前編
(初手を間違った、殺される)
鬼といえば、人のような姿をして、人を惑わし、人を喰う。
恐ろしい存在なのだと、自分が生まれた時から、教わっている。
その鬼が、目の前にいる。
昼の陽が眩しい、小高い丘の上の、とても大きな木の下で、大きな根に挟まれるように座って。
白い着物なのに、汚れも気にせず、膝に小さな濃藍色の猫を乗せた鬼。
その気になれば、一瞬で間合いを詰めて、俺の息の根を止められるであろう、鬼。
(俺のこの隙は、まずい)
長く感じる、瞬間の思考。
そして、
術を使うための術符を構えたまま、動けない俺と。
鬼の目が、合った。
その日俺は、少し長めの休暇をもらい、時間を持て余していた。
遠い東の国では、魔物との共存が謳われ出しているらしいが、
その東の国と地続きであるこの国では、まだ、魔物との争いは絶えていない。
俺の一族、竜造寺家は、魔物討伐の代表に選ばれることが多かった。
位の高さを表現するように着物を重ね、布も装飾も多い状態で、軍を指揮する。
戦闘で前に立つことは少ないものの、一族での訓練は厳しく、昔から休みなんてない。
父が遠征軍の指揮を執り、家を留守にしていた間も、俺は訓練を受けていた。
そんな折、遠方の魔物退治がちょうど落ち着いたこともあり、遠征軍が戻ることとなった。
祭りや式典の準備に忙しくなるため、都での荒事が禁止となる。続くように、訓練も禁止となった。
俺が生まれてから十五年で、初めての、長めの休暇だ。
(だからといって、何をしたら良いのか、さっぱりわかんねぇ)
家で寝てようかと思ったが、帰還した父への挨拶にくる人が多すぎて、ゆっくりしていられない。
父や、その側近たちのお小言を聞くのも嫌だ。
世間では、こういった時、友達とかいうヤツと遊んだりするらしいが、
年齢が近い奴らは、俺のご機嫌をとろうと大変そうなヤツらばかりだし、友達なんて、わからない。
外の店でも見て回ろうかと思えば、今は観光客も多く、俺に護衛が必要だとか、家の奴らがうるさくなる。
もう全部面倒になって、こっそり家を抜け出して、都から少しだけ離れた丘に来た。
そうしたら、鬼がいた。
白い髪に、少し上等そうな白い着物。
頭の横から生えたツノは、折れたように短く。
赤い瞳と同じ色の、赤い隈取のように、顔に現れている紋様が、人でないことを示している。
体に染みついた習慣か、俺は咄嗟に術符を出して、相手を仕留められるように動こうとした。
瞬間、小さな声がした。
鬼の膝には、猫がいたのだ。
凶悪であるはずの鬼の膝の上で、安心したように、甘えて転がっている。
一瞬、俺から毒気が抜けてしまった。
致命的な隙を、自分が生んだことに後悔する。
長く感じる、瞬間の思考。
その瞬間、鬼と目が合って。
殺られると思ったと同時に、鬼は微笑んでこう言った。
「こんにちは」
「……こんにちは」
咄嗟に、挨拶を返したのも、体に染みついた習慣だろう。
「はぁ、菜食主義……」
「うん。なんか駄目なんだよね、血とか肉とか。見るだけで気持ち悪くなっちゃう」
言いながらも、鬼は、膝の上の小さな猫を撫でている。
濃藍色の猫の毛は、毛づやが良く輝いていた。
鬼は、猫の喜ばせ方を知っているのか慣れているのか。猫はもっと撫でろと要求している。
俺もやりたい。
猫は、鬼の隣に座っている俺には、目もくれない。
「信じられないから、今すぐ退治したい」
「だよね」
俺の言葉に、鬼は何故か同意して笑った。
俺は正直なのだ。
しかし、退治したいのは本当だけれど、猫の機嫌を損ねたくはない。
「とりあえず、猫と離れてくれれば、俺も殺る気になれると思うんだけど」
「うーん……」
鬼は、猫の顎の下を、かくように撫でている。
「キミの黒と赤の着物、たぶん竜造寺家のものだよね。異種族退治の専門家だ」
「おう」
「キミに殺られれば、きっと、痛くも苦しくもないと思うんだけど……」
鬼の手は、猫から離れ、自身の両耳にある赤い飾りをいじりだした。
空いた隙に猫を撫でようかと思ったが、思っただけで、猫に睨まれた。何故だ。
よく見ると、濃藍色の猫の毛には、いくらか黒色が混ざっている。
黒なら、俺の髪の色とお揃いなのになぁ。
「実はオレ、寿命が近いんだ」
「へ?」
猫に夢中で、鬼の言ったことが頭に入るまで、時間がかかった。
「肉を喰えないから、仕方がないんだけどね」
「……そうなのか?」
「うん。それ自体は気にしてないし、せっかくなら色々見ようと思って旅をしている」
たしかに、よく見れば、綺麗だと思った鬼の着物は、ところどころ汚れているし、
裸足である足先も、長年のものっぽい汚れが、こびり付いている。
「で、寿命が先か、討伐されるのが先か、どっちかな~って思いながら、ここへ来た」
「命をかけるなよ」
「命ぐらいしか、かけるものがないからね」
鬼は再び、猫を撫でだした。
丸くなった猫の背を撫でる手は、優しい。
「俺は、猫がいなければ、お前を殺ってたぞ」
「うん。オレも、この子がいなければ、死んでも良かったんだよねぇ」
猫は小さい。
「もしかして、お前、その猫の親代わりとかそういうアレか?」
だったら尚更、俺はこいつを殺りづらくなるんだが。
「ううーん。この間、偶然ここで会っただけなんだけど、なんか、懐かれちゃって」
「懐かれたかぁ」
「獲物も持ってきてくれるんだよねぇ」
「食べたのか?」
「無理だって」
そこで俺は、諦めた。
この鬼を、退治することを。
騙されているなら、それでも良い。
猫がいるうちは、疑うこともやめておこう。
後から思えば、俺はもう、日々に疲れていたんだと思う。
初めて、急な休みをもらって、頭もきっと変になっていた。
空いた時間に、鍛錬以外の何をしたら良いのかも、わからない。
だから、俺はその鬼と、もっと話していたくなったんだろう。
「俺もさぁ、トカゲを飼ってるんだよ」
「トカゲ」
最初は父に反対されるかと思ったけれど、温度を一定に保つことに符術を使うこと、を条件に、認められた。
これが結構、良い鍛錬になるのだ。
飼いだしてからもう、何年か経っている。
「だからまぁ、なんか離れがたくなるのはわかる」
猫も良いよなぁ。
猫こそ、父に反対されそうだけど。
「そのトカゲって、名前は付けたの?」
「あー、名前なぁ」
鬼に聞かれたものの、ちょっと、付けた名前を誰かに言うのは恥ずかしい。
「……シャオロンって、付けた」
「しゃおろん?不思議な響きだね」
「異世界の言語で、竜のことらしくってさ」
こちらの世界へ流れてくる異世界の書物。
その訳された物で、以前に見たのだ。
自分の家の名前でもあるし、格好良くて覚えてたけれど、名付けに使ったって言うのは、恥ずかしい。
鬼は、何度も頷きながら、言った。
「なるほど。トカゲって竜になるっていうもんね」
「えっ、そうなのか!?」
「えっ、違うの?」
自分家の名前なんで付けました。って、今さら言いづらい。
慌てて、俺はごまかした。
「あっ、あー……そう、だった、気がする!」
「あ、うん。そうだよね」
なんか気を遣われた気がする。
「はー……そっかぁ。アイツ、竜になるのかぁ」
「強い子になると良いねぇ」
シャオロンが大きくなったら、俺を乗せて空を飛んでほしいな。
いや、むしろ小さい竜になるかもしれない。今の住処が小さいから。
そのうち、大きい家を用意してやるかぁ。
俺が考えている間に、鬼は静かに、口を開いた。
「この子には……名前、付けない方が良いかな」
「ん?なんでだ?」
鬼の視線の先には、寝ている子猫。
「オレ、すぐ死ぬだろうし、そんなやつに名前もらっても、困りそう」
「そうかぁ?」
「そもそもオレも、名前ないし」
「へ」
意外な言葉だった。
鬼は、自分の力を誇示するために、自分の名前を広める傾向にある。
退治された鬼でも、書物には、たくさんの名前が残っている。
「すぐ死ぬと思われていたし、自分でも思っていたから、名前をもらわなかった」
「それで生きていけるのがすごいな」
「思っていたよりは、長く生きているね」
名前、もらっておけば良かった。と、呟く鬼の横顔が、何だか少し、寂しそうに見えた。
鬼にそんな感情、あるわけないだろうし、きっと俺の幻覚なんだろうけど。
「……じゃあ、茨木」
「ん?」
「お前の名前。茨木。今決めた」
「えっ」
名付けた俺に、驚いたような、茨木の顔。
こいつと話して、こいつを見ていると、まるで人と接しているような気持ちになる。
……まるで、本に載ってた、友達と話しているような。気持ちに。
茨木はまた、何度も頷いて、口角を上げて呟いている。
「茨木。茨木かぁ」
「……連呼するなよ、なんか恥ずかしい」
「あー、オレ、実は名前欲しかったのかも。嬉しいや」
「そうかよ」
連呼するなって言ったのに、茨木は、自分の名前を猫に教えている。
恥ずかしい。
「茨木って、何か意味あるの?シャオロンくんみたいに」
「異世界の、強い鬼の名前らしい。習ったことがある」
「え。わぁ……ちょっと、恐れ多いな」
どんどん、居た堪れなくなってきた。
恥ずかしい。
恥ずかしい。
思わず、俺は口を開いた。
「じゃあお前、いっちゃんな!」
「え!……あ。あだ名ってやつ?聞いたことある」
「そうそれ!間の抜けてる感じが、お前っぽいし!」
「えー」
恥ずかしすぎて、やけくそに言ったものの、あだ名すらも嬉しいのか、茨木は「いっちゃん」と呟いている。
言った俺も、こんなのもなんか友達っぽいな、なんて思ってしまって。
だんだん、笑えてきた。
俺が笑うと、何がおかしいのか、茨木も笑い出した。
たまに吹く風が気持ちよくて、木の枝が揺れる音も愉快に感じて。
俺と茨木は、しばらく一緒に笑っていた。
茨木と、他にも色々話した後、俺はそろそろ家に戻る時間だな、と思った。
立ち上がり、着物の汚れを払いつつ、聞いてみた。
「茨木は、まだしばらくは、ここにいるのか?」
茨木の膝の上で、猫が自分の尻尾で遊んでいる。
茨木は立ち上がれないまま、俺を見上げた。
「まだいると思うよ。この子が心配だし……あと、この子に名前を付けたくなったから、数日考えようかと」
「おお。良いじゃん。じゃあ俺、明日も来るよ」
「えっ」
もう来ないと思っていたのか、茨木が意外そうな顔をする。
残念だが、俺の休暇はまだ続くのだ。
そして俺は、休みの日の過ごし方を知らない。
俺は勝手に、茨木と過ごそうと決めていた。
「俺ん家に猫のご飯があれば、それも持ってくるよ」
「……あんまり上等なご飯だと、それ以外を食べなくなったら困るから、加減してね」
「おう!任せろ!」
「心配でしかない」
笑いを返して、家に戻ろうとした俺の背に、茨木の声が飛んできた。
「名前!」
振り返ると、猫を抱きかかえた茨木が、立っていた。
「キミの名前は、何ていうの?」
驚いた。
あれだけ名前の話をしていて、まだ名乗っていなかった自分に。
「徹!伸ばし棒の、とーる!またな、いっちゃん!」
驚いた。
討伐すべき対象の鬼に、本名を教えた自分に。
そうして俺は、自分と、自分じゃないヤツみたいな思考に挟まれながら、家へと戻った。
符術で空を跳んで、こっそりと塀を越える。
そうして家へ戻って早々、声をかけられた。
「坊ちゃん、どちらへ行かれてたんですか」
「別に。あ、そうだ。猫が食べられそうなものってある?」
「……用意しておきます」
うちで働いている人だ。
どうせ、俺が言ったことは全部、父へ報告されるんだろう。
こう言っておけば、俺がそのへんで猫と遊んでいたと思うだろう。思ってくれ。
自分の部屋へ向かって、長い廊下を足早に歩く。
それなりに時間が経ったおかげか、父を訪ねてくる人の数は減ったようだ。
俺たちに好意的な人だけなら良いんだが、立場上、政敵のような奴らもいて、気が疲れる。
気を張っていないと、相手に隙を見せたが最後、家の者から父へ伝わり、俺がしつこく説教をされるのだ。
隙を見せれば付け込まれるだの、常に竜造寺家の者として誇りを持てだの、聞き飽きた。
嫌な奴らなら、面倒だから消してしまえばいいのに、父はそうしない。
気に入らないから消していくのなら、その先に何が残る。なんて言う。
魔物を消すのと人を消すの、何が違うんだろう。
猫なら、消しちゃだめだって、わかるのにな。
三部屋ある自分の部屋のうち、真ん中の部屋へ入る。
広い部屋の端には、台座の上に作られた、小さな箱庭がある。
その中の木の上で、ちょこんとこちらを見ているシャオロンに、俺は今日あったことを話した。
「今日はさ、いっちゃんってヤツと、いっぱい喋ったんだ。俺、あんなに誰かと喋ったの、初めてかも」
シャオロンは、聞いているんだかいないんだか、わからない顔でこっちを見ている。
茨木と違って、変わらない表情。
でもそのぶん、俺は何も考えずに、喋れるようになる。
俺が付けた名前。シャオロン、茨木。
どっちも、異世界からのモノの名前だけど。
俺の名前、トールも、父が異世界由来で付けたらしい名前だ。
俺を産んですぐ、母は亡くなってしまったし、父は厳しいばかりで、ろくに話したこともない。
だから、トールがどんなモノからきた名前なのか、わからないけど。
(父と俺、感性が似ているのかな。だったら嫌だな)
じっと俺を見ているシャオロン。
シャオロンのいる、大きな屋敷の中の、小さな箱庭。
そこ以外全部、俺にとって嫌なものばかりだ。
(でも明日は、また楽しいことがある)
初めての休暇が、もっと長く続けば良いのに、と、思う。
俺の考えていることに同意してくれたみたいに、シャオロンが瞬きをした。
なんだか嬉しくて、俺は、少しだけ笑った。