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〈九月一日 午前十時〉



「眠たそうなのにちゃんと眠れてないようだったから、不眠症の類だと思ってさ。だいぶ魘されてたし、自前の睡眠剤を打たせてもらった」


 加耶が再び車の中で目覚めたとき、運転席に座っていた男はそんなことを口にした。淡々と話す口調からは、良かれと思ってやったようには到底思えなかった。

 普通、よく知りもしない人間に睡眠剤など打つのだろうか。それもタブレット形状のものを飲ませるのではなく、注射器で。注射器なんて大抵の人間が持ち歩くものではない。そう考えると、この隣に座る人間の不気味さがじわじわとわかってきた気がした。しかし、今加耶はちゃんと目覚められている。身体に違和感などなく、しっかり眠っていたせいか頭も冴えていた。おそらくだが、男が睡眠薬を打ったということは本当なのだろう。遅発性の毒みたいなものでなければの話だが。


 冴えた目で車窓から見えたのは、眩しい日光だった。目の前に見える樹木の上からの日差し。夜が明け、朝日が加耶の冴えた目に容赦なく差してくる。車のシートで寝ていたせいか、身体のあちこちからばきばきと関節の鳴る音がした。組んだ両手を頭上に挙げ、大きく伸びをするとさらにその音が増した。フロントガラスから射す容赦のない日光は、そんな加耶の身体を癒してくれるようだった。暖房とはまた違う、服の上からでも感じられるその温かさが、やはり日光という自然の力の偉大さを教えてくれる。

 どうやら車はどこかの駐車場らしきと場所に停まっているようだった。駐車場と言っても、よくある駐車場とはまた違っていた。スーパーや、それこそパーキングエリアのような広い土地に並列に区画されているものではなかった。


 加耶は左右を見渡した。

 体が少し右に傾いているのは、この駐車場が下り坂になっているからだろう。


 加耶は、車を降りた。また大きく伸びをする。身体が(きし)む。見渡した景色。ここは……。

 都会とはまったくをもってかけ離れた景色だった。実家に住んでいた頃の田舎を連想させる景色。左に高大な樹木、右にはそれには劣る石畳の崖。どこか森の奥に迷い込んでしまったかのような場所だった。でもすぐに思い直す。緩やかな左カーブになって下っているこの道の下から、数人の人間が上ってくるのが見えたからだ。そして、ぽつぽつと駐車されている車と、均等に区画された駐車場の白線。崖側に沿って一列の駐車スペースが置かれていた。別に迷い込んだ森の奥地でも何でもなかった。そのときふと思ったのが、どこかの観光地なのではないか、ということだった。

 下の方から登ってきた人間が、加耶たちの数メートル下に停まっている車に乗り込むようだった。ガタイのいい男性、金髪、サングラス。片手にはスマートフォン、首に下げている一眼レフカメラ。こんなところに来る外国人は大抵が観光客のはずだ。


 それにしても、こんなに居心地の良い場所なんて何年ぶりだ……自然の音が肌を通して感じられる。両側が自分よりも何倍も高い樹木と崖。大谷のような、回廊のような。余計な雑音が一切耳に入ってこないのだ。電車の音、アナウンス、改札を抜ける効果音、タクシー、救急車のサイレン、車、信号機、もろもろの生活音、ノイズ。街で生きていると絶対に耳にしているはずの音たちが、ここにはほとんどない。その居心地の良さを、街に住み慣れてしまったことで加耶は忘れてしまっていたようだ。


 自然は、身体ごとどこか異郷の地に運んでくれるみたいだった。


 運転席に乗っていた男が、車から降りたようだった。今まで見たこともないようなオーラを放つ骨董品に目を奪われているかのような加耶を見て、男は「そんなにいい場所か?」と尋ねた。手には透明なビニールの手袋をはめていて、まさに骨董品の扱い方を知っていて、俺にも見せてくれよと言わんばかりだった。実際は注射器を使う際につけたものだろうが。


「はい。すごく」


 加耶は自信をもって言った。自信をもってこれが好きだと言える場面は、加耶の生活環境にはほとんどなかった。言えるとしたら、ツイッターなどの匿名性の世界ぐらいだ。友人などほとんどいなく、会社でも無口、偶に旧友と食事に行った際も、話の流れや相手のことを気にして自分のことなどあまり口にできなかった。

 自分の好きなことを誰かに話したり表現することは、こんなにも素敵なことなのか。不覚にも、二十代半ばで初めてそんなことに気が付いた。


 もしかしたら、この男は加耶を素敵な観光地に連れてきたかったのかもしれない。お前の見ている世界は狭すぎる。世の中にはもっと自分の知らない世界がたくさんある。だから死ぬのなんてそのあとでもいいし、素敵な光景を目の当たりにすればまた生きたい、もっと素敵な景色を見たい、そういった未来への予定が生まれる。それを意図して「おもしろいことあるからついてこい」と加耶の自殺を止めた。


 自殺を決意した人間は闇だ。真っ暗だ。本来他人が一時的に何と声をかけようと響くはずはない。でももし、仮に止める方法があるとするなら、「この世界は広すぎる」ということを本人に気付かせることなのかもしれない。


 それが闇を抱えた普通の自殺志願者だったならば、だ。


 加耶の自殺の動機は通常とは異なっていた。もうどうしようもなくやつれて生きたくない感情の渦に飲み込まれて身動きが取れない、というわけではない。確かに死んだら死んだでいいかぐらいで生きてはいたが、自分が死ぬことで上司に「お前のパワハラセクハラのせいで」「過労死で」という因縁をつけたかったのが自殺する理由だった。だから、あと一歩のところでアパートの屋上から飛び降りられなかったのだ。今死ぬのにはもったいない、上司に因縁つけるだけのために死ぬの? もうちょっと生きられる、痛いのは嫌だ。やつれていない分、そんな雑念が脳内に混ざって。


 今頃会社では、加耶のことを何と言っているだろうか。本来ならすでに死んでいたはずだったが、生きながらえてしまっている。無断欠勤は、入社から一度もない。退職届は受理されていないはずなので、「なんでいないんだ!」と加耶のことを上司は罵っているだろうか。


 そんなことを思い、ジーンズのポケットに入っているスマートフォンに手を伸ばす。見ると、着信履歴が四件あった。三件が会社の番号、一件は唯一番号を知っている同僚の女性社員からだった。四件ともに留守番電話にメッセージが残っているようだったが、どれも聴く気にはなれなかった。それでも偶に会社の通路で見かけると会釈してくれる同僚の女性社員だけは、少し気がかりだった。連絡先を知っているとはいえ、その電話番号にかけたのは一度くらいだ。一年ほど前くらいに食事に行った際のその一度きり。その女性社員は明るい性格で、会社でも気遣いのできる優しい社員という印象だった。

 その食事に行った際に珍しく加耶はアルコールを飲んでしまっていた。酔った加耶は上司の愚痴を散々嘆いた。「そうだよね。わかるわかる。上司ってだけでなんだか気に入らない人っているよね。うちの上司はそれとはまた別だけど」一度きりの食事だったが、それでも愚痴を吐き出す加耶の声を、その女性社員は嫌な顔せずに傾聴してくれていた。

 だからかもしれない。その女性社員の肚の裏は真っ黒かもしれないという可能性が感じられなかった。悪い人ではなさそう。そんな印象だった。


 留守番のメッセージの内容が気になって聴こうと加耶はボタンに触れた。その直後、手の上のスマートフォンが消えた。男が取ったのだ。


「こんなもの捨てちまえ」


 そう言って男は崖に向かって大きく振りかぶっていた。


「待って!」


 咄嗟に加耶は声をかけた。男の手は投げる寸前で止まった。


「私が投げる」


 それを聞いて男は素直に、加耶の手元にスマートフォンを返した。


 手元に戻ってきたスマートフォンの画面は、留守番のメッセージを再生しきったものだった。取られた際に男か加耶が再生ボタンに触れたのだろう。画面下に、リダイヤルのマークがあった。今、このボタンを押せば彼女と話せる――。


 手元から離れた電子機器は、崖に当たって無様な音を響かせた。


 こんなものに(すが)るから死ねないのだ。連絡先を知っているということに甘えて、いつでも話せるからという保険があるから、身近なことに真剣になれない。目の前にいる人と対峙できない。いつでもつながっている、そういう意識が自分を一人にさせてくれなかった。思えばそんな簡単なことに前々から気が付いていたはずなのに、どうしてか手放せなかった。


「ほら、いくぞ」


 振り向くと、少し先で顔だけ後ろを向いている男の姿があった。男の右手にはスマートフォンが握られていた。ちょうど耳から下ろした直後だったようで、ポケットにしまう。「ほら行くぞ」とそれだけ口にすると男は前を向いて歩き始めた。


 加耶は男の背中を追った。


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