43―6 白蛇と帰郷 その6
「誰が誰に負けたって?」
千佳は振り向かないまま、声だけで凄んだ。蛇の大きな口が椿の頭の上で傘のように開く。椿の細い身体など簡単に呑み込んでしまいそうだ。
「先輩にフラれるのが怖いから逃げるんでしょう。不戦敗でも負けは負けですよ」
それでも椿は一歩も引かない姿勢だ。何でそんなにムキになるんだ? このまま千佳を放っておけばライバルが一人減るのに。
「アナタには関係ないでしょ、これはウチとお兄の問題なんだから」
「だから関係あるんですよ。先輩は私の一部であり、私は先輩の一部です。勝手に切り離さないでください」
「お前こそ人を勝手に自分の一部にするなよ……」
「全部にしてもいいんですよ?」
「ああ、うん……それよりお前、危ないし千佳から離れろよ」
「それは先輩の頼みでも聞けません」
椿はその場を離れるつもりはないらしい。目の前で人が蛇に呑まれる光景は見たくないんだが。
痺れを切らした千佳が、ため息をつきながら振り返った。大蛇はまだ椿の頭の上で口を開いている。
「何なの。話が長いようならこの子の餌にするけど」
「まあ貴女がいなくなるならそれはそれで構わないんですけど、最後に一言だけ伝えておきましょう」
「早くして」
椿は短く息を吸い込み、低い声で唸った。
「悲劇のヒロインぶってんじゃねーよ」
それは、およそ椿には似つかわしくない乱暴な言葉遣いだった。コイツは慇懃無礼な言い方をすることはよくあるが、直截に粗野な物言いはしないタイプではある。
その椿が、怒気を込めて罵声を発した。
「なに、それ。どういう意味」
「腹が立つの、貴女みたいな人を見てると。『叶えられない恋』に酔ってるんでしょう? 呪われた家系に生まれたからとか、自分の背負ってるものを相手に背負わせたくないとか、クソくらえですよ」
「……」
千佳からの反論はない。かなり無礼な言い方だが、ある程度千佳の心情を言い当てているせいで、反論できないのかもしれない。
「別に私は美人じゃないし、先輩の好みのタイプでもない。無茶なことでもしなきゃ、先輩と付き合うどころか話すことだってできやしない。でもね、そんなことは一つも諦める理由にはならないんです」
うつむいた千佳の表情は見えないが、大蛇は椿の頭から離れて、少し引き下がった。それが千佳の命令によるものかはわからないが。
「それに比べて何ですか貴女は。綺麗なお顔に艶のある雰囲気、過去には先輩とも仲良かったんでしょう。特別なことをしなくてもお義母様にも気に入られてるのに。ああ腹が立つ。私よりずっと恵まれているのに、その自覚もないなんて」
「待てよ椿、千佳だって色々苦労してるだろうし、な?」
「こうやって先輩にも庇ってもらえるんでしょう。妬ましい。憎たらしい」
どうも椿は心底怒っているらしい。険悪な雰囲気の中、千佳が口を開く。
「何も知らないくせに」
「ええ、何にも知りませんよ。興味もありませんし。そうやってできない理由を探して、ずっと思い出とともに生きてなさい。私は未来に行きます」
嘲笑するような目で千佳を一瞥した後、椿は俺の腕を掴んだ。
「行きましょう先輩。傷つくことすらできない弱虫には、慰めの言葉も痛いだけです」
立ち尽くす千佳に何か声をかけたかったが、今は何を言っても白々しいように思えた。
「待って」
絞り出すような声で千佳は俺たちを引き留めた。彼女の肩にはもう蛇は乗っていない。
「どうしてそこまで諦めが悪いの? アナタだってわかってるでしょ。どうせあの浅井って人には勝てない。なんで投げ出さないの」
「諦めるよりは足掻く方がいくらかマシだからよ。どちらを選んでも地獄なら、私は甘い地獄に抱かれて死にたい」
堂々とした声で椿は言い切った。行動・言動すべてがめちゃくちゃではあるものの、コイツなりの覚悟があるのだろう。
俺の腕をしっかりと掴んだまま、椿は言葉を続ける。
「だいたい貴女は先輩の度量を侮りすぎなの。霊媒師のなり損ないとか、宇宙人みたいな感性の子とか、キャラ作りで自縄自縛になってるゴスロリとか、全部相手にできるくらい器の大きい人間が先輩よ。今さら蛇娘が増えるくらい、どうってことないの。ね、先輩」
「そう……だな。千佳がどういう人間であれ、俺は嫌いにはなれないだろうな」
椿が言うほど俺は立派な人間ではないが、千佳がどういう出自を持っていようと、それだけで拒否するつもりはない。
俺は自分が今まで見てきた千佳を信じる。
「本当に? ウチの親ロクデナシだし、蛇もウジャウジャいるけど、今度遊びに来てくれる?」
「もちろんだ。千佳の頼みならどこだって行くぞ」
正直に言うと、蛇がウジャウジャいるのは勘弁してほしかったが、ここで断るのはあまりに無粋だろう。
今度会う時までに蛇に慣れとかないとな……
「そっか、それなら……うん」
千佳の傍らでとぐろを巻いていた大蛇は、のんびりした動きでうちの庭から出ていった。
あんな堂々と出ていって大丈夫なんだろうか。猟友会とかに狙撃されないといいが……
「で、貴女はまだご飯食べていくの?」
「うん。脅してごめんね」
「まったくです。死ぬかと思いました」
「意外とビビってたんだなお前」
「そりゃ怖いものは怖いですよ。でも、いざとなったら先輩が助けてくれるでしょうしね」
「どうかな。見殺しにしてたかも」
「また照れ隠しですか」
頬をつついてくる椿がウザい。あの状況なら確かに俺は椿を庇っていたかもしれないが……まあ、余計なことは言わないでおこう。
また調子に乗られても腹が立つし。
ふと振り返って千佳の顔を見ると、彼女は吹っ切れたような、あるいは安堵したような表情で笑っていた。
それでいい。彼女にはシリアスな顔より優しい笑顔が似合う。
どれだけ怜悧な美人に育っても、だ。
帰りの電車。さすがの椿も疲れたのか、少し眠そうに見える。
寝ようとするのは勝手だが、いちいち俺の肩にもたれかかってくるのはマジでやめてほしい。
椿の頭を押し返しつつ、気になっていたことを尋ねてみる。
「しかし意外だったな、お前が千佳を引き留めるなんて」
「ああ、あれですか。お義母様が言ってたんですよ。『千佳ちゃんは家庭の事情で色々苦労してたから、仲良くしてやってほしい』って。仲良くなるのは無理ですが、情けをかけるくらいはしてやろうかと」
「要するにうちの母親への好感度稼ぎってことか?」
「そんなところです」
ブレないな……危うく椿の良心を見直すところだった。そんなもの、コイツには無いだろうに。
そもそもあんな喧嘩腰に引き留める必要もなかったし……
「あとはまあ……」
「なんだよ」
「先輩も、あの子が悲しむのは嫌でしょう?」
「それは……そうだな」
「夫の意を汲むのが妻の仕事ですから。あの蛇娘は別の方法で排除します」
「物騒なことするつもりじゃないだろうなオイ」
「どうでしょうねえ」
椿は元々細い目をさらに細めて笑った。美しい笑顔とは言えなかったが、珍しく不気味な感じはしなかった。
それからしばらく経って、椿はどうやら本格的に寝入ってしまったらしい。
やはり椿の頭は俺の肩に乗っているわけだが、押し返すのも疲れたし、今日だけはしばらくこのままにしておいてやるか。
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