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33―1 ヤンデレと愛のヤカン その1

 朝、起きたら身体が縛られていた。何を言ってるのかわからないと思うが、俺にもわからん。

 四肢を動かそうとすると手足を縛っている布が食い込んで痛い。暴れれば拘束を解けるかもしれないが、自分が乗っているベッドが壊れそうで怖い。


 寝起きの頭でうっすら考える。「何故」こういう状況になったのかはさっぱりわからないが、「誰が」このような状況を作ったのかはすぐにわかった。


「あら先輩、おはようございます」


「やっぱりお前か、椿」


 寝ている体勢の俺からは椿の姿は見えなかったが、妙に楽しそうな椿の声は聞こえた。いつの間に侵入したのか。何故こんなことをするのか。色々と聞きたいことはあるが、ひとまず拘束を解いてほしかった。


「オイ椿、これは何の真似だ。さっさと外せ」


「ダメですよ。これは罰なんですから」


「罰って……俺がお前に何したっていうんだよ」


「何もしないからですよ。浅井さんや莉依ちゃんと遊んでばっかりで……もっと私を大事にしてください」


 まず俺の身体を大事にしてくれよ……とよっぽど言いたかったが、ここはグッと堪える。

 とにかくこの鬱陶しい拘束を外させないとどうにもならない。椿と喧嘩するのはその後でもいい。


「わかった、ちゃんと向き合って話をしよう。だからまずこれを外してくれないか?」


「ダメです。躾も終わってないのに外せるわけないじゃないですか」


「躾って……俺はペットかよ」


「先輩を飼うのも素敵ですねえ。三食餌つきは保証しますよ。外国だとペットと結婚する人もいますし、悪くないかも」


 うふふ、うふふ、と椿は気色悪い笑い声を上げた。顔を見ずとも奴が醜悪な笑みを浮かべているのがわかる。わかってしまう。

 最近のポンコツぶりで忘れていたが、元来椿はこういう奴なのだ。横暴で悪辣な偏執狂。倫理観を踏みつけて遊ぶ悪意の塊。


「いいから外せよ。トイレくらい行かせろ」


「漏らして大丈夫ですよ。お互い老いればシモの世話もするでしょうし、その予行演習と思ってますから」


「お前に介護されるくらいなら安楽死を選ぶけどな……」


 どうにか拘束が緩まないかと、手足を動かしてみる。

 ……ダメだ。縛り方が絶妙なのか、手にも足にも力が入りにくい。せいぜいベッドを軋ませる程度が限界だった。

 そうこうしているうちに椿が俺の寝ている脇まで移動していた。椿の手にはヤカン。ヤカン? 何に使うんだ? とにかく嫌な予感はするが。


「お前、まさかそのヤカンで俺に熱湯を……」


「嫌だなあ、そんな酷いことしませんよ。先輩の綺麗な肌が火傷しちゃうじゃないですか」


 椿はクスクスと笑いながら俺の頬を撫でた。馬鹿にされているようで癪に障ったが、少し安心したのも事実ではある。

 「躾」と聞いて不安だったが、どうやら危害を加えられるおそれは無さそうだ。しかし何のためにヤカンを?


「先輩、喉渇きません?」


「寝起きだし、そりゃ渇いてるだろ」


「そうですか、それではお水を恵んであげましょう」


 そういって椿は半開きの俺の口に水を注ぎ始めた。すぐに口内は水で満杯になり、溜まった重量が容赦なく喉に襲いかかる。

 溺れる。死ぬ。と感じた刹那、自分でも驚くほどの大きな咳が出た。それと同時に水が口から溢れ出す。


「ゲホッ! ゴホォ!」


「こぼしちゃダメじゃないですか。ああ勿体無い」


「ゴフッ……殺す気かよ……」


「殺すだなんて! 危ないと思ったらちゃんと止めますから、安心してください」


 安心? 何を言ってるんだコイツは。

 水責めというのはあらゆる時代・場所で採用されてきたポピュラー拷問方法だ。特別な技術も知識もいらない、簡便で効率的な責め苦。拷問の王道と言って差し支えない。

 安心なんてどこにもない。屈辱、恐怖感、怒り、当惑……そういった形容の方がよほど正鵠を射ている。


「お前、やっぱり頭おかしいよ」


「追い込まれた状況でなお私に刃向かう先輩……その気高さが素敵です」


 ゲホ、ゴホ、とまだ咳が収まらない。そして椿は苦悶に喘ぐ俺の表情を覗き込む。

 椿の細い目から覗く瞳は異様な色をしていた。何の変哲も無い黒目のはずなのに、鈍く光って見える。

 色の宿らないその眼球は、人間の目というより、むしろ昆虫の眼のように見えた。


「先輩ならもっと素敵になれますよね?」


 再びヤカンが持ち上がる。咄嗟に口を閉じるが、それだけでは液体の侵略は止まらない。水が鼻腔を容赦なく蹂躙する。苦しい! 痛い! 息が!


「ガハッ! ゲブッ! ぐうっ…」


 すぐに顔を横に向け水の侵入を防いだが、それでも数十mlは飲んでしまったのだろう。鼻から喉までが満遍なく熱く、痛い。目の神経にもダメージを受けたのか、涙まで溢れてきた。

 陸地で溺れるなんて、そんな間抜けな死に方あってたまるか。


「顔を背けるなんて淋しいじゃないですか」


 椿は薄く骨ばった両手で俺の顔を挟み、無理やり上向きに固定しようとしてくる。

 ふざけるなよ。お前の思い通りになどなるものか。


「痛っ……!」


 椿が咄嗟に俺の顔から手を離す。当たり前だ。俺が奴の指を噛んでやったからだ。圧倒的に有利な状況下で油断していたのだろう、ざまあ見ろ。


「本当に動物みたいですね先輩……ふふっ」


 椿は心底愉快そうに噛まれた指を舐めた。傷つけるも良し、傷つけられるも良し、俺からのリアクションがあれば何でも楽しむ。コイツはそういうやつだ。

 この場を切り抜けるには椿の特殊な性質を理解し、どうにかトランス状態を萎えさせるしかない。

 己の身を守るためとは言え、椿を理解しなければならないとは……まったく不愉快なことだ。


「オイタする口は塞がなきゃダメですねえ」


 椿は俺の身体に馬乗りになり、ゆっくり前進してくる。身をよじって抵抗するも、椿を振り落とすことはできなかった。

 そして椿の太ももが俺の両頬を挟み、完全に頭が固定された。再びヤカンが傾き始める。


「『愛を注ぐ』っていい言葉ですよね。愛というのは時に一方的で、避けようのないものなんです。あっ、『愛に溺れる』って慣用句も今のシチュエーションにぴったりですね。それから……」


「うっ、ゴボッ! ゲフゲフッ!」


 途中から椿の話を聞く余裕もなくなった。溺れる。死ぬ。咳のしすぎで気管支までイカれてしまいそうだ。


「先輩……真っ赤になっちゃってリンゴみたい。もう少しで食べ頃ですかねえ」


 この姿勢だと椿の醜怪な表情がよく見える。悪夢の具現化が俺の上でケタケタと笑みを浮かべているのだ。ここが地獄か。

 

「さあもう一度……あら? もう水がなくなっちゃいましたね。補充しなきゃ」


 椿はのっそりとした動きでベッドから離れた。肺の上に乗っていた圧迫感が薄れる。

  

 ここだ。ここで椿を止めないと、もう俺の身体も精神も正常を保てそうに無い。

 どうする? どうすればこの場を切り抜けられる?

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