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32 ロリィタとイノシシ

 「【注意喚起】先週の金曜日、帰宅中の工学部学生がイノシシに襲われ全治二週間の軽傷を負いました。学生各位はイノシシ等の野生生物に遭遇した場合、生物を刺激せず、静かにその場を離れるようにしましょう」


 パソコンで大学からの事務連絡を流し読みしていると、注意喚起のメールが目に入った。

 また学生がイノシシに襲われたのか……この大学に入ってから同じ内容の注意を何度も見ている気がする。毎年、どころか三ヶ月に一回くらい襲われてないか?


 しかし何をトチ狂ったか、うちの大学はイノシシの子どもである「うり坊」をマスコットキャラクターに認定している。

 大学近隣で時々うり坊が出没するから、という安直な理由でゆるキャラ的なやつが生まれ、今では学内ポータルサイトにうり坊が侵出し、大学生協でぬいぐるみまで売られる始末だ。


 確かにうり坊はかわいい。俺も何度か見たことはあるが、あのモコモコとしたフォルムに愛着が湧くのはわかる。

 一方で成獣のイノシシと実際に対面した時の緊張感たるや!

 大型バイク並みの質量を持つ物体が、時速40kmでためらいなく突っ込んでくる恐怖。「人間も所詮は獣の一種でしかない」という事実をまざまざと思い起こされる。

 丸腰の人間はイノシシに対処する術を持たない。我々はいくらか知恵のついた、力の弱いサルに過ぎないのだから。






「武永くん、奴を倒せるか?」


「逆に訊くが倒せると思うか?」


「うむ……無理かもしれんな」


「かも、じゃねえよ。どう見ても無理だろうが」


 今日の四限は村瀬も出席している講義だったので、そのまま一緒に帰る流れになったわけだが……

 目の前の一本道を半ば塞ぐように、1.5メートル級のイノシシが徘徊している。鼻をヒクヒクと動かして、何やら食べ物を探しているようだ。


「遠回りして帰りたいところだけど、ボクはこれからバイトがあるんだ」


「奇遇だな、俺もバイトだ。回り道してる時間は無いし、走って切り抜けるか」


「オイオイ武永くん、見てくれこのヒールを。走れると思うか?」


「知らん。スニーカーを履いてこい」


「ロリィタファッションにスニーカーは似合わんだろうが。キミは馬鹿なのか?」


「ロリィタ服をやめろって言ってんだよ!」


 立ち止まって不毛な言い争いを続けているうちにもイノシシはだんだん距離を詰めてくる。

 今までも何度かイノシシに遭遇したことはあるが、奴らは基本に引き返すことを知らない。そのため、イノシシに遭遇したら脇道に逃げ込むのが定石なのだが、あいにく今いるのは逃げも隠れもできない一本道である。


 イノシシが人を襲うのは鞄や袋に食べ物が入ってることを学習してのことだと聞く。つまり鞄を投げ捨てればそちらに気を取られ、逃げ切ることも可能だろう。

 特に村瀬の鞄は、真っ白でキラキラした装飾がついているため注意を引くにはうってつけだ。

 村瀬には悪いが、一度鞄をイノシシの付近に投げてもらい、後で回収するのが無難だろう。


「よし村瀬、鞄を投げろ!その隙に逃げるぞ!」


「承知した!」


 村瀬は勢いをつけ、イノシシの眼前に向かって鞄を放り投げた……俺の鞄を。

 グシャッ、と嫌な音が鳴る。


「オイ待て馬鹿何やってんだ!」


「えっ、だってキミが投げろって……」


「俺のじゃねえよ!ああ今ので電子辞書潰れただろチクショウ……」


「過ぎたことは気にするな、人間前向きに生きるのが肝要だ。ハッハッハッ」


 村瀬は俺の肩に手を置いて軽快に笑った。コイツ……非常時じゃなかったら締め上げてやってたぞ。


 一応目論見は外れておらず、イノシシは残骸と化した俺の鞄を鼻でまさぐっている。その隙をついてイノシシの脇を通り抜け、背後に回り込むことができた。

 あとは逃げるだけだが、俺の鞄には財布やらスマホやら大事なものも入っているので放置しておくわけにもいかない。


「どうした武永くん? 逃げないのか?」


「誰かさんのせいで逃げられないんだよ、丸腰でバイトに行けるか」


「そうか……気の毒だったな。ではボクはこれで」


 何事もなかったかのように村瀬が去ろうとするので、彼女の生白い手首を掴む。

 人の鞄を犠牲にして、自分だけ帰れると思うなよ……


「放せ! ボクはこれから家庭教師先の可愛い女の子と濃厚な授業をだな……!」


「なおさら放すかボケ!」


 しばらく村瀬と取っ組み合いをしていると、いつの間にかイノシシはその場を去っていた。鞄に食えるものが入っていないことがわかり、興味をなくしたのだろう。

 急いで鞄を取りに戻る。幸い中に入っていた電子機器類に大した損傷はなく、どうやら故障もしていないようだった。

 

 一安心したところで村瀬に文句を言ってやろうと振り返ると、既に彼女の姿は小さくなっていた。走れないんじゃなかったのかよ!

 あの雌狸……覚えてろよ。








「っていうことがあったんだよ。ひどいと思わねえか、浅井先生」


「何を言う。キミだってボクの鞄を投げるつもりだったんだから同じ穴のムジナじゃないか」


「だからって確認も取らずに投げるか普通?」


「ビビりまくったキミが投げろと急かすからじゃないか」


「は? ビビってないが? あんな獣一匹、コンディションさえ良ければ判定勝ちできるが?」


「せめてそこはKO勝ちにしておきなよ……虚勢すらもショボい男だなキミは……」


 浅井先生は俺と村瀬の不毛なやり取りをニコニコしながら聞いている。自分で言うのも何だが、こんなやり取りを聞いても時間の無駄にしか思えないが……

 法学部から少し離れた大食堂までわざわざ来てもらったのに、醜い言い争いを見せることになるとは遺憾である。

 しかし村瀬に言われっぱなしなのも収まりが悪いので仕方ない。


「良子ちゃんからもこの男に何か言ってくれ。まったく、度胸がないというか思い切りが悪いというか……」


「うるせえ。お前こそもっと慎重に作戦を立ててだな……」


「ふふっ、二人は似た者同士なんだろうね」


 浅井先生は俺と村瀬の顔を交互に見てクスクスと笑う。似ている? 俺と村瀬が?


「いやいやそれはないだろ良子ちゃん。こんな平凡で皮肉屋でビビりな男と一緒にしないでくれよ」


「そうだそうだ。こんな珍妙で偏屈で無遠慮な奴と一緒にするなよ」


 浅井先生はうんうんと頷いて、静かにをお茶を飲んでいる。ダメだ、全然説得できてなさそうだ。

 隣にいる村瀬を見ると、俺と同じく不満げな感情を顔いっぱいに表していた。まったく、どこが似ているというのだろうか……

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