29―2 想い人と演奏会 その2
「あら、本庄さん。あなたも演奏会に?」
「ええ、運よく当日券を買えましたので。そしたら偶然、お二人を見かけたわけです」
白々しい笑顔を浮かべながら椿が近寄ってくる。何が偶然だ。俺が今日家にいないことに気づき、そこから推測してわざわざ演奏会に来たのだろう。椿ならその程度はやりかねない。
しかし、コイツは浅井先生にちょっかいをかけようとしてことごとく失敗しているアホだ。おそらくだが、浅井先生は不思議な力に守られており、邪な者には手を出せないのだろう。
それならば過剰に恐れる必要はない。淡々と椿を追い返せばいいだけだ。
「で、何の用だよ」
「別に? 見かけたから声をかけただけです。お二人こそどちらへ行くご予定で?」
「えーっと、私たちはこれからちょっとご飯にでも行こうかなって……」
「それは素敵ですねえ。折角の機会ですし、私もご一緒しても?」
椿は気色悪い猫なで声で浅井先生に問いかける。あえて俺に尋ねないところがいやらしい。
人のいい浅井先生がここで椿の「お願い」を無下にすることはないだろう。
タチの悪いやり方だ。浅井先生に直接危害を加えることはできなくても、俺と浅井先生が親密になるのを妨害する程度なら可能というわけか。
そりゃあ毎回邪魔できるわけではないだろうが、「デートがうやむやになった」という記憶は俺にも浅井先生にも残り続ける。男女の仲というのは些細なきっかけでヒビが入るものだ。それも付き合う前の、半端な関係の男女ならなおさら。
そこまで計算しているのかはわからないが、とにかく陰湿なやり口である。コイツ本当に人間か? 悪意の塊か何かなんじゃねえの?
「俺は来てほしくないんだが……」
一応抵抗は試みてみるが、俺の控えめな発言を椿は鼻で笑った。
「今は浅井さんの意思を訊いてるんですよ。先輩のお気持ちは後でじっくりねっとり聞いてあげますから」
「えっ? 私は……構わないけれど」
「そうと決まれば早速行きましょう。ふふ、この辺りはお店がたくさんあって楽しげですねえ」
楽しんでるのはお前だけだろうが、と言いたい気持ちを堪えつつ、先を行く椿についていく。
ふと浅井先生の表情を見ると、少し残念がっているように見えた。きっと彼女にも葛藤があったのだろう。できれば椿抜きでゆっくりしたいが、正当な理由もなく椿をのけ者にするのも申し訳ないと思ったのか。
面倒な奴にすら注がれる無償の慈悲。浅井先生のそういうところが、俺は……
「で、どこに行くつもりだよ」
「そんな怖い顔しないでくださいよ。普通のお店で普通に飲みましょう?」
椿が指差した先にはチェーンの個室つき居酒屋があった。焼き鳥メインで安さが売りの店だ。椿にしては無難すぎるチョイスでかえって不気味だが、拒否する理由もない。
「浅井先生もここでいいか?」
「あっ、うん。そうね……」
浅井先生の気乗りしない反応を見て椿の意図がわかった。「デート」という雰囲気をぶち壊しにするために、わざわざ安居酒屋を選んだのだろう。
いちいちやることが狡いな……
「あれ? お二人はこういうお店嫌いでしたか? 私いま手持ちが少ないんですよねえ」
「白々しいんだよテメェは。さっさと入るぞ」
「はぁい」
日曜の夜だけあってか、店内はそこそこに賑わっており、個室でも周りの声は騒がしく感じるほどだった。男友達数人で来るなら最高の店なんだがな……
「さあ今日は大いに飲みましょう。楽しい夜になりそうですね、先輩?」
「お前がいなけりゃな。浅井先生、確かビール飲むよな?」
「ええ、いただこうかしら」
バイト先の飲み会で何度か浅井先生がお酒を飲むところを見たことはあるが、そんなに悪酔いをしている印象は無い。
折角のデートを椿に潰されたのは気に入らないが、今日のところは無難に切り抜けてそこそこで帰ろう……
それから一時間。いつの間にこうなったのかもはや覚えていないが、俺の左ももには椿の頭が、右ももには浅井先生の頭があった。二人してぼんやりと俺の顔を見上げている。
「先ぱぁい……私もう動けません……早くお持ち帰りしてください」
「両ひざに花なんて、武永先生も罪な男ね……ふふふふふ」
「あの、酒臭いんでちょっと二人ともしゃべらないでもらえる?」
「そんなに臭いますかぁ?じゃあ先輩の口で塞いでくださいよぉ」
「あっ、ずるいわよ本庄さん。私も私も」
「ざんねーん、先輩の口は一つしかないので、浅井さんの席はありませーん。ね、先輩?」
「そんなことないわよね武永先生? 私を見捨てないわよね武永先生? 聞いてる? ねえ聞いてる?」
何だこれ面倒くせぇ……いい加減足が痺れてきたのでどいてほしいのだが、二人とも無理に動かすとその場で吐きそうで怖いんだよな……
ナンパの手法なんかで「女の子を酔わせて……」みたいなやり口があると聞いたことはあるが、俺には向いてなさそうだ。酔っぱらい相手にどうこうする気が一切起きない。できればすぐに帰りたい。
ああ、なんでこんな状況になったんだろ。俺自身も結構頭がぼんやりとしているのだが、こうなった経緯がうっすら思い出せてきた。
飲み放題コースであることをいいことに、椿はとにかく浅井先生にお酒を飲ませ続けたのだ。ある時は優しく、ある時は泣き脅しで、ある時は陽気に、ひたすら酒を勧める。浅井先生も律儀なので、出されたものはすべて飲み干してしまった。
しかし椿にとって誤算だったのは、浅井先生のアルコール耐性。飲めども飲めども浅井先生にはダウンする気配が無かったのだ。
当然、人に勧めるからには椿自身もそれなりには飲まねばならない。浅井先生の半分以下のペースではあったが、徐々に蓄積するアルコールは椿の肉体をも蝕んでいった。
そして出来上がったのが、この惨状である。
「武永せんせい~本庄さんがいじわるする~」
「何れすか浅井さん。言いがかりも甚だしい。元はと言えば貴女がですねえ、私の先輩に手ぇ出すからですねえ」
「武永先生はあたしのだもん~」
「あー、はいはい……」
適度にお酒を飲んだ浅井先生は色っぽいのだが、ここまでベロベロになってしまっては図体のデカい幼児と変わらない。
子どもは好きな方だと自負しているが、さすがに幼児退行を起こした人間にまで慈愛を注げるほど、俺もできた人間じゃないんだよな……
何とか片付けて早く帰りたいが、この二人を置いていくわけにもいかないし、どうしたものか……




