35―1 ヤンデレと酒クズ その1
四限が終わり、さあ帰るぞと教室を出たところで電話が鳴った。架主電を確認すると、どうやら非通知設定でかけてきているようだ。まあ、なんとなく誰が犯人かはわかっているが……
「もしもし?」
「あっ、先輩。今から学生会館の第1集会室まで来てもらえますか?」
「お前なあ、俺だって暇じゃないんだぞ」
「でも先輩、今日は用事無いでしょう?」
「チッ……なんで知ってんだよ」
「だって私は先輩と運命の赤い糸でつな」
ツー、ツー、と終話の電子音が鳴る。ウザすぎたので思わず電話を切ってしまった。
とは言え、一応行っておかないと後で面倒なことになりそうだ。まったく、くだらない用だったら許さんぞ。
また椿に監禁でもされたら最悪だし、窓ガラス越しに部屋を覗いてヤバそうなら帰ろう。確かあそこは部屋の中を一部覗けるようになってたはずだ。
学生会館は、大学の部活やサークルの活動に使われる建物であり、広間に個室に大ホールと様々な部屋が用意されている。
諸星やリーちゃんの所属する交響楽団も普段はそこの大ホールとかで練習しているらしい。
会館の入り口まで坂を上り、ドアを開くと広間ではジャズバンド部がバラバラに個人練習をしていた。俺はサークルに所属していないので学生会館には滅多に来ないのに、何故だか懐かしいような感じがする。
吹奏楽部の練習が遠くから聞こえていた、高校時代を思い出すからだろうか。大学も嫌いじゃないんだが、時々高校に戻りたくなるこの感覚、自分でも不思議なんだよな。
つれづれと思案しているうちに問題の部屋の前まで来た。
中にいるであろう椿に悟られないよう、気配を殺して部屋の様子を伺う。10畳ほどの部屋の中には、見知らぬ女性が一人。
短く切った黒髪に、褐色の肌。顔つきは日本人っぽく見える。どうも日焼けで肌が黒くなっているらしい。見た目からするとスポーティーな印象を受けるが……
不可解なことに、部屋の中に椿の姿が見当たらない。ドアについた窓ガラスでは覗ける範囲が狭く、部屋を隅々まで確認できないせいだろうか。クソッ、どこに隠れていやがる……
「ふふっ、覗きだなんてスケベですねえ……」
「うおわっ!?」
不意の囁き声に腰を抜かしそうになったが、何とか転ばずに向き直る。
「なんで部屋の中にいないんだよ!」
「部屋の中にいるなんて私一言も言ってませんけど……まあ、とりあえず入ってください」
「入れって……中にいるのは誰なんだよ」
「私の友達ですよ。ほら、先輩が私を疑うからちゃんと紹介しないと、って」
椿はドアを開け、俺を部屋の中に押し込んだ。
椿の友達……前言ってた「マゾヒスト」、「ギャンブル狂」、「酒クズ」のどれかが来てるのか。
どれが来ても愉快なことにはならなそうだが、まずは相手がどういうタイプのロクデナシか見極めないと。
黒髪ショートの女性は俺を見るやニコッと笑い、大きく口を開いた。
「飲んでますかー!!」
あ、これ絶対「酒クズ」だ……
彼女の名前は白菊最愛。経済学部の2年らしい。椿とは例の園芸サークルで知り合ったらしく、枝豆の栽培が趣味であるようだ。浅黒く焼けた肌と短い髪とは裏腹にスポーツの経験は無いらしい。椿曰く「ビアガーデン焼け」とのことだ。(初めて聞く日焼け法だ)
服装もビビッドカラーのコーチジャケットにショートパンツと、椿の友人とは思えない活発そうなファッションである。
ただ、そんな表面的なプロフィールで彼女を言い表すことはできない。
この部屋に充満する強烈なアルコール臭こそが彼女の核心であろう。
「で、武永さん。とりあえずビールっすか?」
「飲まねえよ。そもそもこの施設内で酒飲んでいいのか?」
「まあまあ、堅いこと言わずに一杯。冷え冷えっすよ」
「そうですよお、折角モアちゃんが色々用意してくれたんですから」
いつの間にか椿も紙コップでワインを飲んでいた。その左手にはカマンベールチーズ。欧風の宴会スタイルである。
どうやって用意したのか不明だが、部屋の中には瓶ビール、赤ワインに白ワイン、焼酎、日本酒、チューハイにサワーと揃えられており、ちょっとしたパーティーの様相だ。
つまみもなかなかの品揃えで、チーズに枝豆、ナッツ類やサラミ、漬け物まで並べられている。
あまりにもおあつらえ向きで胡散臭いが、この誘惑に耐えられるほど俺の心は強くない。
「しょうがねえなあ……ちょっとだけだぞ」
積まれている紙コップを手に取ると、すかさずモアちゃんが寄ってきてビールを注ぎに来た。
椿の友達にしてはなかなか気の利く子のようだ。
「さあさ、グイッと。景気のいいやつ頼むっすよ!」
「お、おう……」
明るく勧められるとつい断れない。しばらくバイト先での飲み会も無かったし、たまにはこういうのもいいか……
ビールを一気に飲み干すと、全身の血がグッと引き締まった感じがした。
「いやー、いい飲みっぷりっすね! さすがつばっちの彼氏!」
「いや彼氏じゃねえよ」
「失礼! 婚約者っすよね」
「オイコラ椿、お前友達に吹かしてんじゃねえぞ」
「先輩、このサラミ美味しいですよ。どこのメーカーですかねえ」
「誤魔化し方が雑なんだよ」
あと「つばっち」ってなんだ。椿の呼称としては全然似合わないだろ。
「さ、武永さんは次何飲むっすか? チューハイ? サワー? 実はウイスキーもあるんすよ」
モアちゃんは右手であれこれ酒瓶を指差しつつ、左手で缶チューハイを飲み干していた。あれ、結構度数高いチューハイだよな……ジュースみたいに飲んでるけど、大丈夫かあの子。
「俺は自分のペースで飲むからいいよ」
「そうっすよね! 酒は己のペースで飲むのが一番!」
言葉とは裏腹にモアちゃんは俺のコップにウイスキーとレモンソーダを注ぎ、簡単なハイボールを作った。
ウイスキー独特の芳しい香りが鼻につく。おそるおそる口をつけると、意外にもするりと喉を通ってしまった。
「このウイスキー、飲みやすいっしょ。安めのブランドだとやっぱコイツが一番っすね」
「ああ。癖がなくてスッと飲めるな」
「武永さんは飲みやすいのが好きって、つばっちから聞いてたんすよ。こっちの焼酎もビックリするくらい口当たりが軽いっす」
「どれどれ……ふぅん、こういうのもあるんだな。俺焼酎って今まで敬遠してたからさ」
「いいっすねえ! そうやって少しずつ守備範囲を広げていくのも楽しいんすよね」
「先輩、ご機嫌ですねえ。ちょっと妬いちゃうかも」
椿のニタニタした笑みは引っかかったが、モアちゃんは椿の友達とは思えないくらい明朗で、なかなか楽しい気分になってきた。
やはり酒は人と飲むに限る。それも快活で気のいい人と飲むのは最高だ。
すっかり酔いが回ったところで、明後日提出のレポート課題のことを思い出した。今の頭じゃロクな文章が書けそうにないし、一眠りしてから取りかかるか。
何はともあれ、まずは家に帰らないと。内鍵のかかったドアを開こうとするが、手が震えてうまく開けられない。
俺がドアをガチャガチャやっていると、不意に酒臭いにおいが鼻をついた。
後ろに誰かいる……まさか椿か? やっぱりハメられたか?
おそるおそる振り返って後ろを見ると、目の据わったモアちゃんが仁王立ちしている姿が目に飛び込んだ。
何だろう、さっきまでと雰囲気が違う。妙に距離も近いし……
「どうしたんすか武永さん……もしかして、帰ろうとか思ってないっすよね?」
「えっ……いや」
「宴会は始まったばっかっすよ」
モアちゃんは低い声で呟き、俺の正面に回り込んだ。俺を意地でも通すまいとする形だ。
ひどく嫌な予感がする。




