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高校時代、一度だけ似たような慌ただしいことがあった。なんでも、匿名で爆破予告の電話があったようだった。その時期、全国的に爆破予告の被害が相次いでいたのだが、どれもことなきを得ていたため、今回もいたずらだということは薄々教員たちも気が付いていた。しかし、万が一ということがあるかもしれない。ホームルーム後の学生たちは全員校庭に避難させられ、二時間程度なんの指示もなく待たされた。
その日、朋絵と同じクラスの一人の生徒は遅刻して登校した。
当時高校一年だった朋絵たちの教室は校庭側の校舎に位置していて、生徒たちの避難している校庭から、廊下のガラス窓を通して視認できた。
全校生徒が校庭に避難している中、何も知らずに遅刻してきた生徒はのうのうと教室内へと入っていった。校庭にいる生徒たちは、彼に気がつかなかった。皆が「ねえ、爆破予告だってーー」「どうせいたずらでしょ?」とそんな話題でもちきりだったのだ。
その遅刻した生徒はその後、校庭に姿を現した。全校生徒がクラスごとに並んで座っている淵をかたどるように歩き、自分のクラスの一番後ろ辺りまで来ると立ち止まった。右足で何か線でも引くように校庭の土をざらざらと靴の底で擦り、そこに座った。
――なんでわかったんだろう。
朋絵は、列の中間あたりに座りながらそう思った。
職場は仕事どころではなくなっていたが、それでも仕事を続けるのが社会人で、「今日は家に帰れ」と指示を出されるのが学生だ。外回りの仕事がある人以外は、ほとんどデスクワークそっちのけで話ばかりしている。それでも朋絵はしっかりパソコンに向かっていた。
昼休憩になり、朋絵は席を立った。
「あれ朋絵さん、帰っちゃうんですか?」
隣のデスクに居た後輩に声をかけられる。昼休憩で出て行く社員は多いが、大体の社員は財布だけ持って外へ出て行く。煙草を吸いに行くにしてもライターと煙草、ポーチぐらいあれば十分なものだが、このときの朋絵は鞄ごと持って席を立っていた。
ちょっとコンビニに、とでも嘘をついておけばよかったのだ。だが朋絵は「ちょっとね。今日の職場こんな感じだし、大事な仕事も昨日終わらせちゃったから、今日はちょっとサボっちゃおうかな」と素直に答えていた。
「えーー珍しいですね。先輩いつも真面目で人間の鑑だーーって思ってたんですけどそりゃそうですよね。やっぱりサボりたくなりますよね」
朋絵は苦笑いし、「内緒ね」と人差し指を唇の前に立てる。後輩は「はーい、お任せくださーい」と砕けた顔で見送ってくれた。
会社のエントランスを出て駅へと向かう。きっと後輩はあの後、自分のことを噂話のネタにしてるんだろうなあと思うと少し憂鬱になった。「何あのおばさん。上司がいなくなった途端サボるらしいよ。よくよく見ると顔ブスだし、化粧下手だしおまけに愛想悪いし、何あの苦笑い。キモすぎ」
後輩の悪い噂は社内でもたびたび耳にすることがあった。これだけ交友関係の薄い朋絵の耳にすら入ってしまうのだから相当だろう。この間も、社内の喫煙所に行ったときに男性社員たちが話していた。
「後輩の癖にあいつ図々しいんだよな。可愛けりゃ許されると思ってる典型だな」
「そういえばこの間、内田さんのこと噂してましたよ。私の胸ばっか見てくるぅー、私とやれると思ってるのかよ。あいつなんて眼中にないっつーの、みたいな感じで」
「はっマジかよ。あいつ表面だけよくて……畜生。あわよくばやれるかと思ってたのに」
「先輩、あいつの本性わかってないですね。噂じゃいろんな人の根も葉もない噂流してるらしいですよ。特にお気に入りの……なんでしたっけ、ああええと、宇佐美くんか。あの新入りの若い子。あの子と女性社員がちょっとでも話してるの見ると、裏で大体陰口されてるらしいですよ」
「ああ、いいんだよそんな性格は。身体だけありゃそれでいいんだよ。あのムチムチの尻触りてえなあ」
「ちょっと先輩……」
そこで後輩社員が近くにいた朋絵を見つけたことで会話は途切れてしまったが、それだけ聞ければ十分なくらい理解できた。
電車に乗り込むと、中は朝時に比べれば空いている方だった。座っている人はいるが、立っている人はあまりおらず、通路は見通しが良かった。朋絵は乗車したドアの窓際に寄りかかる。ガタガタとドアが閉まり、ぷしゅーっと電車は音を立てて発進した。
初めて会社をさぼったというのに、自分の胸に訊いてみても罪悪感はちっとも感じられなかった。じゃあ罪悪感がないのだとしたら、何か幸福感に似た感情はあるのか。自分の胸の内を探ってみるがいまいち見当たらない。あの緊張しているときの空気の薄さ、胸のざわめき、そういった感情すら一切ない。普段と一緒だったのだ。
これが学生だったら少しは違ったのだろうな、と朋絵は思った。皆が教室に揃って座って座学の授業に励んでいる間、一人だけ部室に籠ってゲームをする。数人で学校を抜け出し、近くのゲームセンターで遊ぶ。そのとき手にするのは、ゲームに対する単純な面白さと、もう一つは比較した幸福だ。それは、皆が真面目だからこそ自分はお前らの上を行っている、自分たちは先生の目を盗んで遊べる度胸がある、と比較して幸福感を手にするということだ。
朋絵は俯いていた顔を上げて、過ぎ行く窓の外の景色に焦点を合わせた。身体が小刻みに揺れ、それに合わせてガタゴトと音を立てながら電車は進んでいく。
ふいに焦点が手前に動き、窓と合った。そこには薄っすらと朋絵の顔が映っていた――朋絵の顔が幼い。服装は高校時代の制服。背が縮み少し幼くなった朋絵の隣には、同じ制服姿の男子生徒が立っていた。