45―1 ヤンデレと琴の音 その1
「お疲れ様でございます。貴方様が武永先生でしょうか……不肖私『伊坂さら』と申します。何卒、よろしくお願い申し上げます」
俺のバイト先である学習塾「名月館」の講師控え室に入ると、何やら馬鹿丁寧な挨拶で出迎えられた。
目の前に立つその女性は、折り目正しく深々と頭を下げている。
「お、おう……こっちこそよろしく……」
俺の返事を聞き終えて、その女性は恭しく顔を上げた。
「すごく丁寧な子が新しくバイトに入った」と浅井先生から聞いていなければ、驚いて反応すらできなかっただろう。
少したれ目がちで、髪を後ろでお団子にまとめた清楚な女性だ。和風美人とでも言おうか。
セミフォーマルな洋服を着ているにも関わらず、「大和撫子」という形容がよく似合う。
「さら」という名前も、英名の“Sarah”というより「沙羅双樹」の「沙羅」から名付けられたように思われる。
俺が椅子に座るまでの間、その女性「伊坂先生」はずっと立ったまま待機していた。
ただの先輩講師にそこまで礼を尽くさなくてもいいんだがな……
授業の開始時間まではしばらく時間がある。いま控え室にいるのは俺と伊坂先生だけ。
まだバイトにも慣れていないだろうし、先輩として彼女の緊張を和らげてやる必要があるだろう。
「えーっと、伊坂先生はサークルとか入ってるのか?」
「ええ、邦楽部でお琴を少々……」
邦楽、といってもいわゆるJ―POPのことではなさそうだ。まさに「邦の音楽」。大和撫子な彼女にはぴったりの趣味である。
しかし俺に和楽器の教養はさっぱり無い。他の話題を考えねば会話が途切れて気まずくなりそうだ。
「あっ、学部は文学部だったっけ?」
「文学部の二回生でございます」
背筋にヒヤリとしたものが走る。文学部の二回生……つまり椿の同輩ということか。まさかとは思うが、この子は椿の刺客か?
「どうか、されましたか……?」
「い、いや。別に……」
疑心暗鬼になってモヤモヤするのも嫌だし、もし椿と無関係であるなら伊坂先生を疑うのも失礼だ。
いっそストレートに訊いてみるか。
「あのさ、本庄椿って知ってるか? そいつと友達だったり、とか」
「いえ、友人ではございませんが……」
「そ、そうか……」
ここまで断言するなら、親しい仲というわけではなさそうだ。椿の話を振ってうろたえた様子も無い。
まあ、同じ学部といっても必ず知り合いであるとは限らないしな。
「武永先生は椿さんと昵懇なのでしょうか。風の噂で聞いたことがあるのですが……」
「いやいや、あれは俺がストーカー被害に遭ってるだけで、仲が良いとかそんなじゃないんだよ」
「あら、照れ隠しでしょうか。色男は大変でございますね」
「本当違うんだって! アイツにはほとほと困らされてんだよ。この前なんかさ……」
「ふふふ」
以前にあった椿とのくだらない諍いを面白おかしく話すと、ようやく伊坂先生は笑ってくれた。なんだか安心させられる笑顔だ。
浅井先生しかり、俺は清楚な女性に好感を持ってしまいがちなのである。
雑談ばかりしているわけにもいかないので生徒に指導するコツなども伝授してみたが、伊坂先生は興味深そうに話を聞いてくれた。
見た目通り真面目な性格らしい。こういう人柄を見越して塾長も採用を決めたのだろう。同僚になる身としては有り難いことだ。
この塾での個別指導は、それぞれ生徒と講師がブースに分かれて行う方式である。
ブースとはいえ個室ではないので、気を付ければ他ブースで行われている授業の様子を伺うことも可能だ。
別件で忙しい塾長からの依頼もあり、俺は自分の授業の片手間、伊坂先生の勤務状況も確認することになった。
真面目そうな人だし手を抜くことはないだろうが、真面目ゆえに生徒にからかわれたりしないか心配なのである。
「武永せんせー、さっきから新しい先生の方ばっか見てる」
「伊坂先生が困ってないか見守ってんだよ」
「じゃあ私も見守るー」
「君は問題を解きなさい」
「先生が覗きしてる間にもう終わったし」
「待たしてたか、それは悪いな。って半分も終わってないじゃねえか!」
「あっ、このプリント裏もあった? 気づかなかったなー」
「わざとやってんだろ……」
今日受け持ちの生徒、ミナはいつものごとくマイペースだ。
伊坂先生は順調に授業をこなしてるっぽいし、俺は他人のことを心配するよりも自分の生徒をしっかり見ないといけないのかもしれないな……
自分の生徒と伊坂先生の両方に意識を割いているうちに、いつの間にか最後の授業コマが終わっていた。
期待していた以上に伊坂先生は要領よく授業を完遂させたようだ。活発な男の子のからかいにもにこやかに応えてみせ、新人とは思えないほど生徒をうまくいなしていた。
うちの生徒はイタズラ好きな子も多いのだが、特にへこたれた様子もなさそうだ。
授業そのものも丁寧でわかりやすく、これなら俺が監視していなくても問題無いように思われる。
しかし浅井先生といい、俺の後に入ってきた講師がやけに優秀で少し落ち込む。
教職を目指してる俺の方がヘボだったら流石にまずいだろうに……
「おーい、武永くん。そろそろ行くよ」
「すみません、すぐ行きます!」
もう俺以外の講師は塾の外に出ているらしい。塾長に急かされ、俺も急いで荷物をまとめた。
今日は伊坂先生の歓迎会を行うのだ。浅井先生が所用で来られないのは残念だが、バイト歴の長い俺が欠席するわけにはいくまい。
伊坂先生の教育係に任命されたからか、歓迎会の席でも彼女の隣になった。
彼女はもう二十歳を迎えており、ゆっくり日本酒を傾けている。
まるで日本茶でも飲むような所作だ。そんなところで雅を発揮しなくてもいいのだが……
「へぇー、伊坂先生ってフランス文学専攻なんだ。てっきり日本文学専攻かと思った」
「ふふ、よく言われます……日本文学も読まないわけではないですが」
それとなく探りを入れてみたが、やはり日本文学専攻の椿との接点は無さそうだ。
だいたい、椿の友人と言えばモアちゃんしかり麻季ちゃんしかり、わかりやすく問題を抱えた人物ばかりなのだ。
このお上品な女性が椿の友人であるとは、俺には到底思えなかった。
「歓迎会」というだけあって、伊坂先生には次々とお酒が勧められた。彼女もまた律儀なもので、勧められたものは諾々と飲んでしまう。
浅井先生も不在で、男所帯のような飲み会になってしまったのも良くないのだろう。
周りの人間も飲むペースが早い。伊坂先生の前で酔っぱらうのは悪い気がして、俺は飲む量を控えめにしているが、他の講師は良い具合に出来上がっていた。
そしてそれは、伊坂先生も例外ではなく。
「少し……酔ってしまいました……」
隣に座る伊坂先生がしなだれかかってくる。赤く上気した顔が艶かしい。
しかし、ほぼ初対面の男相手に無防備すぎやしないか。
まあ、大人しい女性の胡乱な様態に心ぐらつく俺が偉そうなことを言う資格は無いのだが。
「大丈夫か伊坂先生? アイツらに合わせて飲む必要なんかないからな」
「武永先生はお優しいのですね……塾内でもこんな私に心尽くしをくださり、幸甚の至りでございます……」
潤んだ瞳で伊坂先生が俺を見上げる。これは俺じゃなくてもグッとくるだろう。
椿の恨めしそうな表情が脳裏に浮かぶが、いまはこの状況を楽しませてもらおう。
たまには俺だって良い思いをしたっていいだろうが。




