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45―4 ヤンデレと琴の音 その4


「今日はもう遅いですから、そろそろ寝ましょうか」


 椿は伊坂に腰かけたまま、伸びとあくびをした。その反動で椅子と化した伊坂がバランスを崩しかける。

 すると、たちまち椿の張り手が伊坂の尻を捉えた。スパン、と乾いた音が鳴り響く。


 不吉な雰囲気の女が清楚な女性を辱しめる、奇妙で不気味な光景。

 人によっては興味深い景色なのかもしれないが、あいにく俺にそっちの趣味は無い。


「あの……椿さん、私もシャワーを浴びても……」


「は? 貴女が先輩の家の浴室を使っていいわけがないでしょう。でも確かに臭いは気になるわね。しょうがない。今夜はベランダで寝なさい」


「そ、そんな……」


 泣き出しそうな声で伊坂は返事をしたが、それが屈辱の涙なのか歓喜の涙なのか俺には判別がつかなかった。

 心底気色悪い奴らだ。何とか追い出す方法は無いものか。


「あっ先輩、私は自分の家でシャワー浴びてきましたからね?」


「知るか。それより俺ら手錠で繋がってんのに、どうやって寝るんだよ」


「ああ、先輩のベッド狭いですもんね。でも私たちは二人とも細身ですし、詰めれば何とかなるでしょう」


「狭さの問題じゃなくてお前がすぐ横で寝るのが嫌なんだが……」

 

 椿は俺の言葉を無視し、ベッドへと歩を進める。立ち上がる際には伊坂の脇腹にさりげなく蹴りを入れていた。

 なんでこうも容赦なく人に暴力を振るえるのか。伊坂も大概だが、やはり一番の異常者は椿だろう。


 そのまま椿がベッドに倒れ込むと、引っ張られる形で俺も隣に倒れた。寝そべったヤツと目が合う。


「今夜は忘れられない夜になりそうですね」


「うるせえ。まず俺に服を着させろ」


「後で脱ぐのに?」


「脱がねえよ。風邪ひいたらお前のせいだからな」


「責任取って看病しますね」


「責任取って出頭しろ」


 ふと伊坂を見ると、俺と椿のやり取りを見て惚けた表情を浮かべていた。

 憧れるような、羨むような表情。どこか俺たちの間に入りたがっているようにも見える。


「ああ……これが愛の形なのですね……」


「下僕が主人の睦言(むつごと)を覗いてんじゃないわよ」


 椿が手元にあった枕を投げつけると、見事伊坂の顔面に直撃。コントロールは良い方らしい。


 伊坂は「失礼しました……」と頭を下げた後、ベランダへと出ていった。本当に外で寝るつもりなのか……

 俺のベランダ、向かいのマンションから見えなかったっけ? 大丈夫か? 通報されない?


「もう、先輩。さっきから上の空じゃないですか。今は私だけを見て……」


 気持ち悪すぎるので強く目を瞑ると、椿がまぶたをこじ開けようとしてくる。

 一晩中このやり取りを続けるのか? 考えただけで嘔吐しそうだ。

 あと落ち着かないのでとりあえず服は着させてほしい……








 当然一睡もできないまま夜は更けていく。こんなに朝日が待ち遠しく感じるなんて、夜戦兵にでもなった気分だ。

 隣では椿がすぅすぅと寝息をたてている。もっと色々仕掛けてくるかと思ったが、存外おとなしいものだ。


 椿は本気でこんな生活を二週間も続ける気なのだろうか。いや……二週間で済めばマシな方なのかもしれない。

 いつでも俺を襲うチャンスはある。そう思ってのんきに眠っているのだろう、コイツは。

 あるいはたぬき寝入りで俺が眠るのを待っているか。


 ああ、こんな風に逡巡している時点で俺は術中にハマっているのだろう。

 このままじりじりと消耗して、そこを椿に補食されて終わり。己の未来がありありと見える。


 いっそ、このチャンスを活かして、椿を亡き者にするべきか?

 本当に息の根を止めるまではいかなくても、脅しくらいにはなるかもしれない。

 口でどれだけ言っても聞かない奴だ。それに軟禁されている時点で正当防衛だって成立するのでは……


 空いている左手で椿の細い首に手を伸ばす。異様に冷たい体温が手のひらに伝わってくる。コイツ本当に人間か?見た目通り幽霊なんじゃ……


 早鐘のように鳴る心臓の音が、椿に伝わっていないか心配になってくる。

 他人の首を絞めるなんて初めての経験だ。うまくやれるだろうか。死なない程度に手加減して……

 いや、むしろ「事故」が起きてしまった方がいいのでは? コイツには散々煮え湯を飲まされてきた。

 そうだ。俺は被害者なのだ。100回殴られてから1回殴り返したようなものだ。裁判になれば執行猶予くらいつくはずだ……





 左手に少し力を込めると、椿が「ぐっ……」と苦しそうな声をあげた。


 



 瞬間、反射的に手を引っ込める。俺はいま何をしようとしていた?

 いくら椿に追い詰められたからって、それはダメだろう。人として越えてはならない線ってあるだろうが。


 ああ、クソ。危うくコイツと同類になって畜生道に落ちるところだった。

 やめだやめだ。俺が手をかけたところで、椿は地獄で「先輩の初めての人になっちゃった」とほくそ笑むに違いない。

 こんな奴のために一生を台無しにしてたまるか。


 俺が椿に背を向ける前、奴の口元が少しニヤついていたように思えたが、おそらく気のせいだろう。おそらくは……







 結局、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。頭がズキズキと痛い。カーテン越しの朝日が鬱陶しい。


「うふふ……先輩と朝を迎えちゃった」


 椿が指で俺の頬をつこうとしてきたため、その手を払いのける。

 普段から顔色の悪い椿ではあるが、今日は心なしか血色が良く見えた。お陰でこちらの気分は最低なのだが。


「もう満足しただろ……さっさとこれ外して帰れ」


「ふふ……後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しむ、というのも素敵ですが……私たちには固い絆がありますから」


 ジャラ、と椿は自らの左手を持ち上げてみせた。何が絆だ。ただの鉄の塊だろうが。


 ふと、いい香りがキッチンから漂ってきた。寝不足でも腹は減るものだ。唾液腺が活性化してくるのを感じる。

 おおかた伊坂が椿のための朝食を作っているのだろう。おそらくは、俺の分も。

 奴の料理を食べるのはなんとなく気にいらないが、食べ物に恨みは無いし、今後に備えて体力はつけておくべきだろう。


 ぼんやりした頭で朝食の出来上がりを待っていると、椿が隣でモゾモゾと動き出した。なんだろう……嫌な予感がする。


「先輩……」


「なんだよ」


「お手洗いに……行きたくて……」




 最低の朝だ。

 目と耳を塞いだところで、椿が目の前で用を足しているという事実がもう地獄そのものだった。当然俺の用便も見られるし、俺はいったいどんな罪を犯したというのだろうか。




 反面椿はご機嫌で、食卓では伊坂の用意した卵焼きをつついていた。


「さすがさらちゃん、焼き方が丁寧で見た目もいいわね」


「勿体なきお言葉……」


「でもこのお味噌汁は何? 味が濃いのよ。私を高血圧で殺す気かしら」


「申し訳ありません……申し訳ありません……」


 椿は手に持ったスリッパで伊坂の頭をバシバシと叩いている。人の家の備品を虐待に使わないで欲しいのだが……

 あとケチのつけ方が意地悪な(しゅうとめ)みたいだな……


「まあ良いわ。今日の私はとっても気分がいいの。ね、先輩」


「……」


 伊坂の朝食はなかなか美味いものだった。それでこの最低な気分が晴れるわけではないが。


「さあ、先輩。今日は何をして遊びましょうか。このままお出掛けしてもいいですよ? 先輩がそれに耐えられるなら」


 椿が嗜虐的な笑みを浮かべる。俺の軟禁がうまくいって本当に機嫌がいいようだ。嫌らしい笑い方が不愉快で仕方がない。


 どうすれば俺はこの状況を切り抜けられるか。


 手錠を外してもらえないのは当然として、相変わらず服も着させてもらえない。

 伊坂が外に買い出しに行けば椿と一対一になるが、コイツを力ずくで脅せるとは思えない。

 そもそも伊坂が鍵を持っていれば手錠は外せないだろうし。

 外部に連絡を取ろうにも、スマホはいつの間にか椿に没収されていたようだ。どこを探しても見当たらない。


 絶体絶命の状況だ……







 と言いたいところだが、実は一晩中考えた策がある。

 成功するか否かは運任せだが、もうそれに賭けるしかない……



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