48―2 ヤンデレと存在論 その2
姿が見えている相手だし、そこに立っている人影にまた話しかけてみるか?
シルエットを見る限り髪の長い女だから、椿の可能性は高いだろう。
玄関のドアノブはひっきり無しにガチャガチャと騒がしい音を立てている。
ドンドン、とドア自体を叩くような音も聞こえてきた。まるで借金の取り立てだ。
ドアの向こうにいるのが何者であれ、非常識な人物であることは間違いない。
不用意にドアを開けて、不審人物が押し入ってきたらどうする? そんな危険は犯したくない。
やはりここは、黙っている椿らしき人影に……
いや待て。
椿の普段の行動を考えてみろ。あのおしゃべりで、しつこくて、力押しの得意なアイツが、黙っていることなんてあり得るか。
もしそこの人影が椿ならドアのガチャ音が聞こえた時点で噛みつきに行っているだろう。
少なくとも何かのリアクションは起こしているはず。
しかしそうなると、そこに立っている人影は何者なんだ?
俺の部屋に裸足で入り込み、何もせず静かに佇んでいる人物。考えるほど怖気が涌き出てくる。
ああダメだ。堂々巡りだ。何か行動を起こさないと無駄に体力を消耗するだけだぞ。
佇む人影に気づかれないよう、静かにベッドから足を下ろす。
暗くても自分の家だ。玄関までは走ってすぐにたどり着けた。
ガチャガチャと音を立てて上下するドアノブはもう目の前にある。あとは、鍵さえ開ければ……
そこでふと気がついた。鍵、鍵はどこだっけ?
ドアノブのすぐ上にあるよな? 暗いから見えないだけか?
それらしき箇所を手探りで触ってみるも、鍵らしきものが見つからない。
背中に嫌な気配を感じるとともにドアノブのガチャ音がやんだ。
「いる」。後ろに、何かが、「いる」。
振り返って確認するべきなのだろう。こんなのは俺の気のせいだって。勘違いだって。
でもできない。今まで観てきたホラー映画だと、決まって振り向いた瞬間に襲われてオシマイなのだ。
気配だけじゃない。「ハー、ハー」と何かの呼吸音が聞こえる。ぬるい息の温度まで感じられるようだ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
振り向きたくない、このまま外に逃げ出したい!
こちら側についているドアノブに体重を乗せ、そのまま扉に全力でぶつける。
だが、鍵のかかったドアは少し揺れただけで開く気配すら見せない。
終わりだ。もう逃げ場が無い。後ろを除けば三方壁に囲まれているのだ。
振り向かなくてもわかる。「何か」の気配が近づいてくる。
「何か」の顔は、もう俺の肩まで来ている……
その時、部屋の奥から ガシャーン! と大きな音が鳴り響いた。同時に強い風が入ってきたのを感じる。
反射的に振り返ると、俺の後ろには何もおらず、部屋の奥に割れたガラスと、それを踏み越えて走ってくる姿。
「うおお!?」
思わず両腕で顔をガードし、目を瞑る……
柔らかいような固いようなものが、俺の身体を包んだ。
「先輩……無事だったんですね!」
俺が目を開けると、そこには細い目から涙を流す椿の姿があった。
「お前……どうやって」
「隣の部屋の吉本さんに事情を説明して、隣からベランダの非常壁を破ったんです。ああ良かった、先輩が無事で」
俺の身体にしがみついたまま、椿はグスグスと泣き続けている。いい加減離れてほしい気持ちもあったが、助けてもらった以上冷たくするべきではないか。
「俺が襲われてるってよくわかったな。外から何か見えたのか?」
「いえ。何も見えなかったんですが、部屋の中から謎のうめき声が聞こえまして……私はてっきり先輩が『ひきつけ』でも起こしたのかと」
うめき声……そんなもの俺には聞こえなかったが。
玄関の電気をつけると、鍵のつまみはすぐに見つかった。
さっきはあれほど探しても見つからなかったというのに。
どうにも不気味なことが起こっている。椿が来てからいくらか平静を取り戻せたが、それでもあの人影がまだどこかに隠れているかもしれないと思うと落ち着かない。
それはそうとして……
「お前、あの割れた窓ガラス大丈夫か?」
「私の心配をしてくれてるんですね……この通り、私のケガはほとんどありませんよ。腕にタオルを巻いて割れば案外平気なものです」
「いや、それもそうなんだが。借りてるマンションだし窓ガラスの修理どうしようかなって」
「そんなもの管理会社に苦情言えばいいじゃないですか! お化けが出るなんて事故物件ですよ! 瑕疵担保責任を問わないと!」
なんだか椿は俺以上に怒っているように見える。コイツの無駄なエネルギーは味方にすると頼もしいんだよな……
「今から管理会社に電話しましょう。裁判ですよこれは。訴状も作り始めないと」
「気が早すぎる……こんなところにはいられないし、とりあえず今晩は寝るところを探さないと」
「それなら私のマンションに来ますか? それが一番安全な気はしますが」
「いや、でも……」
「安心してください。今日は誓って何もしませんよ」
「そういう意味じゃなく……」
椿を疑う、というより密室に閉じ込められるのが怖かった。椿の部屋にまで「アレ」がついてきたら、と思うと不安で仕方がない。
「しょうがないですねえ。ファミレス行きますか、24時間営業のとこ」
「悪いな」
「いえ。健やかなる時も病める時もそばにいるのが夫婦ですから」
俺が頭を下げると、椿は得意そうにケラケラ笑った。普段は厄介なヤツだが、こういう非常時はやけに頼もしい。
毒をもって毒を制すとでも言うのだろうか。常識はずれの状況には理を超える人間の力が有効なのだろう。
今度こそ鍵を回しドアを開くと、そこには普段通りマンションの廊下が見えるだけだった。
インターホンを鳴らし吉本くんに状況を説明したところ、彼も大事をとって友人の家に泊まるようにするとのことだった。
巻き込んでしまって申し訳ない。
「それにしても椿、お前どこに行ってたんだ?」
「先輩の冷蔵庫に何も無かったから買い出しに行ってたんです。帰ってきたら鍵は閉まってるしうめき声は聞こえるしでビックリしました」
なるほど。やはりドアをガチャガチャ動かしていたのは椿だったか。
まあ力業はコイツの得意とするところだ。場合によっては窓どころかドアすら壊しかねない女なのだ。
しかしそうなると、俺が起きた時間ほぼちょうどに椿が帰ってきたことになるな。いくらなんでもタイミングが良すぎないか?
こんな不可解な状況にあっても妙に平然としているし。
考えたくはないが、もしかして……
「お前は、本当に椿なのか?」




