46―2 白蛇とハーブ園 その2
「消すって……」
「色んな方法があるよ。本当に存在ごと消すとか、病院から出られなくしたりとか」
「さ、流石にそこまでは……」
「それならもうちょっと簡単な方法がいいかな。腕か脚の一本を使えなくして、機動力をなくすとか。目や耳でもいいんだろうけど」
千佳はまるでランチのメニューでも見せるかのように、無邪気な笑みで提案してきた。
その目は笑みを湛えているにも関わらず、どこか冷たく、鋭いもので。
小さい蛇から大きい蛇まで操れるのだ。彼女の言っていることは誇張ではなく、どれも実現可能なことなんだろう。
「お兄はどうしたい? お兄が望むなら、ウチは何だってするよ」
線の細い千佳の右手が俺の左手に重なる。爬虫類のように低い体温に思わず身体がビクリと跳ねた。
それでも千佳は手を離さない。優しく、それでいてしっかりと千佳の手が俺の手骨を包む。
「いや、もっとこう……穏当に椿を黙らせる方法とかは無いのか?」
「それは難しいかな。あの人、相当執念深いし。お互い無傷でいられるとはお兄も思ってないでしょ?」
まったく反論できなかった。俺なりに椿から逃れる方法は色々と考え、実行もしてきたが、そのどれも成功した試しが無いのだ。
奴を遠ざける難しさは俺が一番わかっている。わかってはいるのだ。
でも、なあ……
「どうしてためらうの? お兄はあの人のせいで不自由してるんでしょ?」
「それはそうなんだが……」
俺の返答を待ちながら、千佳はまたソフトクリームを舐め始めた。
山の上にいるからだろうか、耳元を吹き抜ける風がやけにうるさい。
椿が消えてくれればいいと思っているのは事実だ。千佳の誘いは魅力的ではある。
椿のいない生活はいったいどんなだろうか。誰はばかることなく浅井先生とも出かけることができるし、リーちゃんや村瀬と遊ぶのだっていつでもどこでも好きなだけ。
麻季ちゃんや伊坂のような困った連中とも縁が切れるし、奇襲に注意を配る毎日ともオサラバだ。
もちろん千佳に会うのだって気兼ねなくできる。実家にだっていつでも帰れるだろう。
千佳の提案を呑めば、とても自由で気楽な生活が簡単に手に入るのだ。
ただ、何かが引っかかる。即答できない理由が、心のどこかにある。
数日前、椿が勧めてきた『雨月物語』の一幕、「蛇性の婬」を読んだ時のことを思い出す。
あれも確か和歌山が舞台の古事だった。
その物語は、女に化けた蛇の妖怪に、ある男が心底惚れられるもの。
男は何度も何度も蛇女に求婚を迫られ脅されるのだが、結局最後まで蛇女は男を一度も傷つけなかった。
それどころか、物語の結びでは蛇女の難を逃れた男は長生きしたことが語られる。
その代わり、男と結婚寸前だった別の女性が蛇女に祟り殺されることになった。
そして、名のある僧に退治された蛇女もまた土深くに封印され、二度と外に出ることは叶わなかったと……
男だけは首尾よく生き延びたわけだが、俺にはその物語がハッピーエンドだとは到底思えなかった。
「あのな、千佳」
俺が優しく声をかけると、千佳は自分の口元についたソフトクリームを恥ずかしそうにハンカチで拭いた。
怜悧な目つきと対照的な愛らしい仕草だ。これでもうちょっとヤンデレ成分が少なければ……とついつい思ってしまう。
「俺の身を慮ってくれるのは嬉しいんだけど、そんな危ないこと千佳にさせたくないんだよ」
「大丈夫。証拠は残らないし、疑われても揉み消す方法はいくらでもあるから」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
千佳は不思議そうに首をかしげた。俺の言っていることがうまく呑み込めない様子だ。
「前も言ったでしょ。ウチの一族はズルいことして永らえてきたって。別に今さら善人面しようなんて思ってないよ」
「だからこそ、だよ」
「どういうこと?」
ますます理解できない、といった表情で千佳は空を仰いだ。悩み悶えるその相貌も美しいが、そんな顔をしてほしいわけじゃないんだ、俺は。
彼女が手に持ったソフトクリームは半分溶けかかってきている。
「千佳の先祖や家族がどういう生き方をしてきたのかは知らんけど、その業みたいなのを千佳が背負う必要はないだろ。俺は千佳に普通の女の子として生きてほしいんだよ」
「でも、ウチだって蛇を使って今まで汚いこともしてきたし……」
「なら明日からやめればいい。いや、今からでもいい。千佳が本当は優しい子だって俺は知ってるからな。俺の前では強がらなくてもいいんだよ」
「別にウチの手が汚れるくらい気にならないけど」
「嘘だな。本当は千佳だって誰も傷つけたくないって思ってるんだろ? だから未だに椿に危害を加えず、わざわざ俺の気持ちを確認しにきた」
「それは……」
「心配すんな。俺は俺でうまくやるから、お前は誰も傷つけなくていいんだ。もちろん、千佳自身の心も」
「お兄……」
我ながらクサい台詞ではあったが、千佳に普通の人生を歩んでほしいという気持ちに偽りはなかった。
誰もが幸せになれる都合のいい選択肢なんてきっと無いのだろう。
それなら、せめて千佳だけは幸せになってほしい。
千佳の心が犠牲になって俺だけがヘラヘラ生き続けるなんて、そんなのはまっぴらごめんだ。
改めて千佳の目を真っ直ぐに見つめると、さっきまでどこか冷たく見えた彼女の目に温度が戻っているのがわかった。
「やっぱりお兄は優しいね」
「そうか? お節介なだけだろ」
「ううん。だってウチは、お兄のそういうところが……」
何かを言いかけた後、千佳はしばらく黙っていた。
そして、ほとんど溶けたソフトクリームを食べ終え、決意したように立ち上がる。
「うん。お兄がウチに命令できないなら、ウチが勝手にやる。それなら問題ないでしょ?」
「おいおい、ちょっと待てって」
「大丈夫、お兄は何も悪くないよ。ウチだって悪くない。優しいお兄を苦しめるあの人が悪いだけ」
「落ち着けよ千佳! 俺はそんなつもりじゃ……」




