45―3 ヤンデレと琴の音 その3
「なんで、お前……いつの間に……」
「まあまあ細かいことはいいじゃないですか」
呆気に取られる俺をよそに、椿はヌルリと浴室に侵入し、俺の右腕をぐっと掴んだ。腕に痛みが走る。
掴んだ?
いや、違う。俺の右腕を捕らえたコレは……手錠だ。
続けて椿は己の左腕に手錠をかけた。二人を繋ぐ鉄の錠はやけに重く、それが玩具ではなく本物の拘束具であることを示していた。
「もうシャワーは十分でしょう。そろそろお楽しみの時間といきましょうね」
「待て待てオイ、お前のせいで身体も拭けねえだろうが。外せよコレ」
「ああ、それなら私が身体を拭くので大丈夫ですよ」
「何も大丈夫じゃないが……」
脱衣場まで引っ張り出され、椿がタオルで身体中を拭いてくる。
まるで虫に全身を這われているようで気色悪い。一応身体の湿りはマシになったが……
「気分はどうですか?」
「最悪だよ」
「それは結構なことで」
俺は未だ全裸のままなのだが、構わず椿は俺をリビングまで引っ張っていこうとする。向こうには伊坂先生がいるというのに。
よく周りを見ると、脱衣場に置いてあった服が見つからない。
「テメェ、服どこやったんだよ」
「さあ? 私は知りませんが……」
「ここに来てとぼけんなよクソッ……」
「そこの棚にパンツありませんでしたっけ? 予備か何かの」
「あっ、そう言えばそうか……なんで知ってんだよお前」
「そりゃもう先輩の部屋なら目を瞑ってても生活できますから」
誇らしげに笑う椿を見て、本当に目を潰してやろうかと思った。それでも嗅覚とかで追いかけてきそうだけど……
椿は手錠にはめられた俺の右手をグイグイ引っ張ってくる。
このままだと伊坂先生に痴態を見られてしまう。病的な目つきの女とパンツ一枚の男が並んで現れては彼女が卒倒してしまうかもしれない。
それにしても、椿はどうやってこの部屋に入ったのだろう。
いつも玄関の鍵は必ず閉めるようにしているし、今日だってちゃんと閉めた記憶はあるのだが……
リビングに到着すると正座の伊坂先生が一礼をもって俺たちを迎えた。
俺と椿の異様な出で立ちを見ても微塵も眉を動かさない。それどころか、穏やかな微笑みを湛えている。
仰々しく跪くその姿を見て俺は、すべてを悟った。
彼女こそが、「酒クズ」のモアちゃん、「ギャンブル狂い」の麻季ちゃんに続く椿の三番目の友人、「マゾヒスト」その人であると。
「椅子」
椿が冷たい声を発すると、伊坂先生……いや、伊坂はその場に四つん這いになった。
平たくなった彼女の背に椿が腰かける。やはりコイツらはグルだったのか。
騙された俺も悪いが、やはり納得がいかない。
「伊坂お前、嘘ついてやがったのか」
「はて……何のことでしょう……」
「椿とは友達じゃないって言ってただろ」
「椿さんは大事なご主人様ですから。友人だなんてとんでもないことです……」
「それにお前、椿とは専攻が違うって……接点だってないんじゃ」
「ええ。私の専攻はフランス文学で、あまり日本文学に詳しいわけではないですが……しかし谷崎潤一郎様だけは別です」
「谷崎の作品に対して面白い解釈をする子がいるな、と思って私から声をかけたんですよ」
「バタイユ様の研究をしたいがためにフランス文学の道に進みましたが、それでも椿さんは私などに目をかけてくださり……勿体ない幸せです……」
クソッ、考えれば考えるほど辻褄が合う。
伊坂の馬鹿丁寧な態度は、相手に敬意を払うためのものではなく、己を卑しめるため。
塾の生徒の意地悪に動じなかったのも当然で、彼女にとって子どもの悪戯など心地いいそよ風でしかなかった、と。
その特性を見抜けなかった俺の負け、というわけか。
「先輩もこっちに来て座りませんか? 座り心地は悪いですが、床よりはマシですよ」
「しかし椿さん……私の筋力では二人を支えるのは難しいかと……」
「それなら潰れてなさい。椅子が座布団に変わるだけでしょう?」
「そんな……ひどい……」
言葉とは裏腹に伊坂は頬を赤らめ、歓喜に震えている。
蕩けた目つきはほとんど薬物中毒者に近い。
人の笑顔を見てこれほどおぞましく感じるとは……
「で、手錠はいつ外してくれるんだよ。SMごっこなら外でやれ」
「そうですねえ。私の気が済むまで、ということで」
「はあ? 気が済むってなんだよ。最近お前に迷惑かけた覚えは……」
椿は黙って伊坂の髪を掴み、引っ張りあげた。顔中に喜色を湛える伊坂の顔がよく見える。
その不気味さに思わず目を逸らしてしまう。
「私が仕掛けたこととは言え、他の女の子に色目をつかうのは良くないですよねえ。その反省もしてもらわなきゃ」
理不尽すぎる。そりゃあ俺も下心はあったにせよ、まだ何も悪いことはしちゃいなかったのに。
よっぽど苦情を申し立てたかったが、椿に反論してもどうせ糠に釘。今はどうにか逃げ出す方法を考えるのが建設的か……
「貴女も貴女よ、さらちゃん? 私の先輩にベタベタと、よくもまあ……」
「ごめんなさいごめんなさい私そんなつもりじゃ」
「うるさい」
椿の鋭いビンタが伊坂の頬を捉える。ピシャリ、と嫌な音が響いた。
客観的に見たらめちゃくちゃだ。椿が伊坂に対してハニートラップを仕掛けるよう命じたのに、それが気にくわないと伊坂をはたく。
しかしそんな支離滅裂を本人たちはご機嫌でこなしているのだから、余計に気色悪い。
しかし、わざわざ俺のバイト先に手先を送り込むだなんて、用意周到なことだ。
目論見通り俺はまんまと引っ掛かったわけだし、結果から言えば大成功と言って差し支えない。
ただ、一つだけ気になっていることがある。
「お前らの手口はよくわかった。バイトが空くのを狙って刺客を送り込む計画は前からあったんだろうな。しかしなあ。椿自身がバイトに入れば、こんな回りくどいことしなくても俺をハメるチャンスなんていくらでも……」
「……落ちたんですよ」
「えっ」
「バイトの面接……見た目が怖いって……」
「そっか、なんか……ごめん」
「いえ……」
椿は見るからにしょげているが、とは言え危機が去ったわけではない。
未だに俺はパンツ一枚で、右手は椿と繋がれたままだ。
モアちゃんの時のように外に逃げ出すのは難しいだろう。この格好では誰が犯罪者だかわかりゃしない。
「今度は何が目的なんだよチクショウ……」
「何って……好きな人と一緒にいたいと思うのは自然な感情でしょう? まあ、私も鬼ではありませんから、ずっとこの状態とは言いません。一週間か二週間か……私が飽きるまでですね」
「馬鹿言うなよ。そんな状態で生活なんて……」
「ご心配なく、身の回りの世話はこの子がやってくれますから。買い出しから、代返まですべて」
うふふ、と笑いながら椿は伊坂の耳をひねり上げた。見ているこっちまで耳が痛くなりそうだ。
しかし伊坂は「あっ……」と甘い嬌声を上げるだけだった。コイツら、狂ってやがる……
それにしても椿の提案はあまりにグロテスクだ。
こんな奴と24時間一緒だって? 冗談じゃない。1日過ごすだけで俺の気が狂うだろう。
椿の口ぶりからすれば外出さえさせてもらえない可能性もある。
想像しただけで胃の内容物が逆流してきそうだ。
「じょ、冗談だよな……? だって、風呂とか、トイレとか、このままじゃできねえだろ……お前だって……」
「先輩になら何を見られても構いませんよ。むしろ見てもらいたいくらい……」
ふざけたことを呟きながら、椿は顔を赤らめる。無駄に長い髪の間から見えるヤツの目は、異様な輝きを放っていた。
椿の思考回路はさっぱり理解できないが、安易なごまかしが通じる雰囲気でないことだけはわかる。
逃げ出そうにも拘束が邪魔だし、暴力に任せたところで椿が折れるとは思えない。そもそも、実力行使に訴えかければ伊坂だって邪魔してくるだろう。
ダメだ。この状況を打開する策が思い浮かばない。




