【ディアホーン】
〈九月一日 午前十時〉
「加耶ちゃん元気ですか? あなたの嫌いな上司はもう死にましたよ。昨日退職したみたいだけど今日ぐらいは職場に来て欲しかったなあ。話したい事あったのに」
高坂朋絵は耳からスマートフォンを離し、画面を切った。
普段、仕事中は電話がかかってこない限りは極力スマホには触れないようにしていた。しかし今日は事情が違った。朝から職場は慌ただしく、誰も朋絵のデスクになど気を向けて見ている者はいない。朋絵どころか皆が、それどころではなくなっていた。
真面目にデスクに向かって仕事をしているふりを続けていた朋絵だったが、横の後輩たちの話が駄々洩れだった。キーボードをカタカタと叩くふりをしながら耳をそばだてていると、どうやら上司が会社に出勤していないらしい。無断欠勤なら偶にあることで、それはそれでいけないことなのだが、どうもそれだけではないらしい。
「大事な会議すっぽかすなんて意味わかんないよねー」
どうやら上司は、無断欠勤に加え、大事な会議まですっぽかしてしまったらしい。
大馬鹿者だあいつは、と思いながらキーボードを叩いていると、また別の情報が横の後輩たちの口から洩れてきた。
「なんか、今警察から電話があって、鈴木、死んだらしいよ。佐々木さんが電話取ったらしい」
鈴木は上司の名前で、佐々木は同じ部署の社員。
職場は依然、慌ただしかった。普段とはまた違った社員たちの声が聴こえてくる。
そうか……やっぱり死んだのか。
朋絵は耳をそばだてるのをやめた。ただでさえ眠い眼をこすり、集中して仕事にとりかかった。