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 これといった柵があるわけでもなく、バルコニーを縁取るように三十センチ程度の段差があるだけだった。その段差に上って自分の足元を覗けば、各階のベランダと一番下にアスファルトが見えるだけだった。道路の脇に立っている電柱の先端が遠く先のように見える。電線よりも数段上に自分が立っていると思うと、高さは違えども、小学校の修学旅行で行った東京タワーの展望台から見た景色と重なった気がした。


 加耶はもう一度右足を宙に浮かせてみた。途端にやはり妄想が脳裏に飛び交った。舞台女優が奈落に落ちる光景や、どこぞやの探検家が底なし沼に落ちてもがく姿だ。そして、宙に浮いた右足を少し前方に出すと、もしかしたら、飛び降りてアスファルトに身体を打ち付けるまでの最中に、「もっとこうしておけばよかった」という強烈な後悔が浮かんでくるかもしれない、という雑念が浮かんだ。今現在は後悔などしていない。後悔しそうなこと、それらしき余念は多少なりとも想像できるが、別にそれは加耶の中でしてもしなくてもどちらでもいいことのように思えていた。


 怖いのは、未来だった。


 たった数秒。重心を傾け、淵に立っていられなくなって、落下する浮遊感を片手にすることもままならないたったその数秒。そのままアスファルトに手をつき、重力と落下速度によって身体が落ちてくるの支えられなかった右手がグシャっとあらぬ方向に曲がり、右側頭部がアスファルトに触れ、首がへし曲がり、みししと音を立てて脊椎にひびが入り、折れ、後を追って上半身下半身が降ってくるまでのその数秒。あらぬ方向に手と首が曲がり、ボウリング玉は割れずに凹み、脳味噌が酔っぱらいの吐いた下呂のように、球体にとげが無数に生えた細菌のような形をアスファルトに描くまでのその数秒と、即死を免れてぐちゃぐちゃな身なりの中、アドレナリンが意識を数秒とどめておくそのとき。

 強烈な後悔が頭一面に広がるのではないか。


 死ぬことを免れなくなった途端、私にはまだやり残したことがあったのに、と思わないだろうか。「どうでもいいや」「別にやってもやらなくてもどっちでもいい」「どうせ死ねば一緒でしょ」と思っていたことが、飛び降り自殺をして、自分がもう助からない状況に置かれたことで悔恨につながることはないだろうか。ブラックホールに吸い込まれるように、時間は早くも長くも感じられる。ブラックホール内の壁には、今まで生きてきた記憶がカメラロールのように、フィルムのように連続して断片的に映っている。ああ、こんなこともあったな。あのときこうしておけばよかったな。でももう遅いしな、でもこれはまだ間に合うんじゃ。どうせ死ぬならそれぐらいやっておけば――。


 そんなことを思いはしないだろうかという恐怖。


 加耶は逃れたかった。

 意地でも絶対に思わないと固く誓おうとする。


 もし仮に私がこのアパートから落下している最中に走馬灯が見えたとして、過去の記憶や映像の断片的な光景が見えて、もっとこうしておけばよかった、まだ間に合ったのに、と後悔したとして、その際は絶対に「いいや、そんなことしなくていい」と心で反芻してやる。


 これは意地だ。張れる意地ならいくらでも張ってやる。さあ、行くなら今だ。死のうと決めた人間が建物の淵に立ってやっぱり、なんて恥でしかない。それこそ上司や職場の人間への侮辱だ。それだけ私は意地悪なことを想像した。想像していた。上司にも、同僚にも。


 さあ、行け、私。なんてことはない。落ちれば一瞬だ。走馬灯なんて見える奴の方が珍しい。そもそも見ない可能性の方が大きい。よく言われる衝撃の前兆のスローモーションもない。足を踏み外して浮遊感を感じたときにはもうすべてが終わっている。このアパートは六階建てだ。助かる確率なんてほぼないに等しい。即死だ。ささ、早く。その重い右足を前に出しなさい。下なんか見るな。普通に前向いて歩けばいいだけ。歩くのなんて赤ん坊の頃からやって来たでしょ? 一番得意なことじゃない。さあ、ほら。いつもみたいに歩いてみなさい。前に進んでみなさい。歩くことなんていつもやっていることでしょう? 違うのは歩いたら下に地面がないだけ。たったそれだけよ――。


 頭が痛い気がするのはきっといつも以上に頭を使っているからだ。早くこの痛みを消したい。


 さあ、歩け、私。何事もなかったかのように前へ進め。過去なんて思い出すな。妄想なんてするな。恐れるな。(おのの)くな。退くな。後悔なんてしたっていい。しながら死んじまえ!

 ほら!!


「おい」

 ハッと息を呑んだ。上半身が上下に揺れているのが、加耶自身にもわかった。「ああやっぱり」と心の中で舌打ちし、ああくそ、なんでよ、と心の中で嘆きながら、咄嗟に左手の掌で左胸を覆うと心臓が上下に跳ねていた。遅れて脳に「息が荒い」と伝わったようだ。私、息が荒い。息が荒いと自覚すると、不覚にもほっとしてしまった。

 ホント、情けない。大好きな徹を殺すどころか自分一人殺せないじゃない。


 加耶は苛立ちを隠せなかった。


 もうかれこれこの繰り返しをして数十分は経っている気がする。五十回はゆうに超えている気がする。

 急に全身を怠惰が襲ってきた。頭も、片頭痛のように圧縮を小刻みに繰り返しているようで気分が悪い。


「私、自分じゃ死ねないみたい……」


「ああ、じゃあ押してやろうか?」

「え?」


 独り言のはずが、返事が返ってきたことに驚く。声の方へと振り返ると、人影があった。


「え、いつからいたんですか?」

「ずっと」

「ずっとって……」

「一時間前くらいからじゃない? 煙草吸いに来て、ほらそこの灰皿。吸い終わったら何事もなかったかのように立ち去るつもりだったんだけど、なんかずっと右足浮かせては戻してって繰り返してるから興味深くてさ。死ぬ奴って大体覚悟決めたら多少迷いがあってもドーンで終わりだと思ってたけど、やっぱり死ぬ間際で躊躇(ちゅうちょ)する奴もいるんだな」


 男は煙草を咥えていた。辺りが暗いせいか、煙が上昇していくのが見えた。スポーツブランドのジャージにナイロンのトップスの様だった。おおよそ、寝間着だったが屋上のバルコニーに出るのに上着を羽織ってきたというところだろう。

 加耶は恥ずかしい、という気持ちでいっぱいだったが、それを隠すように口調はさらに尖っていった。死のうとしているのに死ぬのを躊躇(ためら)い、それを何度も繰り返し続けていた自分の情けなさへの恥じらいと、自殺しようとしている人を目の前にしても止めようとしないどころか、興味深いとまで発言した男の態度、その両方が癇に障るものだったのだ。


 図々しいな、と加耶は思った。死のうと思っていたのに死ねない自分が情けないと嘆くだけならまだいいが、たまたま自分が自殺行為に及ぼうとしているところを見ていた他人が、止めようともせず素っ気ない他人行儀な態度をとったというだけで「ふざけんな」という感情が込み上げてくる。図々しい人間だよ、私。


 ああ、思い出すなあ。小学校の頃、ずっと陰ながら好意を寄せていたクラスメイトの男の子が私の親友と付き合っていると発覚したとき、あのときは初めて殺意を覚えたな。絶交だって言葉にはしなかったものの、一週間ぐらい一方的に口きかなかったっけ。

 でもその逆もあり得るはずだった。自分と仲が良くなった男の子のことを、ずっと前から陰ながら好きだった女の子がいたかもしれない。仮にそうだったとして、そういう昔から好意を寄せていた人がいたと知ったとしても、きっと加耶はそんな奴に構わず男の子と仲良く話し続けるだろう。


 誰かの悪口は言うくせに、自分が言われるのをここぞとばかりに嫌う。

 そんな私は(みにく)いだろうか。()婆擦(ばず)れ女だろうか。

 加耶はそうは思わなかった。


「ね、不思議。死のうと思ってここに来たのにさ、足を宙に浮かべると頭の中に私がいっぱいいるみたいでさ、いろんな声が聴こえてくるの。ほんとにこれでいいの? ってもったいぶる私もいれば、早く一歩踏み出せって傲慢に促す私もいる。

 ごめん。自分でこれ言うのはすごく恥ずかしいってわかってるんだけどさ、見ず知らずのあなたには見栄も意地も張っても仕方ないから言えちゃいそう。さっき押してくれるって言ったよね」

「ああ」

「じゃあ押してくれない? 一人じゃ死ねないみたい」


 加耶は高校時代付き合っていた徹の気持ちが詳細にわかった気がした。自殺とは言えども、自殺だって自分という一人の人間を殺すということだ。殺人と大差ないことなのではないか。


 人はいつだって自分と戦っている。自身の自我を保てるのはいつだって自分だけだった。普遍的な真理をよりどころにして生きていかなければならないことは、どんなに鬼畜な人間にでも備わっていることだった。本来は罪を犯してはいけないと知っているから罪を犯さないのではなく、罪を犯してもいいと言われていても犯そうとしないのが普遍的なものだ。

 殺人が罪ではなかったら、してはいけないことだと禁じられていなかったら、それでもやっぱり躊躇うのが普遍的な人間たちだ。そういう共通意識は、時に人を億劫にさせる。煩悩に変わる。無責任に誰かに変わってほしいと投げやりになりたくなる。どこかの誰かになりたいと切望する。RPGのようにリセットとセーブを繰り返したい。白い雪が自分を真っ白に染めて欲しい。透明人間になりたい。存在実態を消し去りたい。


 頬に触る空気が、加耶が現実にいるということを教えてくれているようだった。空気に匂いなどないだろうに、今の加耶には空気の匂いがわかっていた。無音の世界などないと教えてくれるかのように、空気は静かに滑らかな音を立てて漂っている。空気に味なんかしない。そんなこと百も承知だが、口を開けると空気だとわかる味覚がする。ただ掌をぐーぱーぐーぱー握ったり開いたりしているだけなのに、それが他の存在ではなく空気だとわかってしまう。


 加耶は今、生きている。生きていると実感するのは、大抵が窮地を逃れたときや、痛み、苦しみ、涙、興奮、そういった起伏のある感情を無意識に感じ取った際の方が多いだろう。しかし、今の加耶に感情の起伏はそれほどない。ただ、アパートの屋上のバルコニーのヘリに立っているだけ。先程までと違って、心の乱れはない。小刻みに圧縮するような片頭痛もない。自問自答を促す脳内での妄想もない。ただ、今ここに立っていて、それが今まで手にしてきたありふれた五感などではなくて、だが五感が勝手に機敏に働いているそんな揺ぎ無い今。


 ああ、こういうことなんだ。どうでもいいことを考えられるうちは人は死ねない。脳が未来に想像を作っているうちは死ねない。この先に起こることがどうしようもなく嫌な未来だったとしても、それは一種の希望だ。未来に何かを期待している証拠だ。一人で死ぬには相当な覚悟が必要。


 人は思った以上に頑丈にできている。それは身体が強いのではなく、身体以前に埋め込まれている普遍的な価値から逃れられないからなのかもしれない。身体に衝撃が走ると痛いと感じることを人は知っている。犯罪がいけないことだと生まれながらに人は知っている。自殺の先に待っているのは真っ暗闇ではなく、その直前に訪れる喉を締め付けられるような痛みだと知っている。天国と地獄、仏、輪廻転生。死んだ後の世界はこうだ、といつの間にか知っている。

 でも、かといって人間は頑丈にできているから、普遍的な価値に縛られているから、じゃあ人間の命は簡単に捨てていいものではない、と簡単には思えない。自分で死ねないなら他人に任せるしかない。他人は殺人罪を被るが、これから死ぬ人間にそんなことを気にかける余地もない。


 ゆらーーと漂っていた空気が、波でも作ったかのように加耶の背中に押し寄せてきた。五感が勝手に鋭敏(えいびん)に働き、空気の波が詰め寄るように背中に押し迫っていることを加耶は感じ取っていた。

 すぐにあの見知らぬ男が自分の背中に迫ってきているのだろうとわかった。きっと彼は私の背中を押してくれる。自分の胸ぐらを忙しなく握ることはもうやめていた。加耶はただそこに立っている。


 ――あ、押される。


 加耶の機敏に働く五感がそう察知した。一秒、二秒――そろそろ――。


 しかし、いくら待っても背中を押されることはなかった。背中を押されるだろうことはわかっているのに、いっこうに背中に男の手は触れなかった。それどころか、押される気配が無くなりつつある。

 どういうことだ。とでも言いたげに振り返った加耶の視線の先には、数十センチ先で立ち尽くしている男の姿があった。身長の高くなった加耶の視線の下で、男はじっと一点を見つめていた。その光景はまるで女王様の加耶が、側近の一番近しい家来に私情を挟んだお願い事を頼んでいるかのようだった。女王様を十分に、十分すぎるくらいに慕っていた家来は、そのお願い事を頼まれるかどうかで逡巡していた。どうするか……。自分の一番慕っている女王様たってのお願い事。「お前にしか頼めないんだ」自分のことを信頼しての頼み事。しかし、水面下での行動は御法度。ばれれば家内の家来たちからは批判の目で見られるどころか、大衆、国民たちからの信用も失うことになるだろう。

 今まで救えないくらい女王様に助けられた数々の行いに免じて承るか、それとも数多くの家来たち、数えきれないくらいの国民たちの信用を取って拒否するか。

 男の一点を見つめる視線は、まさに、そういう二つの間で揺れているような視線だった。


 男のじっと一点を見つめる視線が(おもむろ)にそがれたとき、彼は加耶のことを今度はおぼろげに見つめていた。焦点が合っていないような、遠くを眺める目つきだった。


「おもしろいことあるからついてこい」


 一瞬、その男の言葉の中に羞恥心が隠れているような気がした。しかし、加耶はすぐに思い直す。この男は恥ずかしがって見ず知らずの加耶のことをついてこいと誘っているわけではない。初心者のナンパとは違う。なんとなくだが、そう思った。



 ついてこいと言われて、ついていく人はどうかしている。幼少の頃に学校の先生や両親からあれほど見知らぬ人についていくなと言われたはずだ。

 だが、時にそんな幼少の頃の学校の担任や両親の言葉を忘れて見知らぬ人についていく。それはきっとその先に何かが見えているからだ。数分後、数時間後、一日後、二日後。事後に起きるだろう出来事が、今の自分のありきたりな生活の中には存在しない、何か不確かな幸福。そういう未来への想像力。期待。この人についていけば、つまらない今が数分後には幸福に変わる。数時間後には涙どころか笑顔が零れている。うれしい、たのしい、そんな未来の自分。


 過ぎ去ろうと振り返った後ろ姿。名前も知らない男。見知らぬ男。何も知らないからこそ、男の背中が大きく、そして何か自分の世界を変えてくれるかもしれない、加耶の目にはそんな背中に映った。


 加耶は、根拠のない言葉に期待を抱いた。



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