魔族の生活2
石畳の上で口に運んだその一口の肉は、思いのほか深い味わいを持っていた。ピリリとした刺激が舌の奥をくすぐり、芳醇な香りが鼻腔を満たす。魔界の味覚は人間のそれとは明らかに異なるが、その独特なスパイスと食感は、ミオの緊張をふっと緩ませた。
「…意外と、悪くないですね」
口に出して言うと、シオンはいたずらっぽく笑った。
「でしょ? あの狼みたいな魔獣の肉だったりして」
ミオは苦笑しながらも、すこしだけ頬を緩めた。背負ってきた緊張感が、一瞬だけ解き放たれたようだった。
通りの向こうから賑やかな声が響き、数人の魔族が二人に歩み寄る。肌の色や角の形、服装の異なる彼らは、好奇心と警戒心を入り混じらせ、じっと二人を観察している。ミオは自然と身を硬くするが、シオンは平然と前へ歩み出した。
「おや、人間か。珍しいな」
シオンは微笑みを浮かべながら答える。
「迷い込んでしまって、帰る方法を探しているんです」
年配の魔族が眉をひそめ、ゆっくりと口を開いた。
「迷いこんで……か。まぁよい。お主ら扉を開けたな」
年配の魔族の言葉に、ミオは思わず息を呑んだ。扉――外界と魔界を繋ぐ存在。そこが自分たちが迷い込んだ場所であり、帰還への唯一の手段であることを、今あらためて実感させられた。
「扉……」ミオは小さく呟く。
「そう。どこに、いつ現れるかは、我々魔族にも分からぬものだ」年配の魔族は石畳に足を踏みならしながら続ける。
「突然現れ、また消える。魔界と外界を繋ぐ唯一の道……それが扉だ」
ミオの胸が締め付けられる。扉は目の前から消えてしまった。手を伸ばしても届かない、音もなく消え去ったその存在。これが帰れない理由であり、焦燥の原因だった。
「分かりました……」ミオは視線を落とし、どう動くべきかを思案する。帰る手段はまだ見えず、焦っても仕方がない。ならば今は、状況を整理し、拠点を作ることが最優先だと。
シオンは地面に手をかざし、淡い魔力の光を漂わせる。光は小さな粒子となり、空気に溶けるように揺れた。
「ミオ、この街を拠点にして、情報を集めながら帰る方法を探そう。まずは寝るところを探そうか!野宿は嫌だよね?」
シオンは楽しげに言い、まるで遠足の準備をする子供のように振る舞った。
ミオは肩をすくめる。焦る自分と、平然としたシオンとの温度差が、妙に心地よい違和感をもたらす。こんな時だからこそシオンの明るさが助かるのだ。
二人は街の小道を抜け、魔法結晶が淡く光る通りに出た。石畳の隙間からは野花が根を張り、夜露に濡れた葉が光を受けて煌めいている。建物の壁には小さな装飾が施され、扉の取っ手は鋭く曲線を描いている。昼の光が届かないこの街に、青白い光と魔族のざわめきが妖しい雰囲気を生み出していた。
宿屋の扉を押すと、木の香りと暖炉の煙が立ち込め、室内は静かに落ち着いた雰囲気だった。シオンは微笑みながら、カウンターの魔族に軽く挨拶する。淡い光の粒子が周囲に漂い、言葉を翻訳する魔法とあわせて、通じない言葉も自然に理解できるようになる。
「少しの間、部屋を貸してください!」シオンが柔らかく頼むと、宿屋の魔族はしばし考え込んだ。やがて、宿の清掃を手伝うことを条件に一部屋貸すことに同意した。
シオンはすぐに手のひらに淡い光を集め、宿屋の隅々まで掃除を始める。床に落ちた埃を魔法で集め、空間を光で満たすように磨き上げる。
便利なものだなと感心しながらミオも食器をあるべき所へ運ぶ。彼女に頼めば髪を乾かしたりもできるのだろうか。そんなことを薄らぼんやり考えながらミオは窓の外に目をやった。
街の夜景は静かで妖しい。石畳の上を通る風が葉を揺らし、遠くの鍛冶屋の火花が赤く瞬く。通りを行き交う魔族の姿は、多様な肌の色や角、衣装が混ざり合い、異界ならではの美しさを醸し出していた。
ミオは深呼吸し、シオンの無邪気な動きを眺める。あんなに明るく振る舞えるのはどうしてなのだろう――怖くないのか、と思わず問いかけたくなるほどだ。
シオンはふと振り返り、にこやかに笑った。
「掃除終わったよ!宿の人凄く喜んでくれたー掃除するならずっと居てくれていいって!」
不安さを欠片も感じないその言葉に、ミオは胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。現状に恐れていても仕方ない。シオンの笑顔にはそう思わせるだけの力があった。
宿屋の一室に案内されると、木の床と温かい暖炉の香りに、ミオはほっと胸を撫で下ろした。壁には小さなランタンが吊るされ、柔らかい光を放っている。窓の外では魔法結晶が青白く揺れ、石畳に影を落としていた。
「ここなら、しばらく安全に過ごせそうだね」
シオンはベッドの端に腰を下ろし、淡い光を手に集めながら部屋を眺める。光は小さな粒子となり、埃一つない空間に柔らかく広がっていった。
ミオは小さく息をつき、肩の力を抜く。
「…少し、落ち着けそうです」
シオンはいたずらっぽく笑った。
「よかった!じゃあ、今日はここで情報整理しつつ、少し休憩しようか。お茶でも淹れるよ」
ミオは肩の力を抜きながら、窓際の椅子に腰を下ろした。外の街の喧騒が遠くでかすかに聞こえる。魔界は静かで妖しく、幻想的な光景が広がっていた。
「シオン様」
少し考えてから口を開く。
「……組織からは、シオン様一人で行かせるようにって命令されてたんです」
シオンは少し驚いたように目を見開き、そしてすぐに柔らかく微笑んだ。
「じゃあミオは命令違反の悪い子だね。そのおかげで私は寂しい思いしなくて済んだけど」
わざわざ彼女に言う必要はない。それはミオも理解していた。
後ろめたさではなく、きっと自分の覚悟を知ってほしかったのだろう。
ミオは肩の力を抜き、窓の外に目を向ける。街の灯りが揺れ、石畳の上で影が踊る。遠くの鍛冶屋からは金属を叩く音が小さく響き、商人たちの呼び声がかすかに聞こえる。
「ねぇ、ミオ」シオンはふいにベッドから立ち上がり、手に持った魔力の光をカップに変えてテーブルに置いた。
「お茶、入れてみたよ。魔族のハーブを少し混ぜてるから、ちょっと独特だけど、香りはいいんだ」
ミオは手を伸ばし、カップを受け取る。湯気の向こうに、ほのかな甘みとスパイスの香りが漂う。
「…おいしいです」
「でしょ?」シオンは笑顔でベッドに戻る。
「こういう小さなことでも、心が落ち着くんだよね」
ミオは微笑みながら頷く。
「確かに…。落ち着きますね」
二人は静かにカップを手にし、夜の魔界の街を眺める。窓の外では魔法結晶の光が石畳に反射し、通りを行き交う魔族の姿が影絵のように揺れている。遠くの森からは、夜風に揺れる木々の葉音が聞こえる。
二人は宿屋の部屋で、小さな時間を共有した。魔界の街の喧騒は遠く、窓から差し込む魔法結晶の光が、部屋全体を柔らかく包んでいた。ミオは不安と焦燥を抱えながらも、シオンと過ごすことで、ほんの少し心を落ち着かせることができた。
「一眠りしたら、情報を集めに行こう」シオンはカップを置き、静かに言った。
「扉の手掛かりが見つかるかもしれないしね」
ミオはうなずき、深く息を吸った。こんな時でも機関への報告を考えてしまうのは職業病だろうか。
タブレットの通信も当然繋がらず、人間界への連絡手段は存在していない。そもそも命令に背いた処罰のこともあり、ミオは考えることをやめた。
明けない夜は深く、宿屋の部屋に淡い光が揺れる中、ミオは静かに目を閉じ、決意を胸に刻んだ。