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45―6 ヤンデレと琴の音 その6

「それにしても先輩、よくさらちゃんの性質を見抜けましたね」


「ああ……最初は伊坂に騙された俺がただ単にバカなんだろうと思ってた。でもよくよく思い返してみると違和感に気づいてな」


「違和感?」


「俺を騙したいだけなら必要以上にベタベタする必要はないんじゃないか、ってさ。椿の心証も悪くなるだけだし……飲み会の時俺に甘えてた伊坂、あれは演技じゃなかったんだろう。コイツは本当に男好きで、だから俺もあっさり騙された」


「お恥ずかしい……」


「そうね。貴女は存在が恥ずかしいわ。森羅万象に対して謝罪しなさい」


 椿はイライラした様子で伊坂の頭を踏みつけた。ゴン、と鈍い音が鳴る。

 俺も散々蹴っておいてアレなんだが、伊坂に後遺症とか残らないか心配になってきたな……


「本当に納得いかないわ……私の的確な加虐が先輩のへっぴり腰より劣るなんて……」


「劣ると言いますか……友達と遊ぶのは確かに楽しいのですが、やはり殿方との逢瀬には特段のときめきがありますので……」


「は? 何なの貴女、私の夫とデートしたつもりなの? 薄汚い泥棒猫……!」


 椿が繰り返し繰り返し伊坂の頭を踏みつける。見ているだけでこっちまで辛くなってくる光景だ。

 さすがに止めた方がいいか? このままだと床に穴が空きそうで心配だし……


「落ち着けよ椿、伊坂とはそういう関係じゃないから。ちょっとした事故みたいなもので……」


「あっ、今の浮気の言い訳っぽいですね。うふふ……先輩にもやっと『自覚』が出てきたようですね」


 いやらしい笑みの椿がこちらを振り返る。何だかわからんが少し機嫌が持ち直したようだ。

 まったく……とことん訳のわからん奴らだな。何にせよこれで椿から解放され……


「これで一件落着、とか思ってませんよね?」


 椿の笑みがどんどん歪んでいく。固い粘土を無理やりねじ曲げたような、おぞましい表情だ。


「状況、わかってますか先輩? さらちゃんは鍵を持っていませんし、私を屈服させる以外に手錠を外す方法なんてないんですよ」


「そ、それならお前を脅して奪えばいいだろ……」


「そうですか。じゃあ二人がかりで私を拷問してみますか? 私と先輩たち、どっちの心が先に折れるでしょうねえ」


「こっちにはいくらでも手段はあるんだぞ。たとえばお前に食物を与えないとか……」


「お腹が空いたら先輩を食べるから構いませんよ。指一つくらいなら歯で噛みちぎれますし。先輩と一つになれるなんて、夢みたい……」


 何だその悪夢は……ちくしょう。この程度の脅しが椿に通用しないことはわかっていたが、思っていた以上に事態は深刻だ。

 下手な脅しが通用しないなら、実力行使しかないか。


「しょうがない。伊坂、コイツに熱湯でも飲ませてやれ」


「え……そんなことは……」


「あ? 今は俺が主人なんだろう? ご主人様の言うことが聞けないってのか」


「相応の報酬をいただかないと……」


 報酬がもらえるなら友達でも売るのか……とドン引きしたが、今は良識を語っている場合ではない。

 この変態を満足させない限り俺に未来はないだろう。


「何が望みだ? 言ってみろ」


「ええと……実は以前から憧れているシチュエーションがございまして……」


 何だ? もっと強い刺激が欲しいのか? あるいは性的なやつとか? 何だってやってやろうじゃないか。椿を追い出せるなら手段を選んでいる場合ではない。


「早く言え。無意味に俺を待たせるな」


「お恥ずかしいのですが……その、私の朝食を食べた殿方の吐瀉物を、飲んでみたくて……」


「は?」






 吐瀉物? 吐瀉物って要するにゲロだよな? 飲む? なんで? 汚いし臭いし見るだけでも精神的にキツいのに。

 それを、飲む? 頭沸いてんじゃないのか。


「やはり……難しいでしょうか……」


「理解が追いついてないんだが、吐瀉物って、胃から逆流してくるアレだよな?」


「アレのことでございます……」


 どうしよう。思っていた以上に嗜癖が歪んでるぞ、この子。

 いや、だって、ゲロを飲むなんて人間のやることじゃないだろ。


 思わず椿に目配せしてしまう。敵にすら助けを求めてしまうほど困惑しているのだろうか、俺は。

 その発言にはさすがの椿もいくらか動揺しているように見えた。


「もうさらちゃん。冗談は程々にしておきなさい。先輩だって急に言われても困りますよね? いきなり吐けなんて、方法もわからないのに……」


「……」


「先輩?」


 方法はわかっていた。以前大学の講義で受けた、子どもが誤飲した時の対処法。水や牛乳を大量に飲ませることで無理やり吐かせるやつだ。

 間の悪いことに、俺の冷蔵庫には水も牛乳も十分に貯蔵されている。

 俺がわざわざ口に出さなくても、ネットで調べりゃそのくらいすぐにわかるしな……


「椿さん……なぜ止めるのですか?」


「なぜって……貴女の奇行に先輩を付き合わせるわけにはいかないでしょう」


「ああ、成る程……私に武永様を取られるのが怖いのですね」


「はあ? 怖い? 別に私は……」


「吐瀉物の交換を通して武永様と私が絆を深めるのが怖いのでしょう……しかし恥じることはありません、並の愛でできることではありませんから……」


 だんだん雲行きが怪しくなってきた。

 煽りを受けた椿は小さく肩を震わせている。まるで地震の初期微動のように。


「並? 私の愛が並って言ったの?」


「想い人の吐瀉物一つ受け止められない狭量な器では、並と言わざるを得ないでしょう……」


「……わかったわ」


 椿がこちらをゆっくりと振り返る。何やら固い意志を秘めた目でこちらを見ている。

 もう何が起こるかはわかっていた。雷のごとき速さで椿が俺の身体を押し倒す。


「やめろ! 俺はまだやるなんて……」


「ここまで来たらやるしかないんですよ! ナメられたら終わりです! さあ! さあ!」


 伊坂は冷蔵庫を勝手に開け、中から牛乳を取り出した。

 やっぱりか。コイツも吐かせる方法をわかってやがる。


 俺の上に乗る椿に抵抗するも、その細身からは信じられないほどの力で押さえ込まれている。

 それでもまだ動けないことはない。何とかコイツを押し退けて……


「ぐっ……!?」


 身体の圧迫感が強まる。伊坂までもが俺の身体にのし掛かってきた。


 右手には牛乳パック。無理やり口を開かされ、溢れるほどの量の牛乳が胃に流し込まれる。

 胃が、喉が、全身が過剰な水分を拒否する。脳がひっくり返る感覚。そして……


 そこから先は思い出したくもない。








 誰もいなくなった部屋で一人、俺は雑巾がけをしている。カーペットは洗った。もう目立つ汚れはなくなったし、視覚的には普通の部屋に戻ったはずなのに、独特の臭いだけはいつまでも消えない。


 あの時、俺の吐瀉物を口移しで飲み込んだ椿は、すぐにむせこんで俺に負けず劣らずの量を床に撒き散らした。

 それを見て気持ち悪くなった俺がさらに量を増やし、そしてまた椿が……

 思い出すだけで、空っぽの胃からまだ何か出てきそうだった。


 何より気色悪かったのは、半液体化したそれらを嬉々として掬っていた伊坂。

 アイツは正真正銘の変態だ。もう性癖というより病気とかそういうのに近い。


 もうアイツとは関わりたくないものだ。バイトで会っても無視しよう。伊坂と関わって得することなんて……

 いや……待てよ?








「なんださっきの授業は! 生徒の理解度を無視して小難しい定義ばっか語りやがって!」


「も、申し訳ありません……申し訳ありません……」


「謝るなら俺に対してじゃなく生徒に対してだろうが! この給料泥棒が!」


「ご寛恕を……この憐れな俗物にご寛恕を……」


 バイト先の講師控え室で俺はベルトを手に伊坂の背中を強かに打ち続けていた。

 こんなところ見られたら二人まとめてクビだろうな……


 己の名誉のために誓って言うが、別に俺がSMに目覚めたわけじゃない。

 かといって、伊坂に脅されているわけでもない。




 そう、俺は伊坂と契約を取り交わしたのだ。




 伊坂を定期的に痛めつけることで、見返りとして椿の予定を提供してもらう。

 その結果、神出鬼没の椿の出現時間をある程度予測できるようになったのだった。


 伊坂は椿と同じ学部であるため、奴の行動を監視することができる。

 あんなことがあったのに椿は相変わらず伊坂とは友達関係でいるらしいし、うってつけの役割だ。


 お陰で椿に邪魔されず浅井先生と過ごせる時間は以前より増えたし、なかなか便利な仲間?が増えたように思う。


 代わりに何か大事なものを失った気もするが、深く考えないでおこう……



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