これが私の使命
廃工場の前に立つ夜は、鉄の匂いと冷気だけを残していた。月は薄く、雲の合間に光を漏らす。錆びた扉の縁に古いペンキの剥がれた文字がぼんやりと浮かび、足元には割れたガラスと油の染みが散らばっている。遠くからは無人の街路灯が瞬き、かすかな自動車の音が時折すれ違うだけだ。――そうした静寂の中で、二人は並んで立っていた。
白銀の髪を夜風に撫でられながら、シオンは軽く息を吐いて笑った。表情は穏やかで、瞳には奇妙なほどの落ち着きがある。隣の黒髪の女は端末を握りしめ、画面の明かりが顔を青白く照らしている。ミオは視線をほとんど動かさず、淡々と周囲のデータを読み上げるように言葉を紡いだ。
「シオン様、外周の巡回は二十秒ごとに交差します。南東の扉は魔術障壁の密度が他より低く、侵入に適しています。増援は十七分後に到着の可能性が」
シオンは頷き、肩越しにミオを見た。
「うん、分かった。じゃあ行こう、ミオ」
扉は重く軋み、二人の影を飲み込みながら開いた。内部は冷たく、長年放置された機械の残骸が低い影を落としている。鉄骨の列が迷路のように続き、天井からは時折水が滴る音がした。足元に散らばるガラス片が、小さな光の断片を生み出す。
シオンは躊躇なく闇に溶けた。指先で空気に細い線を描くと、淡い蒼の光が一瞬だけ揺れて消える。ミオは端末に表示される波形を注視して、低く答える。
「南東へ移動開始。私が視界を補助します。暫定進路は右壁伝い。警戒を」
「了解、ミオ」
廃工場の通路は狭く、曲がり角ごとに視界が遮られる。シオンは音を立てず、壁に沿って、まるで影が歩くように進む。魔術の気配は彼女の手のうちで確かに息づいており、時折放たれる一閃は障壁の微かな波紋を撫でた。彼女の動きは滑らかで、無駄がない。体の軸がぶれることなく、あらゆる動作が綿密に計算されているかのようだ。
前方から低い声がする。巡回の足音と、擦れる革の音。シオンは一瞬で背後へ移動し、警戒する者の脇腹を押さえ込んだ。相手の重心が崩れると同時に、素早く魔術の糸が相手の視界に絡みつき、足取りを鈍らせる。音もなく、二人の巡回者は床に倒れた。
ミオの端末が震え、彼女の喉がわずかに動く。声は小さく、しかし確かに聞こえた。
「凄い……」
言葉はすぐに消え、ミオは表情を引き締める。だがその瞳の奥の動揺は消えない――瞬間的な揺らぎが、冷静の表面をひび割れさせた。
進むほどに障壁は複雑化し、床には旧式の監視装置が散らばっている。シオンはそれらを視認すると、短く息を吸って体を沈め、跳躍しながら器具の裏へ回り込む。彼女の掌から放たれる青白い光は器具の回路をほんの一拍で剥ぎ取り、表示を白紙に戻す。まるで時間を切り取るような速度だ。
「シオン様、残り二分で本陣到達。ここから先は警戒が最大になります」
ミオは声を絞り出すように指示を出す。冷静だが、声の節々に緊張が滲む。
扉を押し開けると、広い空間が広がった。中央には金属の筐体が積み上げられ、赤いランプが断続的に点滅している。机の上には箱状の装置と、複数の端末が鎮座していた。そこが本陣だと示すように、空気は一段と重たく、微かな電流の匂いが鼻腔をついた。
シオンは足音も立てず歩み寄り、デバイスの前で掌を翳す。指先で幾何学的な模様を描くように動かすと、装置のカバーが滑るように開き、内部のデータコアが顔を出した。彼女の指先が一瞬触れただけで、データは薄い光となって掌に吸い込まれるように転写された。
その所作は余計な動きが一切なく、正確そのものだった。ミオは端末の表示を見つめ、データの内容を追う。視野に流れる数列と暗号化されたパケットが、確実に手元へ落ちていく。
「コピー完了。急いで退避を」
シオンは振り返りざまに微笑む。笑顔は疲労をまるで感じさせなかった。
だが、脱出の途次で足音が増幅する。警報の電子音が遠くで鳴り、増援が速い足取りで近づいている。明滅するランプの赤が影を躍らせ、二人に余白を与えない。
シオンは淡々と姿勢を低くし、瞬時に数歩で遮蔽物へと身を隠す。動きの一つ一つが合理的だが、その速度は常軌を逸している。冷たい空気の中、彼女の髪が一瞬だけ揺れ、またすぐに止まる。
ミオは短く回路を切り替え、脱出ルートを示す。端末越しに小さな矢印が跳ね、二人は断続的に動く影の合間を縫って走った。躓くことなく、息を切らすこともほとんどなく、外へ出ると月光が二人を包んだ。
夜風が冷たく頬を刺した。シオンは大きく息を吸って笑う。
「よし、終わったね」
ミオは顔色一つ変えず、端末のログを確認しながら短く言った。
「任務は完了しました。速やかに帰路を取ります」
二人の足取りは静かに住宅街へと向かう。家並みは淡いオレンジの光で縁どられ、そこだけが人の営みを感じさせた。玄関前の小さな庭に植わる木の影が長く伸び、二人の影を柔らかく受け止める。
家の鍵を開けると、室内の匂いが二人を迎えた。小さな電灯が柔らかく灯り、生活の痕跡がささやかに並んでいる。シオンはくるりと背を向けて靴を脱ぎ、そのまま軽やかにリビングへと歩いた。ミオは無言で端末を仕舞い、コートをハンガーに掛ける。所作に無駄はなく、家の中の空気もまた、どこか機能美に満ちている。
シオンはソファに腰掛け、足を崩して腕を伸ばした。「今日も、楽しかったね」と無邪気に言う。声には昨日の疲れも影をひそめ、余韻を楽しむ子供のような響きがあった。
ミオは一瞥するとテーブルに資料を置き、淡々と書類の確認を始めた。
ミオは答えを先延ばしにするように、資料のページをめくる。彼女の指先が一枚をめくる仕草は、淡々としているが正確だ。やがて書類をまとめると、ゆっくりと立ち上がった。
「私は直ちに機関へ報告に参ります。シオン様は今夜は休息を取られてください」
その声は静かだが、ここに含まれる決意は揺るがない。
シオンは少し寂しそうに笑ったが、すぐに明るく返す。
「うん、分かった。じゃあ、行ってらっしゃい、ミオ」
廊下の明かりが二人の距離を切り取り、ミオは一瞥だけシオンを見てから、コートを羽織って出て行った。玄関の扉が閉まると、室内にはシオンの吐息と時計の音だけが残った。
扉の向こうでミオは静かに立ち止まり、端末を取り出した。ログを確認しながら深呼吸を一つだけする。表情は変わらない。それでも、ほんの僅かな時間だけ、彼女の瞳は遠くを見つめていた――消えかけの月を、あるいはもう戻らない何かを見つめているかのように。
家の中で、シオンは静かに目を瞑り、任務の余韻とともに目の前の光景をそっと胸に刻んだ。夜は深く、外の世界は依然として冷たく静かだった。明日はまた別の任務が待つ。その日常が続いていくことを、二人は当然のように受け入れていた。
--------------------------------------------------
薄暗い執務室の一角。冷たい蛍光灯の光が、無機質な机の上に置かれた資料を白く照らしていた。ミオは端正な顔を少しだけ曇らせながら、モニターに映し出された映像を無言で見つめていた。先ほどの潜入ミッションの様子だ。被検体0379-αの動きは完璧で、敵の一挙手一投足を見逃すことなく避け、魔術と体術を連携させて敵を圧倒していた。
「対象区域への潜入は成功。被検体0379-αの動きは遅滞なし。戦闘能力は予想を遥かに超えています。敵の攻撃は一度も命中していません。」
ミオは淡々と報告書に目を落としながら、声を抑えてそう言った。隣の上司は頷き、慎重に言葉を紡ぐ。
「機密情報の回収は?」
「はい。敵本陣より機密ファイルを無事に持ち出しました。内容の解析は専門部署に依頼済みです。」
「そうか。…しかし、分かっているとは思うが、被検体に情が移らぬようにな。忘れてはならぬ、”あれ”は我々の『被検体』だ。あくまで監視対象であり、能力を適切に使用させることがお前に課せられた使命だ」
部屋に静かな緊張が走る。ミオは一瞬だけ視線を伏せ、深く息を吐いた後、低くも揺るがぬ声で答えた。
「承知しております。私の任務は被検体0379-αを監視し、組織のためにその力を管理すること。私情は任務に干渉しません。」
その言葉には、ほんの少しだけ、誰にも見せたくない強い意志が宿っていた。
任務報告を終えた後、ミオは深い闇に包まれた夜の街を静かに歩き、自宅へと戻る。夜風はひんやりとしていて、かすかに錆びた金属の匂いが漂う。この街に溶け込むように歩を進め、家の扉を静かに開けた。
リビングに入ると、白銀の髪をふわりと揺らしながらシオンはソファに沈み込むように眠っていた。まるで天使のように無垢で、安らかな寝息が空間を優しく満たしている。
ミオはその姿を見て、思わず立ち止まる。いつもは明るく、元気に任務をこなす彼女だが、今はどこか儚げで手を伸ばせば脆く壊れそうな、心の奥の孤独が透けて見えた。
気づかれぬようにそっと近づき、彼女の肩にかかっていたブランケットがずれているのを見つけると、冷えぬよう優しく掛け直した。
その時、ミオの視線は彼女の頬に伝う涙に触れた。寝ているはずの彼女の顔に、静かに流れる涙があった。
胸の奥が締め付けられる。笑顔の中に隠された涙。それを知ってしまった罪悪感と、なぜか抑えきれぬ愛惜が同時に押し寄せる。
「ごめんなさい……」
声にならぬ呟きは、まるで祈りのように小さく、静かに彼女の髪を撫でる手に宿った。
ミオは知っている。あの笑顔がいつか消えることを、そしてその時にはもう、何もできないことを。
けれども今はただ、この瞬間を守りたいと願い続けていた。