37―2 奇人と迷える羊 その2
「おいリーちゃん、こんな時に冗談は……」
「冗談ではないです。何か違和感はありませんか」
ぐるりと周囲を見渡してみる。何の変哲も無い住宅地だ。民家から明かりが漏れているし、街灯だって消えたわけじゃない。
確かに人は歩いていないし、車も通らないけど、それだって偶然かもしれないし……
とは言ったものの、正体はわからないが、何故だか妙な違和感がある。
周りを見る限り目立って変なところは無さそうだが、さっきから妙に落ち着かない。
「ほう……ナガさんもお気づきになられましたか」
「いや何も気づいてないけど……何か変な感じはするよな」
俺が返事をすると突然リーちゃんはサンダルを脱ぎ始め、それをアスファルトの地面に叩きつけた。
スパーン! と小気味いい音が夜の静寂を破って響き渡る。
「どうしたリーちゃん!? 変な虫でもいたか!?」
「いえ。ちょっと試してみただけです」
試す? 何を? いまいち彼女の意図が掴みきれない。
彼女はサンダルを履き直し、そのまま黙りこくってしまった。しばらくの間、静寂が流れる。
「ど、どうしたリーちゃん……具合でも悪いのか?」
「音が……」
「えっ?」
「音が少ないんですよ、明らかに」
そうリーちゃんに指摘されて、ようやく違和感の正体がわかった。あまりにも周囲が静かすぎるのだ。
いくら夜とは言え、今はまだ深夜ではない。通常であれば、車のエンジン音だったり、民家から漏れるテレビの音だったり、いわゆる「生活音」が必ず聞こえてくるはずなのだ。
しかし今いるこの場所では、何の音も聞こえてこない。俺たちが出した音以外は、何も。
「サンダルを叩く音は聞こえましたし、わたしたちの耳がおかしくなったとか、音の響かない場所にいるわけではなさそうですね」
「いやいやいや何でそんな冷静なの? ヤバくない? ここ明らかに異常空間だろ」
「落ち着いてくださいナガさん。ここがどんな場所であれ、取り乱しても益はありませんよ」
「お、おう……それはそうだな」
年下の女の子にパニックを宥められてしまった。かなり情けない状態だが、お陰で何とか俺も平静を取り戻せてきた。
浅井先生のおばあさんに会った時もそうだが、この世には道理が通らない事象だって存在するものだ。
まずはこの不気味な空間から脱出する方法を考えねば。
「とりあえず人を探してみるか。幸い周りにある家は明かりもついてるし」
「そうですね」
すぐ近くにあった家の呼び出しチャイムを押してみる。が、呼び鈴が鳴っている気配は無い。よく見ると玄関に表札もかかってないし、家の中で人が動く気配もない。
「ごめんくださーい! 誰かいませんかー!」
……返事は無い。
試しにもう二、三軒ほど家を回ってみたが、やはりどの家でも返事が来る気配は無かった。
いよいよそら恐ろしい心持ちになってきた。周りに人がいない、ただそれだけの事実がこんなに不気味だなんて。
「やべえよリーちゃんこれ……さっきの映画とまるまる同じじゃん」
「そうですか? でも映画と違って不吉なものは何も落ちてないですよ」
言われてみれば確かにそうだ。映画ではボロい人形や腐った看板など恐怖を想起させる仕掛けが色々と散りばめてあった。
対して俺たちが今いる場所は、人気がないだけでそれ以外は普通の町でしかない。
ただ、ああいうのが映画で描写されていたのはまさに映画が「作り物」であることを担保するものとも言えるかもしれない。
創作特有の「わざとらしさ」が無いだけに、今この身に起こっていることが現実であると認識せざるを得ない。
俺が良からぬ想像を膨らませている一方で、リーちゃんはウロウロと辺りを散策している。
彼女は余計なことを考えず、現状把握に努めているようだった。そのタフさが羨ましいが、俺はそこまで割りきれそうにない。
「リーちゃん、何かわかりそうか?」
「いえ……せめて今いる場所の地名でもわかればと思って標識から電柱、マンホールまで見ましたがどれもまっさらですね」
電柱とかマンホールに地名を書いてることがあるなんて初めて知ったんだが……何なんだこの子? サバイバルの天才か?
「現在地はわからないか……まだ他にも妙案はありそうか?」
「そうですね……」
リーちゃんはいつもの真顔を保ちつつ、足元をじっと見つめた。
冷静に思案する姿はまるで小さな哲学者だ。俺はリーちゃんという女性の底力を見くびっていたのかもしれない。
「うーん……」
「おっ、何か閃いた?」
「諦めますか」
「いや早い早い」
「どうにもならない気がしてきたんですよね」
「もうちょっと頑張ろう? 俺もできる限りのことするから、な?」
現状認識に長けるリーちゃんの分析によれば「諦めるしかない」と結論が出たのだろう。
リアリストを極めるとペシミスト(悲観主義者)になるとどこかで聞いたことはあるが、まさに今のリーちゃんを指す言葉だろう。
さっきまでとすっかり立場が逆転してしまった。いまいち気乗りしないリーちゃんを宥めすかしてどうにかやる気を出させる。
「とりあえず歩いてみようぜ、どっか知ってる道に出るかも」
「そうですね。諦めるのは悪あがきしてからでもできますし」
ただ、これは苦し紛れの提案である。大抵のホラー映画ではこういう展開の時にやみくもに歩くと……
「……なんか元の場所に戻ってきちゃいましたね」
やっぱりそうなるのか。最悪の想定が当たってしまった。
「とりあえずお腹が空きましたね、その辺の民家漁ってみますか?」
「万一家主がいたら大変だし、それは最終手段に取っとこう。不法侵入で訴えられても困るし」
「そこはもうナガさんのエクストリーム土下座で」
「君も一緒に謝るんだぞ……」
疲れからかリーちゃんの発想が過激になってきてる気がする。
実のところ俺の疲労も限界だ。肉体の疲れはそこまででもないが、この状況は精神的にかなり「クる」。
何か名案は無いものか。そもそもの入口がわからない時点でヘンゼルとグレーテルやアリアドネの糸みたいな脱出法はできなさそうだ。
スマホで方位磁針のアプリをダウンロードしようにも電波が無いから無理だし……
うーん、やっぱりこの状況……詰んでるのでは。




