリアンに小さな怒りが込み上げてくる。義妹と将来を誓っていたのに、エルシェとは王命による婚約なのに。
それなら最初から優しくなんてしないでほしかった。
「ユリアン様…わたくしと無理に関係を築く必要はございません。」
つい、ぽろりと言葉がこぼれ落ちてしまった。
エルシェだってわかっていた。王命だからこそ婚約者を大切にしなくてはならないことを。だからユリアンは、ロッテに想いを寄せつつも、エルシェを尊重しようとしてくれてるだろうということも。これは彼の最大限の気遣いだろう。
しかし、一度口を開いてしまうとエルシェは溢れてくる悲しみを止めることはできなかった。
「わたくしは侯爵夫人としての役目を果たします。社交も、領地同士の橋渡しも。ですから必要以上にわたくしへ心を割いていただかなくても——」
恋心をぺしゃんこに押しつぶされてしまってから、まだ心がざわざわしている。一度生まれた恋心を無かったことにはできなかった。だから鎧を被るしかない。やわらかな心に誰も触られたくないから。
「形だけの婚約者として、きちんと振る舞いますので」
今日ここで伝えるつもりはなかった言葉。エルシェはつい感情的に言葉を紡いでしまったことを恥じた。
そっとユリアンを伺い見ると、口元をきゅっと引き結び、悲しげにまつ毛を伏せているユリアンの姿があった。
なぜユリアンが悲しそうな顔をするのかわからず、エルシェはぱちぱちと目を瞬かせた。
「すまない、エルシェ嬢とはこれまでいい関係を築けていたと思っていたんだ」
ユリアンは困惑しているように眉根を寄せた。うまくエルシェの言葉を飲み込めない様子だ。
「無理しなくても大丈夫ですわ。なによりロッテ様に悪いですし」
「今、ロッテは関係ないよ」
思いの外強い言葉で少し驚いたものの、ここまで話したらもう後には引けない。
「関係ございますわ。知っています。お二人が将来を誓い合っていたことを」
「どういうことだ?」
「ロッテ様から教えていただきました。お二人がこれまで婚約者が決まっていなかったのはお互いを想いあっていたからだと。そこに王命でわたくしが割り込んだ形になったことを」
「ありえない……」
ユリアンは愕然としたように呟いた。
「ありえないとは……?」
エルシェが尋ねると、ユリアンは少しの間黙り込み、決意したかのように真っ直ぐにエルシェを見つめた。
「わたしはずっとエルシェのことが好きだったんだ」
思いがけないユリアンからの言葉にエルシェは息を呑んだ。
「それを、たとえ義妹だとしても邪魔されるのは許せない」
ユリアンの声にこれまで聞いたことのないような強い感情が滲んでいることにエルシェは驚いてしまう。
「湖畔の静養地にいたのは、母上が亡くなって気落ちしてしまった自分の療養のためだったんだ」
ユリアンは懐かしそうに目を細めた。
「そこで出会った柔らかな色合いで一見妖精のようなのに、元気でおてんばな女の子。ツンケンしていたわたしにめげずにたくさん話しかけてくれて。あの時間がどれだけ私にとって大切だったか。」
ユリアンは胸元からエルシェが過去に渡したリボンを取り出した。ずっと持っていてくれたからかそのリボンは少しくたりとしてしまっている。
「君は忘れてしまったかもしれないけれど、君からもらったリボンがつらい当主教育の支えになっていたんだ」
ユリアンは優しく指先でリボンを撫でる。
とうに忘れ去られていたと思っていたリボンを見て、エルシェの胸はどくんと跳ねた。
「これまでも私への縁談は何件かあった。でも、君のことが忘れられなくて。自分なりに候補の令嬢たちに優しくしようとしたつもりだったけれど、足りなかったんだろうね、あちらから断られてしまった」
ユリアンは自嘲気味に笑うと、ティーカップに口をつけた。
「そんな中、君との縁談の話がやってきたんだ。君のことを調べたらもしかしたらあの時の女の子かもしれない、と胸を踊らせたんだ」
「……ッ、でしたらロッテ様がおっしゃっていたことは」
「彼女の勘違いだと思うよ、少なくとも自分はロッテと将来を誓ってなどいない」
そっと差し出された手に、エルシェは自分の手を重ねる。あたたかく、大きな手のひらから、ユリアンの気持ちがじわじわと滲み出てくるようだ。
「好きだよ、エルシェ。君にとってわたしは過去に少し親しくした相手程度かもしれない。けれど、わたしはずっと君を忘れられなかった」
「わ、わたくしも……、ユリアン様のことが……好き、です……!」
ユリアンは感極まったように目尻がほんのりと色づいた。握ったままの手を持ち上げられ、指先にキスを落とされる。
ユリアンの柔らかな唇の感触に、エルシェは胸の奥がくすぐったくて落ち着かなくなる。
「わたくしもエーデルでユリアン様に出会ってから、いつかまた会いたいと何度も思っていました。そして、顔合わせの時にあの少年がユリアン様だとわかって、天にも昇る心地でした。」
目を閉じると木々の隙間から差す光、湖のゆらめき、そして悲しさを宿したエメラルドの瞳を思い出す。
「しかし、ロッテ様からお二人が結婚の約束をしていたと聞いてから、苦しくてしょうがありませんでした」
エルシェはバッグの中からそっと栞を取り出した。
「この栞。ユリアン様にとって大切なものですから、本日返そうと思っていました。……このまま持っていても構いませんか?」
「もちろんだよ。これは母の形見なんだ。ぜひエルシェに持っていてほしい」
エルシェは手の中の栞を見つめた。そんな大切なものを自分が持っていていいのか、少しだけ不安になる。
「わたくしでよろしいのですか?」
「ああ、エルシェに持っていてほしいんだ」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
エルシェは栞を傷つけないようバッグの内ポケットへ大切にしまった。
その様子を見つめていたユリアンが、ふと口を開いた。
「あの、エルシェと呼んでもいいかな?さっきどさくさに紛れて呼んでしまったけれど。わたしのことはユリアンと」
「ユリ……アン……」
口にしてみると、まだ慣れない呼び方がなんだかくすぐったい。エルシェは思わず口元に手をやった。頬にじわじわと熱が集まってくる。
そんなエルシェの様子を見て、ユリアンは隠し切れない笑みを浮かべた。
「はは、うれしいな。このまま君を家に帰したくなくなってしまう」
「そ、それは困ります……!仕事が残ってますから」
焦ってそう伝えると、ユリアンは残念そうに眉を下げた。
「残念だ。でも……君が帰る前に、ひとつだけ確認しておきたいことがあるんだ」
ユリアンがパンッと手を叩くと執事がやってきた。彼の耳元でユリアンがなにごとか囁くと、執事はぺこりとお辞儀をして部屋から退出した。
「あと少しだけ時間をもらえるかい?」
「……はい、構いません」
エルシェが頷くと、ユリアンは小さく笑った。
「ありがとう。では、ついて来てくれるかい?」
そう言ってユリアンはエルシェを伴い、執務室へと向かった。
扉の前まで来ると、ユリアンが軽くノックをする。
「ユリアンです」
「ユリアンか。入ってくれ」
ユリアンが扉を開くと、そこにはヴァンリート侯爵が待っていた。
「エルシェ嬢、今日はわざわざ我が家まで来てくれてありがとう」
「とんでもございません。本日はお招きいただきありがとうございます」
エルシェは丁寧に頭を下げた。まさか侯爵本人が待っているとは思わず、エルシェは少しだけ緊張してしまう。
程なくして、廊下の向こうから軽やかな足音が聞こえてきた。
「まあ、お義兄さま!お義父さま!わたくしになんのご用ですか?」
勢いよく入ってきたロッテは、期待に胸を膨らましているようで、そわそわと落ち着かない様子だ。
そんなロッテの様子を見たユリアンは小さくため息をつき、切り出した。
「父上、ないとは思いますが、念のため確認させてください。わたしとロッテを結婚させようといった話はないですよね?」
「なっ……!」
ロッテは驚きのあまり口をぱくぱくとさせている。しかしそんなロッテの様子をよそにヴァンリート侯爵とユリアンは続ける。
「ああ、もちろんだ。いきなりどうしたんだ、ユリアン」
「ロッテがエルシェにそう語ったと聞いたもので。……誤解されたままでは困りますから」
ユリアンがちらりとエルシェを見る。
「エルシェには、きちんと本当のことを知っておいてほしいんです」
ユリアンが自分のために、ここまでしてくれるのだと思うと、エルシェはなんだかくすぐったいような気持ちになる。
「う、嘘ですわ!」
ロッテは信じられないとばかりに大きな声をあげる。ロッテにとってあの日の言葉は疑いようのない「結婚の約束」だったのだ。
「初めてお義兄さまと会った時、気持ちを伝えたらお義父さまは『これでずっと一緒にいれるな!』と言ってらしたじゃないですか!お義兄さまも笑ってらして」
「あれはロッテの冗談だと思ったからだよ。新しく兄妹になるから、精一杯仲良くなりたい、そういう気持ちだと思っていた」
「すまん、ロッテ、わたしも冗談のつもりだったのだ」
「な、なん……ッ!」
ロッテの唇がわずかに震える。
「でも、お義兄さまはわたくしにだけ優しかったではありませんか!」
「それは義妹として早く家に馴染めるようにと努めていたからだよ」
「でも、でも、お義兄様の婚約者がずっと決まっていないのは……!」
「わたしの婚約者が決まっていないのはロッテには関係のないことだよ。それにロッテの婚約については、母上がまだ早いと考えていたんだ。もう少し礼儀作法や勉学を身につけてから、本人に合う相手を探そうと」
「…………え?」
ロッテの目が大きく見開かれる。
ロッテの婚約者が決まっていなかったことにも、エルシェ自身が関係していたわけではなかったのだ。エルシェは詰めていた息をそっと吐き出した。
「な、な、な……」
わなわなと肩を震わせる。
「なんですって……!!」
そのままロッテは糸が切れたように、ぱたりと倒れた。
「ロッテ様……!」
エルシェが慌てて駆け寄る。けれど、ロッテはぴくりとも動かない。どうやら気を失ってしまったようだ。
ユリアンが使用人を呼ぶと、そっとロッテは自室まで運ばれた。
こうして、ロッテの盛大な勘違いは幕を閉じたのだった。
◇
一連の出来事を聞いた侯爵夫人は、卒倒しかけたという。
「自分がもっとちゃんとしていれば」と反省し、娘には二度と自分の思い込みだけで行動することのないよう、自分の立場をわきまえ、物事をよく考えてから行動するよう、改めて言い聞かせたそうだ。そしてすぐさまエルシェに娘が迷惑をかけたことを心から詫びた。
ロッテも人が変わったように礼儀作法、勉学に熱心に取り組んでいるようだ。
日を置かずにエルシェにも心から謝罪している。ロッテは学ぶにつれどれだけ自分が恥知らずな行いをしていたかを実感して、エルシェに会うたびに頭を下げた。
ロッテの行動に傷つきはしたものの、心から反省した様子を見ると、エルシェはなんだか憎めずにいた。しゅんと耳が垂れた様子がなんだか子犬を彷彿とさせ、ついついヴァンリート家に訪れるときに交易が再開され手に入るようになった隣国から取り寄せたリボンなどをロッテにプレゼントしている。
そう、徐々にファンデルメール伯爵領が復興してきたのだ。完全ではないものの主要な交易路が通れるようになり、徐々に物流も戻ってきている。
「エルシェ、そろそろ着くよ」
「まあ、今日はどこにつれて行ってくれるのかしら?」
今日はやっと復興の目処が立ってきたということで、エルシェの慰労を兼ねて二人で小旅行に来ている。行き先はエルシェには伏せられていた。
目的地に近づいてきたあたりから、窓のカーテンは閉じられている。
やがて馬車はゆっくりと速度を落とし、ことりと小さく揺れて止まった。
エルシェはユリアンにエスコートされて、馬車から降り立った。澄んだ空気を吸い込むと体が軽くなるようだ。頬を撫でる風の感覚にどこか懐かしさを覚えた。
「ユリアン、もしかして……?」
「ああ、そのもしかしてだよ」
ユリアンはいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「落ち着いたら君とエーデルにきたかったんだ」
ユリアンはそっとエルシェの手を取り歩き出した。なだらかな丘陵には色とりどりの花が咲き、少し先に小さな森が見えた。ユリアンは迷いなくその森に向かっている。
「ここからは多分君のほうが詳しいかもしれないね」
「ふふ、そうかもしれませんね」
木々の間に残る微かな道を、2人で並んで進んでいく。見覚えのある景色が少しずつ増えていくたび、エルシェの胸に懐かしさが込み上げてきた。
進んだ先に小さな湖が見えた。青く澄んでおりキラキラと光を反射している。あの時の記憶のままだ。
「懐かしいな、またここにエルシェと来ることができて嬉しいよ」
「わたくしもです。ユリアンとここに立っているなんてなんだか夢みたい」
「……よかったら、これを」
差し出されたのは小さな箱だった。
中に入っていたのは繊細な細工が施され、吸い込まれるような翠の石が嵌め込まれている髪飾りだった。
「嬉しい。ユリアンの色だわ」
「気に入ってもらえると嬉しいよ」
「すごく素敵よ。ありがとう。……実はわたくしも用意しているものがあるの」
エルシェは小さな包みを取り出してユリアンに渡した。
包みを開けると、エルシェのヘーゼルの瞳を彷彿とさせる石の付いたカフスボタンだった。
「来年も、またここに来たい」
「来年も再来年もずっと来ましょう」
湖面を渡る風が、2人の髪を撫でた。
エルシェは隣に立つユリアンを見上げて、そっと微笑んだ。




