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 五分程度だった。崖と樹木の大谷を下っていくと、右側に露店が見え始めた。やはり観光地の様で、外国人や一般客がちらほらと店の前で足を止めている。


 つい先程、男は駐車場から離れて少ししたとき、「車の鍵かけてくるの忘れた。下っていったところの露店に面白いの売ってるから見て来てみ」と言い残して、道を戻っていった。


 近づくにつれて見えた露店は、夏祭りや花火大会で見かける出店とは雰囲気が違った。雰囲気だけで言えば、京都や温泉街で見かけるお土産屋といった方が近い気がする。店の前には木づくりの長椅子が置かれていて、そこに座って団子や煎餅などの和菓子を食べるそういう出店の雰囲気。

 しかし、そこで果たして団子や煎餅(せんべい)を食べている者はいなかった。それどころか、出店自体もお土産屋とは程遠く、華やかな装飾もライトも一切ない。あるのは無個性な水槽と水槽の中を泳ぐ魚だった。


 通りかかった加耶はその水槽を眺めた。魚が何匹か泳いでいる。一匹五百円。どうやらイワナ、という魚らしい。水槽の奥では、白髪頭のおじさんが炭火の網の上でイワナを焼いていた。三十センチ程度の魚で、うねるように一匹串刺しにされたイワナが網の上に何匹も並んでいた。塩をたっぷりとかけられ、鱗が所々黒くなっている。それをくるくると回している。


「くうか?」


 いつの間にか後ろにいた男は加耶に訊いた。


「あ、大丈夫です。もし駄目なら帰りにでも買えばいいし」

「帰りは多分無理だ」


 なぜ? と加耶は思ったが、それほど空腹でもなかったので特に気にはしなかった。


 出店の向かい側には橋があった。ちょうどその下を小川が通っているようで、水の音が心地よい。その橋を渡って二人は奥へと進んだ。


 この奥に何かがあるのだろう。この進んでいった先に、きっと観光客の目当ての場所、そして男の「おもしろいことがある」といった場所があるのだろう。右側には、先ほどの橋の下にあった小川につながっている、それとはまた別の小川が流れていた。前へと進むごとにその小川はちょっとずつ川幅を広くしている。用水路程度だった小川が、渓流程度の広さになった。川には段差があり、上から落ちてくる水が段差の岩に当たって跳ね、小さな空気の泡が広がって透明な水を白く見せた。滑らかだった水音が、岩に当たってジャーという激しい音に変わる。


 加耶の左手前を歩く男が、歩みを止めたような気がした。加耶は右手側の渓流から視線を逸らし、正面を向いた。

 途端に、またどこかへ飛ばされたような感覚に襲われた。魂だけ抜けて天に昇ってしまったような、そんな感覚。荘厳(そうごん)な雰囲気に包まれた森林の一角。神聖な鮮やかな緑色一帯の下に落ちる自然の音。人為的に手の施された環境で暮らしていては忘れてしまう、人間本来の優しさを直接肌で感じられる神秘。物語で出てきそうな神秘が、加耶の目の前に広がっていて、自分は本当に立っているのか、これは本当に自分の眼で見ている景色なのか、それを疑わざるを得ない感覚。遊園地のアトラクションに乗って数メートル上昇した浮遊感。三人称視点。自分は本当はもう魂が抜けてしまって、幽体離脱し空中からこの景色を眺めているのではないか。ドローンのように上から景色を眺めているのではないか。タケコプターでもつけているのではないか。観光客が周りにいるのに、その異物感を感じさせない。


 圧倒された。

 滝だった。


 それは数十メートル上から落ちてくる滝でも、数百メートル幅の湖から一気に落下するナイアガラの滝でもない。確かに両方とも美しいことには変わりないが、この滝はそれとは違うのだ。大きさで圧倒するのではなく、見ている者に直接語り掛けて圧倒する。自分が異界の地に来てしまったのではないかと勘違いさせるような錯覚を、目から語り掛けてくる。


 そういう白糸の滝。


 白い線がいくつも伸びている様。大きな音を立てて滝壺に落ちる滝とは違って、音も静かなら滝壺の波紋も滑らかだった。白い気泡の集合体が、白く、白く、木漏れ日に当たって白銀に光る。目を閉じるとその神秘がよくわかる。瞼の落ちた瞳の奥で、滑らかな流水音。今しがた見た白糸の滝の景色が瞼の裏にちゃんと映った。


 加耶は、昨日の自分を少し後悔した。こんな景色を見せてくれた、こんな美しい音を聞かせてくれた男に感謝しなければならない。未来は何が起こるかわからない。昨日、アパートの屋上から飛び降りなくてよかった。飛び降りようとしたときに襲ってきた雑念は、きっとこういう美しい景色が、加耶の知らない景色が世界にはたくさんあると示唆していたのかもしれない。そして美しいものを、美しい、と思える自分でよかったと思った。

 男についてきてよかった。いつか死ぬとしたらこういう美しい景色に囲まれながら死にたい、そう思った。あんなアパートの屋上からなんかではなく、上司に罪を擦り付けようと意地悪な考えを捨てて、美しい景色を目の当たりにした興奮をそのままに、興奮が消えてしまう前に、そうやって死にたい。


 加耶は、確かに、圧倒されていた。普段興奮を胸にすることはほぼないに等しい。胸の高鳴りは、走った後に息が上がってのものとは異なることがよくわかる。この興奮は病みつきになりそうだと思ってしまうくらい。

 反して、男は加耶と違って冷静に滝の奥を眺めていた。腕を組み、関心するでもなく、怠そうにするでもなく、ただ一点を見つめている。


 加耶はその男の横顔を見た。これは……どこかで見たことがある。すぐに既視感だと気づいた。でも、その既視感がどこから来たものなのかは定かではなかった。現実で見たものなのか、それとも眠っている間に見たいつかの夢でのことなのか、それともただ似ているというだけで、昔の同級生の横顔に似ているだけなのか。

 ぱっと思い浮かんだのは、昨日の出来事だった。一人で死ぬことができないと悟った加耶は、「押してくれない?」と男に頼むが、一向に押される気配がない。振り返った加耶が見た景色。屋上の淵に乗って身長の高くなった加耶が、女王様にでもなった感覚で見下ろしたときの男の顔。一点を見つめる視線――二つの間で揺れているような視線――。


 ああ、と加耶は納得した。ちょうどそのとき、男の一点を見つめる視線がそがれた。彼は加耶の方へ向き、今度はおぼろげに見つめた。焦点が合っていないような、遠くを眺める目つきで。


「あそこに埋蔵金があるから取ってこいよ」

 その口調に、羞恥心は含まれていただろうか……。


 加耶は驚くよりも先に、「ほんとにあるの?」と口走っていた。


「あるよ」

「あそこってどこ?」

「あそこの下」男は指を差した。その指を差した先が抽象的過ぎて、加耶は男の指がどこを差しているのかよくわからなかった。


「いや、え……?」


 もう一度ゆっくり男の指先から差している先を視線でたどる。わざわざ男に近寄って、背中の後ろにまで回って確認するが、どう考えても指先は今加耶たちの見ている白糸の滝へと向かっていた。


「えっと、どこ指してるの?」

「たき」

「多岐?」

「滝」

「あの滝の下に埋蔵金があるの?」

「そう」

「ほんとに?」

「ああ、あそこの真ん中あたりの滝壺にある。滝っつってもそんなに深くないと思うからとってこいよ。一攫千金」

「……え、本気? てかほんとだよね?」

「だからさっきから本当だって言ってるだろう。いいからさっさととって来いよ。お前は俺が止めなきゃ一度は死んでるんだからどーもこーもないだろう。いいからさっさといけ! 死のうとするぐらいなんだからたかが観光地荒らすぐらい訳ないだろ。ネットで誹謗中傷されて生きたくなくなってから死ねるんだから万々(ばんばん)(ざい)だろうに」


 男は少し声を荒げた。加耶の繰り返し確認する態度は、彼を逆撫でしてしまったようだ。

荒い口調は、加耶が滝の中へと入ることから逃れられないようなものだった。加耶もだんだんとその気にさせられてしまう。


 戸惑って、行こうかやめようかという迷いが加耶の行動に現れていた。それはまるで昨日アパートの屋上から飛び降りようとして右足を空中に浮かせたはいいが、そのあと何度も戻す羽目になったときと同じものだった。でも、五感が言っている。あざとい既視感が脳裏で「幸運を」と手を合わせている。


「死ぬよりはましだろう? だって未来があるんだからな。その未来が災難だったとしても、未来が確かにあるんだ」


 どこかそんな言葉にほっとしている自分がいる。


 周りを見渡す。観光客、家族連れが何組か見えた。きっと変な人に見えるんだろうなあ。小さい子が真似して入ってこないかな。もしそうなったらお母さんちゃんと止めてあげてね。あれは悪い大人の見本だからって。反面教師だからって。もしそれでも入ってきちゃったらどうしよう。そしたら一緒に水遊びでもして……そのあと死ぬのも悪くないか。警察に捕まる前に、さっきの渓流に頭から飛び降りたりして――。


 土の地面から離れた右足のスニーカーが、水面に触れる。触れると小さな波紋が広がり、消える前に第二波が大きな波紋となって後を追った。右足が完全に水の中に入り、靴底が水底に触れる。スニーカー濡れちゃったなあ。お気に入りだったのに。でもお気に入りだったのは買った当初だけで、今はもうボロボロだからいいかー。何年履いたんだろうこの靴……。


 滝壺の底は歩きにくくはなかった。いつか小学校の頃近くの川で遊んだときのような感覚だった。最初は浅い岸辺から入り、「あそこは深いんだよねー」「胸のあたりまで浸かっちゃうからプール入っているみたいになるよ」そんな会話を友達と交わした記憶。大人になった今は、きっと胸までは浸からないのだろう。


 ゆっくりゆっくりと一歩一歩進むたびに波紋が揺れ、膝の周りに白い気泡ができては消える。右、左。右、左。だんだんと深くなっていき、腰までつかり、胸までつかり、腕を掻くように前へ進み、ついに顔付近まで水面が来たとき、加耶は、ああ懐かしいなと、と小学生の頃の記憶を脳裏に蘇らせていた。学校の帰りに川の中に入り、ランドセルはさすがに岸辺に置いたが、服はびしょびしょだった。あの服がへばりつく感触。髪が顔にへばりつく、顔についた水を(てのひら)で拭う。


「潜ってみようぜ!」


 男の子の一人が言い放った。せーの、で一斉にみんなジャンプした。顔を水面につける。怖くて目が開けられなかった。片目をそっと開けてみる。視界がぼやけている。目が痛くて何度も瞬きをする。あの頃は、自分だけが水中で目を開けているときに視界がぼやけるのだと思っていた。


 ああ、懐かしい記憶。

 ちがう。

 楽しい記憶だよ――。


 ザバッと水面から顔を出した。加耶は前髪をかき上げ、顔についた水を掌で拭う。すると、ぼちゃっと何かが水面に落ちるような音がした。意外と滝の下付近に来ると滝から落ちた水の音がうるさく、その音に混ざって聞き取りづらかったが、確かに何かが付近の水面に落ちた。見れば何かが沈みかかっている。手を伸ばすとそれは懐かしいものだった。


 手にしてすぐに、男の方を振り返る。男はしゃがんでいて、何も言わずに右手の親指を挙げて自慢げだった。


 周りの観光客が慌ただしそうだった。スマートフォンでカシャカシャと写真を撮る外国人は楽しげだ。男女のカップルは「何あれー」とくすくす笑い合っていそうだ。家族連れの子どもはやっぱり「入っていいの? ねえ、入っていいの?」とでも言っている態度で、それを止める両親。そして、人目も(はばか)らずそれも、観光地の神聖な場に足を踏み入れるまさによたガキの私。


 ふふっと笑みが零れたのは一瞬だった。男の方へ向き直り、小学生の頃男の子が「潜ってみようぜ!」と叫んだように、加耶は口を大きく開いた。


「ゴーグルあるなら最初から渡せえええーーー!!」


 久々にこんな大声を出した。声を張り上げた。それもこんな公衆の面前で。それも観光地の神聖な場で。白糸の滝の滝壺の中で。会社でなんて叫ばないのに、こんなもっと恥ずかしいところで叫んでいる自分。


 ちょっとだけ、ちょっとだけだけど、救われた気がした。懐かしい香り、小学生の頃の自分。世の中のルールなんていざ知らず、嫌なことは嫌だと叫び、好きなことは好きだと自慢げに語る。あの頃の私。小さい頃の人間。


 へばりつく髪の毛をまとめながら、加耶はゴーグルをつけた。すぐに潜った。水中に頭が完全につかると、耳は冴え、水中独特の音が聴こえる。ゴーグルをつけたことで視界がぼやけることはなかった。潜ったときにできた気泡のぶくぶく音と、自分の身体内部の音。陸上とはまた違った聴覚を手にしながら、加耶は水底に視線を泳がせていた。


 水中は、加耶が歩いたことで底の土が舞い上がって濁っていた。おまけに滝から落ちてきた水が音を立てて聴覚を邪魔する、視界を悪くする。目の前は白い気泡でいっぱいだったが、いちばん底まで気泡は及んでいないようだった。

 白い気泡の隙間に、何か光るものを見つけた。手を伸ばして触れようとする。手に触れたとき、これはフライパンか? と一瞬加耶は思う。ちょうど握りやすい柄の部分を探り当てたようだ。しかし、先ほど見たのは何か光るものだった。それに握り具合からこれを私は毎日握っているという感覚があった。ということは……包丁? でもちょっと違う。柄は包丁を握っているようであるのに、何か違うという違和感。誰かの思い出の品に触れたときに「ああ懐かしいな」とその際のことを思い出すような、それでいてその誰かの感情、心の底に触れているような……。


 考えてもわからなかった。(いぶか)しげになった加耶の視界は、だんだんと濁りが消え始めていた。底まで潜ると、落ちた滝の気泡が及ばなくなってきていた。そのとき視界に飛び込んできたのは……。

 加耶の口周辺から、ボコッ、と大きな気泡が音を立てる。驚いた加耶は眼を見開いた。それが事実なのか、自分の見間違いなのか、見定めるようにはっきりと。


 視界を濁らせていた土埃が引いていく。

 まるで来客を入れようと開けられていく門のように。

 門の先に見えたそれ。

 まるでここが生活している家かのようだった。水中なのに陸上と違和感なく溶け込み、普段寝ているベッドの上かのように眠っていたそれ。

 私は幻を見ているのかもしれない。これはもしかして人魚? そんな馬鹿な。そう馬鹿だ。加耶は馬鹿だった。九割がたこれが人間だとわかっている。九割がたこれが息をしていないとわかっている。岩と脇腹にロープが括られている。だからもしかして人魚なのではないか、そういう可能性もなくはない。自分が見たことがないだけで、人魚だって本当にいるのかもしれない。その一割残した希望を叶えるために、加耶は視線を下半身へと移した。


 脚はちゃんと二つに割れていた。


 ごばっ、と加耶の頬にあった空気が口元から吐き出される。息が続かない。早く上に上がらなくては。加耶は手を伸ばした。

 下に――。


 陸上に顔を出したとき、加耶は、別の世界に来た気がした。水中は耳の聞こえ方が違う。ゴーグルなしでは盲目で身動きが取れない。そして、前に進むのが水の抵抗によって遅くなる。


 加耶は滝の下に来たときと同じようにゆっくりと一歩一歩歩いて岸辺に戻ろうとしていた。足が地面につくようになり、肩が見え始め、胸が見え始め、そして腰、腕が見えるようになり、岸に近づくにつれてだんだんと水底は浅くなっていった。決して慌てることはなかった。決して急いで陸上に上がることはしなかった。焦るな、冷静に、と言い聞かせる。


 脚に。


「警察! 警察!」


 脚は焦らず冷静だったようだが、口は達者だったようだ。ゆっくり歩きながらも口では加耶は叫び散らしていた。「やばいやばい! ほんとに!」口だけは焦りを隠せない。

 観光客の面々は、驚いたように加耶に視線を注いでいる。


 でもすぐに変わった。

 表情が。曇った。

 その曇った表情がだんだんと濃く、黒く色味を増していく。夕立が来る前兆のように、突然ぎらぎらと照らしていた太陽を覆った曇。だんだんあたりが暗くなり始め、ぽつぽつと不安の雨が降り始めた。これは夕立だ。降り始めた雨は数分もしないうちに土砂降りになる。観光客の表情は夕立の様に、曇り、ぽつぽつと小雨を降らせ、そして土砂降りになった。


 観光客の一人が足音を立ててその場から動いた。それをきっかけに、カップルは逃げようと手を繋いで走る。家族連れは状況を理解できていない息子を抱え、来た道を戻ろうとしている。外国人の二人は、しきりにスマホのカメラのシャッターを押している。押し終えた後、身の危険を感じるように奇声を上げながら、逃げる観光客の後を追っていく。それはそれは楽しそうに。


 加耶は何が起こっているのかわからなかった。なんでみんな逃げるの。一大事だよ。人が死んでるんだよ。気づいてないのかな。早く警察に電話しなきゃいけないんだよ。私、携帯捨てちゃったから誰かに頼まないと……。

 

 そのとき、駐車場でスマホをポケットにしまう男の姿を思い出した。早く男に頼もう。そう思って視線を岸辺の男に移したとき、男はしゃがんだ態勢でにやにやとこちらを見ていた。男の後方では逃げ惑う観光客の数々。それに逆らうかのように、男はその場に足をとどめていた。

 男が手を叩いている。右掌を左手の指先で。最初は拍手でもしてるのかと思い、「こんな一大事に」と苛立ったが、普通拍手だったら掌同士を合わせて叩くだろう。しかし、男は右掌と左手の指先だった。もしかして……。


 加耶は自分の右手を見た。

 ……ああ、そういうことか。

 柄の部分がしっくりと手中(しゅちゅう)におさまる感触に、握っていることを忘れてしまっていたようだった。握った柄の部分の先から長く伸びる棒の切っ先が、水に触れている。刃の部分が光に触れてキラキラと反射する光景を加耶は綺麗だと思った。だが、それは観光客に取ってみれば別の話だ。そりゃ、刀を持った人間は武器を手にしているわけだから少なからずその武器の魅力を手にしているわけだ。自分が強くなっただろう感覚を無意識に手にする。刀でなくても、銃やスタンガン、鉄パイプ、金属バット。それを手にしているだけで自分が強くなった、だから怖くない。でも、丸腰の人間は武器を手にした人間に恐怖を感じるのは当たり前だった。たとえ悪意がなく、ぴか一優しい人がただ手にしているだけだったとしても、人は武器が人間を傷つけられるということを知っている。武器が恐怖という意味合いを含んでいて、それを目にしただけで「怖い」という感情を抱くのが普遍的な人間だ。


 大声で叫ぶことをやめ、加耶は岸辺に向かってゆっくりと戻った。右手に刀、左手に死体。左手は死体の右手を引っ張っていた。水中で浮力があるとはいえ重いことには変わりなかった。その分右腕を大きく振って勢いをつけるので、刀はぶんぶんと空を、切っ先は水面を切っていた。浅瀬になり始め、死体が水面から顔を出すとずんと重くなった。やっとのことで岸辺に引きずり出した。

 

 男は未だ、しゃがんだままだった。慌ただしく逃げていった観光客の姿はもう一人もいない。男にとって刀には恐怖の意味合いが植え付けられていないのだろうか。死体を見て恐ろしいと思わないのだろうか。その理由は、きっとすでに知っていたからだ。滝壺の底に沈んでいるのが刀と死体で、それを持って加耶が出てくることを事前に予想できていたからだ。人が驚くのは予想外の出来事を目の当たりにしたときだ。男にはこうなることが初めから分かっていたという他、こうして驚かずにしゃがみ続けている理由を説明はできなかった。或いは、男が変人であるという以外は。


 突然、アハハ、と男が笑い始めた。男は変人なのかもしれない。「何この光景。右手に日本刀持って、左手で死体引きずってるなんてまるで殺人鬼じゃん。おまけにずぶぬれ。首にゴーグルぶら下げて。面白いね、お姉さん。マジ笑える」

『笑い事じゃないよ!』そう怒鳴ろうとしたが、喉まで出かかって引っ込んだ。怒る気力も失せてしまった。


「埋蔵金があるんじゃなかったの?」半分呆れながら訊くと、「ちゃんと手に持ってんじゃん」と男は言う。

「刀はかろうじて理解できるけど、死体は何なのよ。こんなの聞いてないし、そもそも埋蔵金って言ったらお金とか金貨とかそういうものを想像するでしょ。埋蔵金があるって言われて死体があるなんて誰も思わないわよ」

「誰も埋蔵金そのものがあるだなんて言ってないだろ。俺にとっての埋蔵金はその死体……って可能性も無きにしも非ず。というか、大抵の人間なら死体見つけたところで見てみぬふりするよ。お姉さん優しいね」


 男はしゃがんだままの状態で指を差した。指された先は死体だった。見つけたときは気が動転して気づかなかったが、どうやら男性の様だった。そしてその顔に見覚えがあった。


「刀はそのおまけ」


 死体のシャツの隙間からへそが覗く。丹田付近に傷口があった。誰かが殺したのだろうとすぐに思った。その誰かは加耶にはわからない。でもなンとなく自殺ではなく殺人のような気がした。


「どうすんのこれから」

「んーわからん」

「あなたが殺したの?」

「そう」

「そうって……どうして?」

「あーーなんだろうね。ああ、人間はいらないから――」


 男がそう言った直後、遠くの方でサイレンの音がした。先程の観光客の逃げ惑う喧騒(けんそう)が無くなり、静寂が訪れていた白糸の滝に、再び喧騒が戻ってくる。


「け、警察来たみたいだけど大丈夫なの?」加耶は必死に男を問い質す。

「ああ大丈夫大丈夫。俺もう多分捕まるから。捕まる覚悟で最後におもしろいことないかなあって思ってここ来たら、思った通り面白い景色見れたからもう満足」

「もしかしてそのために私をここに呼んだわけ?」

「そういうことー。大丈夫だよ。あんたは関係ないって俺が言っといてやるから」

「……え、でもなんで警察? 早くない? こんな山奥なのに来るの」

「ああ、だって俺がさっき呼んだし。駐車場で」

「はあ? あんた馬鹿なの? 自分から呼んでどうすんのよ!」

「いいんだよ。俺にもう悔いはない。お前みたいに屋上まで行って躊躇う人間とは違うんだよ」


 切羽詰まった状況だった。警察はすぐ近くにまで来ている。加耶の足元には男の死体があり、右手には日本刀。言い逃れするには見苦しい光景だが、それでもやっていないと説明すれば、加耶の罪は免れるだろう。ましてや、目の前で警察に捕まることを覚悟している男が捕まった後に証言してくれるというのだ。指紋がついていようと関係ないが……懸念(けねん)は共犯にされないかということ。共謀罪や銃刀法違反というものまであるくらいだ。


 加耶は迷っていた。なぜだろう。自分はただ巻き込まれただけ。男の最後に見たい面白い景色の演者として巻き込まれただけ。別に殺人なんかしていない。悪いことはしていない。

 でも……。不思議に思ったのかもしれない。犯人といえば、警察を前にしたら逃げるものだと思っていた。しかし男は逃げないと言っていて、もう捕まることを覚悟している。それどころか、警察を自分で呼ぶというなんという身勝手さ。自首すれば刑が軽くなるかもしれないというのに、わざわざ匿名(とくめい)で通報して捕まろうとしている。だったら自首すればいいのに。


 どうしてこんなことになった……。加耶は昨日死ぬ筈だったのだ。なのに――死にたくないと人間の中の血が騒いでいる。別に死ぬわけではないのに。警察がこちらに近づいてきているだけだというのに。近づいてきているだけだというのに、人間の善良な血が、「私は悪いことをした」と無理に罪を作り出そうとしている。もしかしてあれが悪かったのかな――友達に悪口を言ったから――意地悪なことを思ってしまったから――一瞬でも刀の柄を握ってしまった私が悪いのかな――その無理に作り出された罪の意識が、近づいてきているだけの警察を敵とみなし始める。


 サイレンの音が聴こえる。


 ――逃げなきゃ。


「山本おお!」


 警察の怒号が耳に入る。もう迷っている時間はない。逃げるか立ち止まるか。逃げる仕草を一瞬でも警察に見せてしまえば、もう後戻りはできない。共犯だと断定される。でも、死体を前に戸惑った態度で警察に真摯に向き合って話せば、もしかしたらちゃんと理解してくれるかもしれない。


 ……一瞬だった。加耶の頭の中に過った警察の印象。傲慢――ドラマで見た、権力に負けて誤認逮捕される一般人。スケープゴートの冤罪(えんざい)――。


「逃げるの?」


 加耶は、はっとした。男は(うつむ)いた加耶の顔を覗き込んでくる。


「俺はどっちでもいいよ」


 どっちでもいいって、決断を迫られてるときにそういうのが一番困る……。


「俺が二つの間で迷ったときは、大体想像する。この後起きるだろうこと、起きそうなこと、こうすれば面白くなるかもしれないってこと。頭の中でいろんな光景のカルタを何個も何個も広げて、それで、最後に一番面白そうな光景のカルタを取る」


 ……。


 加耶はそのとき、遠く焦点の合わないぼやけた目つきで男のことを見つめた。男が加耶の足元で横たわっている死体に何か呟いている。露になっている傷口を隠すように男は死体のシャツの裾付近に触れた。


 視界が鮮明になる。


 男はニッと笑った。


「じゃあとりあえず逃げますか、加耶ちゃん」



 男は加耶の名前を知っていた。そして警察が叫んだことで男の名前が山本だと知る。来た道とは違う抜け道を、加耶と山本は走る。アスレチックのようなその道は、両側が木漏れ日すら隠れてしまうほど高い林になっていて、足元には樹の屑が撒かれている。踏んだ感触が柔らかい、緩やかなアップダウンの一本道を二人は走る。


 前を走る山本が振り返る。


「な? おもしろいことあっただろ」


 な、じゃねーよ。



 このとき少し口角が上がったことを、本人たちは知らない。


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