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薄暗い部屋の一室に、これまた薄暗い蛍光灯が一本。幽閉された四畳半の拘置所の一室のような部屋には、冴えない中年の男が座っていた。部屋の角に体育座りしている。膝の前で両手の指さきをそれぞれくっつけて、糸でも巻くように指同士をくるくるとしている。親指、人差し指、中指。薬指は上手く動かないのかゆっくりと回していた。そして小指を回し終えたとき、冴えない中年の男は加耶の方へと視線を移した。
この部屋に加耶を連れてきた男はもういない。内側からは鍵が開けられない仕様になっているようで、取っ手がない。先程男がこの部屋に加耶を入れた後、鍵をかけるような音をさせていたのできっとこの扉は開かない。完全に冴えない中年男と二人きりの空間になってしまっていた。
加耶と視線があった男は、正座状態ですりすりとこちらに近づいてくる。咄嗟に加耶は身を引いてしまった。冴えない中年男は戸惑った表情をし、「え、なんで?」という言葉が彼の眼前に浮かんでいた。なんで身を引くの? 話が違くないか?
そんな顔をする中年男に、加耶は同情した。そりゃそうだよな。こんな密室で男と女が二人きりだということは、つまりそういうことだ。きっと金でも払ってここに居るのだろう。見るからに冴えない顔と背格好をしているため、中年男の働いているだろう職場での環境も想像できた。きっと口数も少なくて、裏で若い社員から噂され、上司からも笑い話のネタにされ、居づらい環境だが仕方なく生活のために働いている。そんな苦渋の毎日を送っている人間の大切な金を売春に当てたってことは、つまりそういうことだ。
同情してしまったのが運の尽き。加耶は中年男のその戸惑った顔をすぐにでも消してあげたくなった。大人数のコミュニティの中で自分を表現できない人間がたくさんいるということは、加耶自身も自らの経験の中で知っていた。職場でネタにされる人間というのは大抵決まって口数の少ない人間だ。そして、そういう人間ほど、成果を上げたときの称賛は少ないくせに失敗したときの代償は大きい。それは、人が多ければ多いコミュニティほど肥大する。だから、二人きりの空間だと居心地がいいのだ。嫌われるのは目の前にいる一人だけの人間で、そいつが口外しなければ噂など広がることもない。二人きり、密室。そういう空間に環境が変わるだけで、自分を表現することが容易になる。
同情した。
加耶は上着を脱ぎ始めた。脱いだぼろぼろに切り割かれた上着を見て、「まあこんな格好でいる私も悪いか」なんて思ってしまった。
戸惑って身を固くしている中年男に、「こっちきて」と小さく呟く。中年男は近づいてきた。そっと二人は身を寄せる。
「つらかったね……」
中年男の胸の内で、加耶は不覚にも涙を零していた。人の体温の通った胸に触れると、自然に相手の気持ちが筒抜けになっているような気がした。この涙は心からの涙だ。きっと同情ではないもっと格別上のもの……。
「は?」
中年男は間の抜けた声を漏らした。加耶が彼の胸の内から出て彼の顔を見ると、何を言っているんだこいつは、という顔をしていた。
「つらかったねって、何が?」
「何がって、それは……」
「何を勘違いしてるか知らないけど、俺、別につらいことなんてないんだけど。どうでもいいから早く下着も脱げよ」
加耶の瞳は見る見るうちに水分を失い、枯れていった。煙草の火が水に浸かって消えたように、熱されたフライパンの上に水道水をかけた途端ジュウッと冷却されていくように、加耶の心は急激に冷めた。蒸発した熱気が、煙が、加耶の頭上にカッと上り、我に返ったように中年男の胸を突き飛ばした。
「いっ」
よろめいた中年男など気にせずに、加耶は叫んでいた。「お願い! ここから出して! ねえ、聞いてるんでしょ? 助けて!」
立ち上がって取っ手の無いドアをしきりに叩いていた――叩いても叩いてもそのドアが開くことはなかった。だって、内側に取っ手がないのだから。鍵は外からかけられているのだから。
知ってるわそんなもん。
でも叩かずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。
中年男が、加耶の下着に触れて、引っ張って脱がそうとした。「いやっ!」必死に抵抗する。しかし、力には敵わなかった――。
二人きりの空間。密室。鍵は外からかけられている。中年男の口臭。べたべたとした唾液。気持ち悪い密着音。腹の弛んだセルライト。一方的な愛、悦楽。快感。薄暗い蛍光灯が一本、じじじ、と蛍光灯の中で虫が飛び交っているかのように鳴り、ちかちかと時折途切れながら二人を照らす。
口臭も、べたべたとした唾液も、気持ち悪い密着音も、弛んだ腹も、きっと好きな人ならば許せるのかもしれない。気持ち悪いとは端から思えず、寧ろ好ましく思えるのかもしれない。
そう思うと、自分が大好きだと自慢できる相手に今すぐにでも出会いたいと思った。眠ってしまいそうな不快と諦めのまどろみの中で、いたたまれなくなった。
早く探しに行きたかった。