【自灯明】
〈九月一日 午前四時〉
「おい、お前」
加耶は「ああやっぱり」と心の中で舌打ちをした。ああくそ、なんでよ。そんなことを心の中で嘆きながらも、内心ほっとして咄嗟に自分の胸ぐらを握ってしまう。
情けない――事実、あと一歩が踏み出せずにいた。足をあと数十センチ前に出すだけ。重心をあと数センチ前に移動させるだけ。たったそれだけのことで目的は果たせるというのにその一歩が踏み出せずにいた。
――穏やかに、表現力豊かに客衆の視線を集めていた舞台女優が、突如奈落に落下して姿を消したかのように――鹿威しの先端に膨らんだ水滴が、底の見えない井戸に落ちていくように――底なし沼に嵌ま(は)った探検家が地上に上がろうともがく姿、湿原のヤチマナコにすっぽりと落ちたエゾシカは出ることができず、まるで巨大なツボの底でぐったりとしている様――。
加耶が足を一歩前へ踏み出そうと試みるたびに、そんな妄想たちが頭の中で駆け回る。それはもう、鮮明に。
だから、自分の頭の奥の方で「おい、お前」と声がした瞬間、妄想から抜け出して我に返り、加耶は現実世界へ戻ってきた。額を舐める空気の冷たさがわかり、自分は生きているんだと実感する。夜独特の香り、五感が戻り、舞台女優が奈落に落ちる光景も、探検家が底なし沼に落ちてもがく姿も、その声によってぱったりと途絶えた。
加耶は今の今まで、足を踏み出そうとするたびに襲ってくる五月蠅い妄想と戦っていた。死とは怖いものなのかもしれない、あんなに死んだら楽になれると思っていたのに、私がビルから飛び降りて落ちている間に「ああ、最後に徹を殺してから自殺すればよかった」と死を免れないところに来て後悔するかもしれない、それはなんだか後味が悪いなあ、でも死んでしまえばそれもこれもすべて真っ暗な闇に葬られる――建物の淵から右足を宙に浮かせるたびに次々と現れる煩悩と格闘すること五十回、はゆうに越していた。
本当に不思議だった。自殺しようと決めたのはつい最近のことだった。つい最近。以前までは、まあいつ死んでもいいかぐらいの心構えで生きていたが、突然「死んでみようかな」と思い至った。別に職場の上司にいびられていたわけでも、仕事でミスをして職場に居づらくなったわけでもない。唐突だった。
思えば、以前にも死のうと思ったことがあった。死にたい、のではなく、死のうと思ったことがあった。そう思うと、どんな人間でも一度は何かすべて投げ出したくなるような一時の焦燥に駆られることもあるのかもしれないと思った。だらだらと続いた一本道、この道がどこまで続いているのか、ゴールがどこにあるかもわからないならまだしも、ゴール自体が存在するのかもわからない。そんな状態で生きている多くの人間たちの精神状態はとても優れたものではないか。そりゃ、道半ばでどこまで続くかわからない人生に嫌気と不安がさし、自分でゴールくらい決めたくもなるわよ……そうやって自分を慰め、正当化させる。
死のう、と思い至っても、すぐには行動に移せなかった。ここ最近どうやって死のうか、死ぬのはいつにしようか、そんなことばかりを考えていた。仕事中も死に方と死亡日のことで頭半分使っていたため、作業は中途半端なものだった。ミスを指摘されることが多くなり、「最近ミス多くない?」と上司にそっぽ向きながら言われ、「すみません」と頭をへこへこ下げている中、それでも加耶の頭の中は死に方と死亡日のことでいっぱいだった。
「もうちゃんとしてくれよ」上司は、やはりそっぽを向いたままで、加耶の頭を資料ではたかれ俯いたとき、そもそも仕事を続けている理由ってなんだろうかと思った。
次の日には退職届を提出していた。
退職届を出してからは悩むこともなく、決断は早かった。「え、どうしたの急に?」とほとんど会話したことのない同僚の女性社員の言葉や、「いきなり言われても困るんだよ。こういうのは二週間前って決まってるんだから。そんなこともわからないのか」という上司の金切り声、破って見せた封筒をデスクの上に、「受理できん」という声も脳裏には残らない。二週間前に提出すれば本当にやめさせてくれたのだろうかという疑念も浮かばない。それどころか加耶はある思惑が思い浮かんでしまっていたのだ。スピード辞職して一日で自殺する。そうすれば、加耶のいなくなった後の会社内では、「パワハラ」「過労死」の言葉でいっぱいになるのではないか。馬鹿な加耶にしては上出来な考えだ。自分が死んだ後の会社内を想像すると、早く死にたくてたまらなくなった。会社のあちこちで陰口が飛び交う光景、上司は苛立って集中できないとでも言わんばかりに、盛大に「ああ、くそっ!」と机に当たり、喫煙ルームへと消えていく光景。
そんなことを想像すると、久しぶりに、いや初めてかもしれない、「生きている」という言葉が今の自分にカチッと嵌まるような感覚がした。別に上司に恨みはない。確かに、パワハラセクハラまがいなことをされた経験はあるし、そっぽ向いて知らないふりをしながらセクハラされるのは癪に障った。偶に「す、すまん」と小さい声で謝られることもあるが、そのときもやっぱり顔は背いていて、謝るときは目を見て言えよ! 目を! と言ってやりたくなるくらい気持ち悪いしシバいてやりたい気持ちもあったが、あの程度のことで訴えていてはきりがないし、上司より上の役職に出世できず、一般従業員として滞っている自分も悪いと加耶は自覚していた。
だが、加耶の許容範囲には入っていたが、これがほかの社員だったら許せないと思う人だって少なからずいるはずだった。そう思えば、あながち悪いことでもないと思えた。めちゃめちゃ優しい人に冤罪を着せようとしている訳ではないのだ。
自身の死亡日は決まった。明日だ。死に方は? 飛び降り、首吊り……。めんどくさいから飛び降りでいいや。加耶の住んでいるアパートの屋上にはバルコニーがあった。管理人がこの分煙に世知辛いご時世に気を利かせて灰皿を置いてくれているため、住人なら誰でも立ち入ることができた。
――あそこから飛び降りよう。
そう決意して、今現在、加耶はアパートの屋上の淵に立っている。